耳無し重助

 戦前、昭和一桁年。
 神奈川の相模で重助は生まれた。五人兄弟の末子であった。
 間もなく戦争が始まり、幼く貰い手がつくうちに重助は神奈川のさる海辺に在る料理屋を営む養父にもらわれた。
 とはいえ養父としても別段重助を可愛く思い引き取ったわけではなく、単に重助の実親にある何がしかの恩なるものを晴らそうとしたに過ぎない。
 戦時中でも魚は獲れる。漁港の町ゆえにその食生活は都会の人間に比べれば比較的真っ当なものだった。

 しかし、決して線が細かったり小柄であったわけではないけれど、色白で紅を差したような唇の重助の容姿は、浅黒く大柄の者の多い漁港では多少奇異であり都会者の様相であった。
 当時、「漁業関係者はみんなヤクザと思え」というほどに漁港の人間は反社会的勢力と密接に関係していた。漁業はシノギであり、荒っぽい連中にとって奇異なる捨て子の重助はイジメ相手として格好の標的となった。

 養親からはことあるごとに「鮪漁船に乗せちまうぞ」等と脅された。実際鮪漁船の多数停留する港町であったから、実親に捨てられた経験のある重助にとってその脅しは現実の刃を突き付けられるに等しい。
 
 養親のいる家にも外にも居場所のない重助が物思いに耽りがちな陰鬱な性格を獲得するようになったのも事の次第としては自然の成り行きである。
 とはいえ徴兵制が始まり徐々に目の上のたんこぶである大人の男たちが消えていくと、重助の気持ちは幾分晴れやかになり安穏な暮らしを得ることができた。

 しかしそれも長くは続かなかった。
 10代も後半となると徴兵年齢の引き下げに伴い、重助は東海から移転したばかりの横須賀鎮守府で訓練を受けることとなった。
 戦地で重助は勇敢な男だと言われていた。しかしその根底にあるのは、自分の帰る場所は何処にもない、いつ死んでも構わないという捨て鉢根性であった。

 しかし組織として動いていれば、捨て鉢となるのを許してくれないこともある。
 満州において作戦中、自らの無謀によってそれを庇った同期を死なせてしまうことになり、重助は上官から叱責を受けることとなる。
 懲罰用の鞭で百叩きを受け、その打撃の苛烈さによって右耳の上半分と聴力を失うことになった。

 聴力は兵士にとって重要な能力であり、それを失った重助は隊にとって足手まといでしかない。重助は他の傷病兵とともに日本に帰投させられた。
 現代と異なり、満州から帰郷するのも容易なことではない。道中亡くなる友人たちも多くいたが、衛生面の問題もあり重助は仲間とともにその亡骸を腐りきる前に海に放った。右耳の下半分は、そのとき代わりに腐り落ちて失うことになった。

 帰郷すると、まだ若い男の少ない時期であったこともあり養母から許嫁として近所の女を紹介された。だが、丁度そのとき養親の一人娘であるギンが奉公から帰ってきていた。
 奉公先の旅館で生意気な客を殴るという狼藉を働き暇を出されるほどお転婆であったギンは、再度奉公に出たくないばかりに重助との間に子をもうけた。
 そんなことで養親は致し方なく娘と重助との結婚を認めざるを得なかったのである。

 こうして重助は養親の料理屋で板前として働くこととなった。
 右耳を失っていたとはいえ肉体は健康な若者である重助は労働力として田舎で重宝がられ、商売はうまくゆき、料理屋は民宿に改築した。
 終戦して郷里に男たちが帰ってきてからも、意気消沈した他の男たちとは別に既に自分の城を持っていた重助は幅をきかせることができた。目の敵にされていた漁師たちからも「耳なし重助」と親しまれるようになった(普段は漁師用の耳あてのついた帽子で耳を隠していたのだが)。
 団鬼六等の文士や大物政治家との付き合いも生まれ、商売は順調、ギンとの間に三男一女の子供をもうけ、当時珍しく4人とも東京の一流4年制大学にやった。

 月日は流れ、末娘に男児の孫が生まれた。男児は色白で、重助にそっくりだった。
 三男児の孫は嫁に囲われ殆ど顔を見たことはなく、いっとう自分に懐いていた末娘がやっと近くに住み、孫を触らせてくれたのであるから、ほぼ初孫同然で可愛がった。
 娘に無断で孫を連れ出して漁船に乗せて勝手に遠征したり、旅行に連れて行ったりしては、娘に怒鳴られることが度々であった。

 重助が還暦を迎えた頃、いつものようにビールケースを抱えたときに、ぎっくり腰になってしまった。
 ぎっくり腰自体には過去に何度かなってはいたものの、今回は大層重く骨髄に注射を打ったり手術したりしても結局直らず、数ヶ月入院することになってしまった。老齢になるとはそういうことだ。
 やっと入院生活が終わり家に帰ったとき、民宿は既にギンと子供たち他従業員の手のみで回るようになっていた。俊敏に動くことのできない重助は足手まといでしかなく介入する余地はもはやなかった。

 「居場所」というものに固執していた重助にとって、自らの城である民宿にさえ自分が無用であるという確信をしたとき、自分の人生や自分の存在について大きな諦念が生まれたことは間違いない。重助の家は民宿の真横にあったから、猶更痛感していたことだろう。
 そこから痴呆が進み、人の言葉をきけなくなるのに半年もかからなかった。

 ただ週に何度か正気に戻る日があった。それがよかったのか悪かったのかは判らない。

 ある夏の日、孫が確か小学校2年生の頃だったと思う。夏休み、気まぐれに娘一家が泊まりに来た。タイミングよく重助は正気であり、久々に娘や孫との交流を楽しんだ翌日、家族が民宿の仕事に出かけ家からひと気が消えたのを見計らい、首を括った。

 実は家には、未だ孫が夏休みをいいことに寝ていたのだが、そんなことを気に掛ける余裕は重助にはなかった。いつ自分が正気を失うか定かではない、ことは一刻を争っていたのだろう。
 そして起きてきた孫によって、障子の梁に首を吊っている重助は発見されることになったのである。

 孫は、いや私は、最初梁にかかったモノを祖父だと認識できなかった。
 何か異様に人の形をした、人の気配のしない人ではない何か。モノとしてあまりに雑然としていて、危うく気づかず外に遊びに出てしまうところだった。しかし再度よく見てみると、それはやはり祖父の抜け殻がそこにあった。
 足を引っ張ると、弾力のない皮膚のぶよぶよとした感触がこの体に魂の宿らないことを教えてくれた。昨夜、「マグロの目玉、くうか?」と変わらず無邪気に笑っていた祖父はもういなかった。
 とにかく尋常でない事態であることはわかった。裸足のまま外へ駆け出し、母を呼んだ。

「お母さん、お母さん!!」

 民宿に行って探してみたけれど、そんなときに限って母の姿は見当たらないのである。

「おばあちゃん!おばあちゃん!!」

 二人して姿を消してしまっていた。不安でたまらなかった。足から血が出るほど走れども走れども、知ってる顔が見当たらない。まるで誰もいない世界に置き去りにされたような感覚だった。
 偶然、私の姿を見た近所のおばさんが、「ぼっちゃん、どうしたの」と話しかけてくれたおかげで、そこからは大人たちが全てを担ってくれた。

 それが私の人生で最初に見た遺体である。

 葬式は大名行列のような大がかりなものとなった。地元で実直に商売をしていれば、自然に愛されていくものだ。
 耳無し重助ただ一人だけが、自分自身の卑しい生まれと醜い容姿を理由にして、自らに居場所を与えなかったのだ。勿論、人間はそんなに単純に割り切れたりはしないのだけれど。

 数年後の夏、民宿の目の前にある海を泳いでいると小判鮫の姿を見つけた。近海では珍しい魚だ。
 泳いで追いかけていると、小判鮫はどんどん逃げて行った。海上のブイのもっと遠く、そして深海へ逃げていく小判鮫を追って私も潜った。

 「まずい、戻れなくなる」とそう気づいたときには時すでに遅く、海上に出ようとしてもまるで何かに掴まれたように身体が海中から上がらなかった。じきに意識はなくなり、気づいたときには病院だった。

 そのとき右耳の鼓膜を失い、聴力を失った。あれからずっとカナヅチである。

 そして運命的なものを感ぜずにはおれなかった。重く陰鬱の性格に、容姿や後天的な特徴まで似ているのだ。
 私はおじいちゃん子だったから、別にそれは嫌なことはでない。ただ身内の死は呪いのように私の心の一部を死で覆うようになった。

 月日が経つにつれ、人が死ぬという事実を遠い世界のフィクションではないと強く感じるようになった。今はただ、一刻も早くその日が来ることを願っている。

バレンタインデーを許すな。

 赤道から上下20度経度を広げた高温多湿の熱帯、特に東南アジアにおける一帯を「カカオベルト」と呼ぶ。
 似たようなものにコーヒーベルトというものがあり、これは経度上下25度までと範囲が広い為、カカオベルトの方が範囲が狭い。

 しかし実際には高地でも栽培可能なコーヒーと異なり、カカオは低地の熱帯でなくては育たないという点でさらに栽培可能な地域は絞られる。

 高地での農業は比較的牧歌的である。低地より気候が涼しく、虫が出ず、感染症のおそれも少ない。
 他方、低地のカカオ栽培は、コーヒーより高値で取引される利点はあるものの虫や感染症のおそれを常に抱えながら農作業に従事することになる。
 つまり、人が死に易い土地なのだ。

 人が死に易い土地は、当然命の価値も軽い。
 従事者が死に失われた労働力を補うのに、人身売買が行われる。その主体となるものは、当然暴力によって御しやすい子供たちだ。
 子供が子供の面倒を見、農業を教え、貧弱な装備ゆえに虫や感染症で死のうとも、戸籍のない子供の足跡を追うものはいない。死体は生ゴミとともにその辺の塚に放られ、風化を待つだけである。

 熱帯はまたコカインの原料となるコカノキの栽培にも適した土地でもある。木を隠すには森といったもので、低地に生い茂る森林は遠目がきかない。認められない何かを隠しておくのに丁度いい。

 無論コカノキの栽培も子供たちが担うことになる。
 育った子供たちは、少女のうち美しく育った者は、自らが育てたコカによって狂わされ再度売られることになり、その他は新たな労働力を生む人身御供となり、少年たちは人身売買、麻薬ビジネスに従事していくことになる。
 彼らに罪悪感はない。それが彼らの育ってきた道程であり、日常生活の一部なのだ。

 非合法なビジネスのキャッシュフローの基礎と体裁を健全に装うのが、チョコレートの需要だ。
 世界的な人口増の傾向もあり、チョコの需要がとどまることはない。
 そのたびに東南アジアのどこかで労働力が足りなくなり、子供が売られ、理不尽な病死を経、蜘蛛の巣様に犯罪の連鎖を紡いでゆく。誰もチョコを求めることがないのなら、子供が売られることはなく、コカノキを覆い隠すベールも存在しはしなかった。

 世界のどこかでバレンタインデーというものがあり、少女が少年に恥じらい混じりにチョコを手渡すとき、その手は同年代の少年少女の血で紅く染まっている。

タイ旅行記

 1月の最終週、タイに行くことにした。
 以前より周りからしつこく勧められていたことと、職場の閑散期だったこと、滞在8日間で航空券と宿を併せ3万9千円の格安旅券が手に入ったこと、もうとにかく日本にいてもたまらない心境であったこと等々、種々重なりタイの首都バンコクに到着したのは25日の夕方だった。
 巷で話題になっていたコロナウイルスの影響なのか機内はいつもより空いていたし、片道7時間のフライトももはや慣れたもので、映画を見て寝て、気付いたときには現地にいた。
 極寒の日本と対照的に現地は気温30度以上の陽気で、タイ独特の香辛料の臭いに乗せられ、冬季うつのように沈んだ気分も少しずつ晴れてきた。
 空港のすぐ隣にある古びた駅から、博物館に置いてある骨董のような電車に乗り込み市内へ向かった。
電車はギシギシ軋み、自重で壊れてしまうのを恐れるようにゆっくり、慎重に走った。この電車もそろそろ廃線となりモノレールに置き換わってしまうらしい。線路と並行して工事中とおぼしき近未来的な駅舎が現れては消え、途中の休止線には廃棄された電車が何台もうち捨てられていた。
 車窓から外を見ると、街には路傍で寝る浮浪者がたくさんいた。暖かいから、その辺で寝ていても死なないのだろう。
 そうして呆けていると、ふいに車掌が私の手に捕まえていたレシートのような乗車券をふんづかんで取り上げた。驚いて顔を上げると、彼は乗車券にハサミを入れ、「Have a nice day」と笑顔を見せた。
 女性の化粧や人々の顔つき、肌の色を見ていると、中国の南方人に近い人種なのだと思う。だけどタイの人たちはどうも愛想がいいらしい。中国人の不愛想に慣れているから、くすぐったいような気持ちになった。
古い列車を降り、近代的な地下鉄に乗り換え都心に出る。
 地下鉄の乗車システムや車両は中国の内陸で見たものと同じだった。ベンダーで行きたい駅を選び、現地通貨のTB(タイ・バーツ)を入れると、コイン型のタッチ式乗車券が出てくる。失くさないようコインケースに仕舞った。
 目的地のスクンビット駅で降り地上に出るとTerminal21という大型のデパートがあった。
 初日だし、まともなものを食べて贅沢しようと思い夕食を食べた。タイ料理にはあまり縁が無かったけれど、タイティーという甘いオレンジ色のミルクティも、そのまま食べられる殻の薄いカニのソテーもグリーンカレーも中々どうして悪くないと思った。
 道中、道に迷っているマスクをつけた中国人の集団がいて、少し迷ったものの「まあ春節だからね」と思い、中国語で道案内をした。
 しかし私のことだから、大抵こういう慣れない善行をするとそれが反動となり自分の不幸となるのがいつものことだ。だから冗談半分でツイッターに「また徳を積んでしまった。しかしこれが後に不幸となって返ってくるのだ」と予言めいたツイートをしたのだけれど、まさかこんなにすぐに自らの不幸となって返ってくるとはさすがに思ってもいなかったのである。

 スクンビット近くに取った安宿は一部屋に2段ベッド×4置いてあり8人で寝るような、いわゆるバックパッカー向けの宿だ。しかしシャワーからはちゃんとお湯も出るし、トイレも清潔でトイレットペーパーも完備していたし、どうせ盗られて困るような物などさほどありはしないので、欧米人の足が多少臭うこと以外、特に不満はなかった。
 2日目は朝から近所の寺院を回った。
 バンコクは非常にコンパクトな街で、都心に近代的な建物も密集していれば、~~ワットのような伝統的な観光地も近隣に点在している。
 適当に町を歩きながら、写真をとって旅愁に浸った。
 暑いから汗をよくかいた。ジメジメしているわけではないので不快ではなかったし、便利なことにセブンイレブンファミリーマートみたいな日本のコンビニがそこら中にあったので水分補給するのにもことかかなかった。喉が渇く度、現地のフルーツティを片っ端から試していくのが楽しかった。
 そうやって町を歩いて堪能していると、いかにも客引きみたいな胡散臭い男が話しかけてきた。
「君は中国人?俺も中国人なんだ、血だけはね。生まれがタイなんだよね」
「おれは日本人だよ。悪いけど多分、あんまり君の話に乗ってあげられないと思うよ」
「おっと、じゃあ30秒でいいから聞いてよ。この辺りは寺院が点在してるだろ?歩いて回るのは大変だよな?でもトゥクトゥクなら便利だし、楽しいだろ。でもいちいち捕まえるのは大変!そこで、俺の紹介でその辺のトゥクトゥクに交渉して200TBでここらを一周できるようにしたい。どう、200TBだぞ!」
 まくしたてるように地図を片手に説明する男を見て、最初は相手にしないほうがいいかなと思っていたものの、200TB=600日本円程度という価格を聞いて思い直した。丁度トゥクトゥクにも乗ってみたいと思っていたところだし、まあ話に乗っても良いかなという気持ちになってきた。
「よし、決まりだ!」
 彼が手を挙げると、仲間と思しきトゥクトゥクが一台道端に停まった。
「よろしく!」
 運転手は気さくなおっさんという感じだった。そのままトゥクトゥクに乗り込み、近くの寺院まで向かった。グィン!!とものすごい勢いで飛ばしていく。原付を三輪にしたにすぎないような構造だからなのか、加速は急だし揺れもひどい。その様子を写真で撮ったり配信たりしていると、スマホを落としそうになり運転手に「モノ落としても取りに戻らないからな!」と釘を刺された。
 さて到着した寺院にはいわゆる涅槃仏みたいなものがあり、写真を撮ろうとすると「写真は禁止なんだ」と止められた。
 寺院の中は、やはり町中に比べて多少静かな雰囲気だったけれど、台湾や中国、日本の寺社仏閣で感じるようなあの張り詰めた静謐さはそこにはなくて、やはりそこもタイの陽気なお国柄なんだろうなと思わされた。
 タイの仏像は口紅を塗っていたり金色だったり真っ白だったりして、写真では当然何度もみたことがあるようなものだったけれど、実際に見るとではやはり奇異な感じがした。
 そうして幾つか観光地を回っていると、途中で「ここ見ていけ」といってトゥクトゥクが何かのショップみたいな店の前で停まった。
 店内に入るとテーラーが「どういうスーツが欲しい?」と藪から棒に聞いてくるので、「いや、おれはスーツは要らないんだよ」といって即退店した。
 すると店外で待っていたトゥクトゥクのおっさんが少し不機嫌になって「俺達はこういうお店に客を案内することでガソリンの無料クーポン券を奴らの組合から貰ってトゥクトゥクを走らせてるんだ、別に買わなくてもいいよ、もちろん買ってくれたほうがありがたいけど、でもせめてちょっとカタログを見て「どうしようかなぁ」みたいな態度はとってくれよ!」等と言うのだった。
 いや知らんがな、以上の何者でもないわけだけど、まあ、良いでしょう。そういうコントに付き合うような日があってもいい。何しろタイの陽気でおれは機嫌が良いのだった。
 そんなわけで次に訪問したテーラーでは散々カタログを開いた挙句、「〇〇mmのストライプの生地のラインナップはないのかい?ない?!オー、じゃあここでスーツは買えないよ、んじゃ!」といって颯爽と退店すると、外でトゥクトゥクのおっさんが「いい演技だったぜ!」と親指をたてて手をあげてきたので、ハイタッチを返した。今から思えばやかましいという感じだけど。

 こうして一通り観光を終え、再びその辺を散歩したり、ウィークエンドマーケットと呼ばれる週末しかやっていない夜市にいったり、マッサージ店で疲れを癒したり(マッサージといってもイヤらしいものではない。この国にきて思ったのだけど、どうやら東南アジア系の女に私は全く興味がないらしい)してから、ホテルの近くにある埃っぽいカフェバーに入った。
 暖かいテラスでモヒートを飲みながら陽が落ちていくのを眺めていると、この国に沈んでいく邦人が多いのは全く頷ける話だなと思った。
 町にはいわゆるオネエが溢れていて、目の前の道をカツカツ歩きながらあの独特のトーンの声で何をか喚いていた。こんな光景、日本では二丁目の朝くらいしかお目にかからない。本当にジェンダーフリーの国なのだなと思った。
 翌日の予定をゆったり決め、2日目は終わった。


 3日目、英語でmedical canavis clinicについて検索すると、すぐに医療用大麻を扱う現地の病院がいくつかヒットした。
 当然のことながら外国人に処方箋もなく大麻を配るような病院は殆どないけれど、予め英語の掲示板等を見て目星をつけていたし、前日にバーでいかにもやってそうな白人に聞いてみたところ「そこなら間違いない」という言質が取れていたのである。
 線路脇や高速の下にある貧民窟を抜け、用がなければ到底いかないようなマイナー駅の、古びた汚らしいビルの一角にそのクリニックはあった。
 他の店舗は全て潰れてシャッターが閉まっている中、そのクリニックだけが燦然とコンビニのような光を放ち、堂々と「THC(医療用大麻の成分)」なる看板を掲示していたので殆ど迷うこともなかった。
 クリニックに入り「医療用大麻が欲しいんだ」というと、赤い服を着た派手な化粧の小柄な老婆が棚から色々物色して目の前に並べた。
 大麻入りのお茶が300BT、大麻オイルが1000BT、大麻コーヒー500BT、、、私は迷うことなく一番効能の高そうなオイルを購入することにした。
「舌の裏に数滴たらして、2分置いときなさい、そしたらあなた、ハッピハッピーよ!」等と老婆がガハハと笑った。
 戦利品をカバンに仕舞い、さてこの後どうしようか、と思いながら道路を横断していると、右側からトヨタの中型のピックアップトラックの影が一気に大きくなってくるのが判った。
 「まずい」と直感し後ろに飛びのいたものの、踏み込んだ足の上にトラックが乗り上げ、ミシミシ、という音がした。
 身体は半身避けてはいたものの、トラックのバンパーが横腹に入り体が吹き飛ばされる力を感じた。
 しかし右足がタイヤに捕まっていたので私の体が吹き飛ぶことはなく、エネルギーは潰れた右足を支点にして遠心力をもって体をアスファルトにたたきつけた。そのとき後頭部を強打して、頭の中で卵の割れる音を聞いた。
 ゴーン・ゴーン・ゴーンという鐘のなる音が聞こえ、その辺を歩いていた男たちに担がれ道路の中央分離帯に寝かされた。
 意識が薄れていくのを感じていたが、両手だけ動かすことができた。「痛みを感じてない今のうちに靴を脱がなければ」と思い腿を引き寄せ、靴下と靴を脱いだ。足の感覚は完全になかった。
 手に入れ墨の入った現地の男の一人が、道路に落ちた私のスマホを拾い上げ、私の手に握らせてくれた。
 とっさにその辺の写真をとり、ツイッターに事故報告をした。
 現地の人が何かを言っていたが、耳が聞こえないので「警察と病院だ」とだけ何とか口にした。
 暫くすると警察がやってきたものの、意識だけ残っている私を見て埒が明かないという態度で加害者の男に「病院に連れてけ」と指示を出していた。
 男の車に運ばれ、病院に運ばれている道中、後部座席から日本人が日本語で「ああ、やっちまったよ」と話しているのが聞こえた。
 日本人が乗ってたのか、、、と思っているうちに、ただ感覚がないだけだった両手足や性器から血液が引いていくのを感じた。
 ああ、ここで意識が終わる、もう二度と起きることはないかもしれない、と意識が薄れていくので、友人にお別れのラインを送ったところでブラックアウトした。
 次に気付いたときには病院の担架に乗せられ、運ばれているところだった。
 幸いなことに両手は動いたので、写真を撮りつつ看護師に頭を打ち付けたと告げたけれど、「ええ」という迷惑そうな顔をするだけで、レントゲンを取ったのは右足だけだった。
 何度も気を失い目醒めるということを繰り返し、気付くと手に痛み止めを握らされ、車いすに乗せられたまま病院外の担架が並べられたスペースに放置されていた。金を払った記憶はないのでおそらく加害者が払ったのだろう。
 しかし両手がわずかに動くのみで、自分の体を動かすことはできない。このまま朽ちていくのではないかと思ったとき、膝の上に載っている自分のカバンの中に入っているものについて思い出した。
 大麻...。あれは見つかったらまずいものだ。ここは病院だけど、身元確認のためにおれの荷物は漁られたりしなかったのだろうか。
 口が閉じられず舌が出たままで、涎が流れ出ていた。
 全神経を集中させカバンを開くと、オイルはちゃんと中に入っていた。
 オイルをスポイトで吸い上げ、そのまま舌に垂らした。売人の老婆は数滴といったが、結構な量を顎に流し込んだ。
 オイルの蓋を閉じカバンに放り込むと、目を閉じた。
 そして、私の意識は宇宙と一体化した。

 暗闇の中にいた。
 しかしこの暗闇は閉じた瞼の裏ではない、という確信があった。
 ただ暗く、無限の奥行きがあり、しかしそこには私の肉体を含めて何一つ存在しない虚無の世界だ。止むに止まれず私は唱えた。
「光あれ!」
 一瞬宇宙が閃光に包まれ、無限の光が無限の闇に吸い込まれていくのを感じた。
 依然闇ではあったけれど、原子の暗闇ではない。私は周囲の虚無を粘土のように固めると、地球と星々を飾った。光が反射し輝くのを見て安心した私は、空気・緑・動物・そして人間と文明を生み出した。
 そのとき私は、時間を物理的に扱うことができるのを感じた。
 カーソルをスクロールするように時代を進めると、子たる人らが争う姿が見え、私は2020/1/27/15:00、バンコク警察病院に受肉した。
 受肉するとみるみる神なる力が消えていくのを感じたので、女を生んだ。質量も質感もある、女の実体だ。女は私を慰めると消えていった。
 再度時間を物理として進め、18時頃まで時刻を進めると、誰かが放置された私の肉体に気付いた。
スクンビットのホステルに連れてってくれ」と頼むと、救急車で連れて行ってくれた。
  相変わらず右足は動かなかったが、そんなことはどうでもよかった。
  同室のロシア人に抱えられ布団に沈むと、そのまま翌日の昼まで眠った。


 4日目、目覚め、ツイッターで生存報告をして痛み止めを飲んだ。
 全身が痛い。右足の感覚はまだ無い。とにかく水を飲み、ツイッターで教えてもらった外国人向けのサミティベート病院が近くにあることを調べた。
 幼虫のような歩みで外に出て、健康体なら20分ほどの道程をえずきながら90分ほどかけてたどり着いた。
 外国人向けの病院よろしく、頭を打ったというとすぐ頭部CTをとってくれた。入院を勧められたものの、入院をすると面倒な手続きがいる旨を海外旅行保険を担っているエポスカードの担当者から聞いていたので断った。
 翌日再度脳神経外科に来るように伝えられ、何とかホテルに帰るとそのまま眠りに落ちた。
 5日目も体調が戻らなかった。
 17時に受診予定だったけれど、13時には病院についていた。4時間もある。そこで大麻を使い、時間を操作することにした。17時丁度、目覚めた。
 正確には、病院の待ち合いのベンチで泡を吹いているところを揺り起こされたのだが。
 その間、イヤホンで聞いていた音楽は脳の中でマリアージュされ、音が光の渦となって世界を覆っていた。
 CTの結果は異状なかったものの、体温が38度もあるので検査をするとインフルエンザだった。
 薬を渡された帰り、デパートに寄って何か口にしようと思ったけれど、固形のものは一切受け付けず、ゼリーだけ買い込んで帰宅した。
 ホステルに帰ると同室のロシア人がエアコンの冷房を16度に設定していたので、「寒冷地の出身だから熱帯に耐えかねるのかもしれないが、やめてくれ」と頼むも「暑いからイヤだ」すげなく断られた。
「おれは熱があるんだよ、武漢ファイア!」と咳を吐きかけると、「WTF!OMG!!」等と叫びながら埃だらけの扇風機の強風をこちらに向けてきて凍えるように寒く身体が震えて本当につらかった。
 そこから数日、帰国の日までひたすら高熱にうなされ、重い体をひきずって帰国した。
 未だに鼻孔にタイの忌々しい臭いが染みついていて取れない。もう二度とタイには行きたくない。
おわり

 

疾走

 

 先日、30歳の誕生日を迎えた。
 かつて「30歳まで生きることはないだろう」と思ったことのある多感な人たちの多くがそうだったように、私もそのご多聞に漏れることなくあっさり誕生日はやってきて、20代に何の余韻も残らなかった。

 よほど覚えづらい誕生日なのか、単純にこれまでさほど想われてこなかったというだけのことなのか、これまで「彼女」に自分の誕生日を祝ってもらったことがない。
 あんなに自分の誕生日を私が覚えているか気にしていたあの人も、結局私のことを覚えてはいてくれなかった。とはいえ今回は、その「彼女」自体いないのだけど。

 ただ、過去友人たちのほかに一人だけ祝ってくれた人がいる。Y子だった。
https://datchang.hatenablog.com/entry/2019/12/01/181847

 肝心なことは何一つ覚えられないくせに、そういう人によっては些末な自分に対する愛情のようなものを敏感に検知しては、その意図を思い遣る。その粘着質な精神性こそ私の生き辛さ、そして愛され辛さの本質であることは間違いない。だからそこから脱却しようとしてきたけれど、書かずにおられない心のくびきがある。

 数年前、当時住んでいた亀有に彼女が来てくれ、ご飯を食べに夜の町を歩いた。彼女がマルチかもしれないことはとっくに判っていたけれど、それでも構わなかった。

 「だっちゃんっていつもなんか歌ってるよね」

 冷たい夜風が気持ちよくて、隣を一緒に歩いてくれる人がいて、ただそれだけのことで満たされて、思わずくちずさんだ。
_
コンビニエンスストアで350mlの缶ビール買って
きみと夜の散歩 時計の針は0時を差してる
Holiday’s middnight
少し汗ばんだ手のひらが 子供みたいな体温
誰も知らない場所に行きたい 誰も知らない秘密を知りたい
街灯の下で きみの髪が
ゆらゆら揺れて 夢のようで どうかしてる
今夜だけ忘れてよ 家まで帰る道
なんかさ ちょっとさ いい感じ
歩く速度が違うから BPM 83に合わせて
きみと夜の散歩 それ以上もう何も言わないで
クロノスタシス”って知ってる?知らないときみが言う 
時計の針が止まって見える現象のことだよ
クロノスタシス / きのこ帝国)_

 「きのこ帝国わたしも好き。」
 彼女が言って、私は笑った。
 時間が止まって欲しい。そしてどうか本当のことを言わないで欲しいと願った。独りにしないで欲しい。

 家に帰り、小さい布団で抱き合った。家賃6万の木造1Rは狭くて、外から風俗街のネオンが差し込んで、夜でも暗くなることはない。
 冷気が窓ガラスに曇りをつくっていて、そこに彼女が長い指でハートを描いて、こちらを見て笑った。

 「誕生日おめでと」
 エアコンの暖房の乾燥した空気の中で、赤や緑に照らされはにかんだ彼女の顔を見て、映画のようにきれいだと思った。けれど内心と裏腹に口をついてでたのは照れ隠しの言葉だった。

 「やめてよ、いい大人なのに恥ずかしいよ」

 いい大人がそういうことをして何が悪いんだ、言えよ、ありがとうって、覚えててくれたことが嬉しいって。

 言ったからって何かが変わったとは思わない。そもそも間違いなく、あれは愛情ではなかったのだ、と思う。ただそう答えなかったことを後悔している。与えられた誠意に、誠意で返さなかったことを後悔している。

 愛情の形に似た、愛情ではない偽物の、見ようによっては醜い何か。他人からすればただただ滑稽で、生ごみのように捨ててしまいたくなるような臭くて歪なもの。
 もうクロノスタシスなんて歌わない。止まっていて欲しいような時間や気持ちなんてありはしないし、今後自分にはそういうものが与えられないのだと判ってしまった。
 ネガフィルムのように思い出すたびに劣化をして、"今やよく見えないから美しく見えるんだ"なんて主張をするのは、端からしたら気が狂った人間のありさまだ。
 だけど、私の人生にはそういうものしかない。
 そういうものしかないんだから、これからも「あれは美しい思い出だったのだ」と思い込もうとして、抱きしめていくしかない。
 思い込まなければ。そうでなければ、私のこれまでの人生はただただ醜く他人に疎まれていただけの時間になってしまうではないか!

 だから、せめて彼女の「誠意のようなもの」に、感謝の言葉一つでも添えておけば良かった。

 と、そういうことを思って時間を過ごしてきた。
 できてなかったかもしれない、しかし意識して来たつもりだ。丁寧に、誠意を欠かないこと。自分が、相手が、私といた時間を後で少しでも愛でられるように。

 こうして自分と同じように人生の孤独に惑っている異性に手を差し伸べては、「それでもお前は要らない」と手を振り払われる日々を再び送り始めた。
 淡々と誰の特別にもならない人生を歩いて行く。私にとってそれは砂漠を歩くようなものだった。
 だけど、辛く苦しい考えもこのブログにこうして書き残して置けば共鳴した誰かが見つけてくれるかもしれない、そうすれば報われる、きっと誰かが見つけてくれるのでは…。救われたい一心で文章を書いてきた。

 かくしてこのブログを始めて1年が経った。紐づいているTwitterは10年にもなる。

 ある日、何があったからというわけじゃない。30歳になったからかもしれない。自分のブログを読み返し、この10年で自分が得たものが何一つないことに気が付いた。少なくとも、他人が評価するようなものは何一つない、客観的に見て語るに落ちる日々を歩いてきた。金も稼がず、愛されず、ただ悶えてうずくまり、回顧するだけの男がひとりそこにいるだけだった。

 昔、女友達と秋田に旅行に行ったとき、友人ばかり撮る私に彼女が「少しはだっちゃんも写りなよ、幽霊と旅してるんじゃないんだから」などと言って赤ら顔の私を撮ってくれた。
 そんな彼女から、昨年結婚するにあたって私のうつった写真を削除したと聞いた。
 もちろん不安要素は消しておくべきだ、やっと掴んだ幸せなんだから当然そうすべきだ、と思い、他の結婚した女友達にも私の写った写真を消しておいた方が良いよ、と伝えた。

 周囲の景色だけ遷り変り、私だけが「数年前」の世界に閉じ込められている。まさに幽霊だ、呪縛霊のたぐいだと思う。いてもいなくても変わらないし、自分さえ自分の存在を求めてない。何ならいない方が良い。

 幽霊なのに、ここで描いた苦痛は色あせることなく苦しい。
 苦痛を記して置く行為そのものが私に与えたものは、劣化しない鮮明な苦悩の記憶だけで、誰かが私を見つけることはなかった。

 砂漠を歩いていたから気付かなかった。自分はただ同じところを延々と回っていただけだった。そして自分が足掻いていたことの全てが無駄だったと気付いたから、もう私は疲れて、歩けないと思った。
 時計の針をわずかでも前に進めたい、その先が闇だったとしても、もうここにはいられないと思った。
 だから、ここで筆をおくことにする。

マルチの女

 Y子は千葉県出身で、国立大学に在学している時分、公認会計士試験に合格した。
 最大手の外資監査法人に就職したが、監査法人の仕事はブラックで終電帰りもザラだった。
 学生時代から付き合っていた男は浮気して離れて行った。意識が朦朧とし、その間どのように仕事をしていたのか、それは彼女自身も覚えていない。
 とにかく目の前にある仕事を片付けることに取り憑かれていた。生理も長い間来なくなったが、かえって面倒ごとがひとつ減ったくらいにしか考えていなかった。

 

 そんな日々を数年送っていたある日、目覚めると、雨が降っていた。
 身体がいやに重たかった。前日も晩い帰りで3時間睡眠だったこともあり、それは特別なことではないように思えた。
 とにかく布団から這い出し、栄養ドリンクを飲み、シャワーを浴び、昨日の化粧を落として今日の化粧をした。そして出勤するため、ドアに手をかけた。
 開かなかった。
 おかしい、何度強く引いても開かない。このままでは遅刻してしまう。
 年単位で染みついたルーチンを乱され、Y子は激しく狼狽した。それでもドアは開かなかった。会社に休む連絡をし、数年ぶりに有休を使った。
 翌日も雨が降っていた。ドアは開かなかった。その日も会社を休んだ。
 3日目も雨だった。雨は強さを増していたけれど、カーテンから朝陽が差し込んでいることに気付き、もう限界なのだと悟った。

 

 その日、会社に辞める旨の電話をした。
 自分がいなければ回らない仕事があり、困る人がいる。あれだけ強く信じていたはずなのに、会社はあっさり辞意を承諾した。雨が止み、ドアが開いた。
 気が付くと、Y子は30歳になっていた。

 

 その後、新橋にある無名企業の経理としてさして忙しくない職を得た。
 しかし数か月もすると、公認会計士なのに簿記くらいで務まるような仕事をしている現実と、前職と比べて半分以下の手取り、明らかに落ちてしまった生活水準の狭間で焦燥感に襲われるようになった。埋め合わせをするように婚活をしたが、うまくいかなかった。
 そんな折、何かのパーティで出会った女に誘われて、品川にあるタワーマンションのホームパーティに参加した。

 キャッシュフローゲームという人生ゲームのようなもので遊びながら、彼ら...おそらくY子以外全員...の「ラットレースから脱出する」だとか「経済的自由」だとかいう能天気な青写真を聞かされ、その具体性と蓋然性の虜となり、マルチの一員となった。
 彼女自身のビジネスはさておき、本業の経理職の傍ら修行と称して「メンター」と呼ばれる人たちのビジネスを手伝うことになった。「メンター」の中には、Y子を誘った女も含まれていた。
 他の「新規参加者」と比べて決して若くはなかったけれど、元々優秀で何事もそつなくこなすY子はたちまち頭角を顕した。
 理路整然として強いY子に憧れて入会する若い女も少なくなかったし、長身で美貌で話術に長けるY子が男たちを「パーティ」に誘い込むことは勿論造作もないことで、その度に「メンター」達から大いに褒められた。
 これまでさして称賛を受けたことのないY子にとって、それは禁断の果実だった。

 Y子と初めて会ったのは5年前、当時私は25歳で、街コンで知り合った男の友人が恵比寿で開いてくれた5:5の合コンだった。女側の幹事として女4人を連れてきたのが、当時31歳のY子だった。4人はそれぞれ別の街コンでY子が声をかけ連れてきたのだという。
 6歳も年上のY子に当然相手にされるなどと思っているわけもなかったが、ひとまず後日全員にお礼のLINEを送ったところ、Y子から会って話してみたい旨の返事が来た。

 年上で長身美人のY子からわざわざ連絡が来るきな臭い意味を察せないはずは当然なく、それでも万一にかけて新橋のカフェで会って話した。
 しかし出て来るのは当然「キャッシュフロー」だの「不動産」だの「金持ち父さん貧乏父さん」だのといったマルチに典型的な言葉で、ガッカリはしたものの、彼女の人生について俄然興味は湧いてきた。それに、それはそれとしてY子とは話が合った。


 当時、与信審査の仕事をしていた私と経理をしていた彼女とでは関心事がそう遠くなかったし、おっとりした雰囲気に居心地の良さを感じてしまっていた。他に予定もさしてなかったから、それからデートを重ね、彼女を抱く日もあった。
 初めて抱く年上の女は優しくて、相変わらず婚活がうまくゆかず氷のようにトゲトゲしくなる心を溶かしてくれるようだった。彼女のことを好きになり始めていた。
 一人暮らしをして借りた部屋に入る最初の女がマルチだなんて笑えない冗談だと思ったけれど、それでも彼女しか私にはいなかった。

 

 「まあ少しは手伝ってよ」と誘われ、五反田で開かれたY子主催の「異業種交流会」で集金係をしたこともある。
 明らかに連れてこられたと思しき無垢の大学生が不安そうにしていたので、こっそり「飯食ったら早く帰りな」等とアドバイスをした。
 そこで私は彼女の「メンター」達と実際に会うことになり、品川のタワマンで開かれる予定の「キャッシュフローゲーム」に参加して欲しい旨の説得をされ日時と場所も教えて貰った。けれど金にも困っていないし、今は出世したいから経済的自由にも興味はない旨つたえて断った。それは当時偽らざるところだった。
 のらりくらりと彼女や彼女の友人達からの「お誘い」を躱しているうちに、彼女とは段々疎遠になっていった。

 

 数か月ぶりに来た彼女からの連絡は、「グループの大物が帰国するので、会わせたい」「1対1で会えるのは今だけ」というものだった。
 しかし興味はあった。

 品川のタワマンなんていう逃げることのできない場所ではなく1対1(実際にはY子がいたけれど)で会えるというのであれば、ヤバくなったとしても幾らでも逃げようがあるように思えた。
 指定された大井町のロータリーでY子と待っていると、白いSクラスのベンツがやってきて、浅黒い長身のイケメンが降りてきた。

 ベンツに乗り込み、「公演」をする為に五反田に向かうまでの車内で数十分話をした。株式市場や先物市場のごく一般的な知識を披露されて、Y子はふんふんと目を輝かせて話を聞いていた。

 「興味あったら、次の公演に来て欲しい」

 とだけ言われ車を降り、メールアドレスを交換した。相手はそれ以上の誘い文句を口にしなかった。判り易いフックもなく、この会合自体の意味が不明のままで気持ちが悪かった。

 「だっちゃん、あの人の話がわかるの?凄いね!」

 Y子が興奮気味に話すのに鼻白んだ。
 それから何度かY子と食事をしたけれど、私はもう疲れてしまって、彼女からの誘いに乗ることはなくなった。

 

 その後、街コンや合コン、アプリでマルチの女には何人も出会うことになったけれど、深く関わることになったのはY子だけだった。

 

 それから数年経ち、昨年の冬、久々に連絡の来たY子とカフェで話をした。何百人も、いや何千もの人と連絡先を交換しているはずの彼女が数年前に知り合って響かない私に改めて連絡してくるのは何か奇異に思えた。
 日比谷のプロントで、35歳になったY子と再会した。その顔は単なる時の流れ以上に疲労し憔悴しているように見え、目の輝きを失っていた。
 だけど、それは私も同じことだった。

 「おれ結構ヤバいかも、破産するかもしれない」と伝えると、Y子は「そうなんだ」とだけ口にして、深く追求はしてこなかった。

 色々話をしたけれど、
 「だっちゃん、婚活している女友達に教えてあげて。女はね、30歳までなら何とかなる。どうにでもなるんだよって。」

 口にした言葉遣いや目の動き、その所作が妙に生々しく脳裏に焼き付いている。
 最後まで、彼女が私のことをどう思っていたのか判らなかった。私は彼女に好きだと言わなかったし、彼女も私との関係について言及することは一度もなかった。十中八九どうにも思っていなかったのだろうけど、それでも聞いておけば良かった。

 彼女が一度話してくれたことがある。彼女は経済的自由を獲得して、絵本を作りたかったのだ。絵が苦手だから、絵を描いてくれる人を探さなきゃ。それまでに話をたくさん考えておかなきゃ。そんなことを話していた。
 だけどそんなことは、まともに働いていたら経済的自由なんて無くたってできるようなことなのだ。だから結局、本当のところは現実がただただ嫌になっていたんだろう。

 夜、私の部屋で、隣に寝ている彼女が照れながら、「あるところに、うさぎさんがいました」と話してくれた彼女の絵本の話を、私はもう覚えていない。

 別れ際になり、
 「もう、会えないかもね」
 Y子はそう言って改札に姿を消した。LINEも消え、連絡をとる術は失われた。彼女に教えて貰ったタワマンの部屋は、売りに出されていた。

The smell of raindrops, won't you say you'll be alright

 

 高校生のとき、当時遠距離で付き合っていた彼女に会うために、バイクの免許をとった。

 当初は交通機関を使って通っていたのだけれど、バイクがあれば色んなところに彼女を連れて行けるし、彼女をバイクの背に載せて海辺を走るような、そういう青春に憧れていた。

 それに当時彼女は千葉の館山に住んでいたのだけど、房総半島では1時間に一本も電車がない。そういうことにも辟易していた。

 

 16歳の誕生日と共に免許を取得し、ドラッグスター400という中古の大型のバイクを譲り受けた。

 

 月に1,2度、早起きし、まだ薄暗い時間からバイクを暖気した。

 コーヒーを飲んで、菓子パンを頬張り、精一杯髪型を整えた。結局、ヘルメットに潰されてしまうのだから意味なんてないのだけど。

 

 港からフェリーに乗って東京湾を渡り、鋸山のふもとから長い長い海岸線をひたすら南下する。

 夏は暑くて、潮風で肌がベタベタしたし、冬は寒くて手にヒビが入った。私の住んでいた神奈川の片田舎から、片道2時間半の道程だ。

 だけど全然苦にならなかった。

 

 色々な場所へ行った。

 初めてのカラオケ、ラブホテル、行き先も決めずにただ彷徨ったこともある。

 鴨川シーワールドで、シロイルカのぬいぐるみが付いたキーホルダーをお揃いで買った。それは高3の終わりまで付けていたから、真っ黒になってしまった。

 

 海辺の天気は変わり易くて、天気予報を確認してもよく雨に降られた。

 雨の日の道路は、マンホールが良く滑る。慎重に二人乗りのバイクを操作し、やっと彼女を送り届けてから、また二時間半かけて帰宅する。

 

 会った翌日は、二人でよく風邪をひいた。

 そんなときは二人で学校を休んで、ずっと電話で話していた。喉の枯れた声を二人で笑った。それで良かった。二人で過ごす時間より大事なものなんてこの世界には無いことを、私たちは知っていた。

 

 

 彼女の家は貧しかった。

 海辺のバラックを家族で借りていた。トイレは汲み取り式だったし、クーラーもついていなかった。両親は大抵仕事で家を留守にしていたから、雨の降っているときは彼女の家で過ごした。

 湿った毛布に二人でくるまって、ただただ時間が過ぎるのを待った。

 

 ビタビタと雨音が天井を打ち、見上げると蜘蛛が巣を作っていた。目を閉じて胸に顔をうずめる彼女を抱きながら、その蜘蛛から目が離せなかった。

 隙間風が音を立てて家に吹き込み、不安になる。孤独な世界に遭難して、ただ二人きりの生存者だ。

 彼女を離したくない、と確かにそう思っていた。

 

 しかし結局、彼女とは5年程度付き合って、別れることになった。

https://datchang.hatenablog.com/entry/2019/02/23/213353

 

 大学卒業後、彼女は非正規の仕事を転々とした。大抵は、接客業だった。

非正規の仕事で女性の一人暮らしは覚束ない。彼女は家族と一緒に松戸の狭いアパートに家族4人で引っ越した。

 彼女のお父さんはうつ病になり、お母さんは館山で美容室を開いていたけれど、経営がうまくいかなくなり宗教にはまった。

 彼女のお母さんはしっかり者だったけど、こうあるべきものはこうあるべき、とそういう思い込みの強い人だった。いつかは戸建ての家を持ちたい、人並み以上でいたい、そういう思いでずっと働いてきた。

 だけど夫の追加の借金が判明して、そのうえ働けなくなったり、自分の稼ぎもなくなったりして、何もかも思い通りにならないと判ったとき、依り代を現実の世界には見いだせなくなってしまった。楽ではない暮らしの中から、多額の金銭を宗教に奉納していた。

 彼女の決して多くはない収入の殆どが、その寄付金に吸い上げられていた。

 

 私が就職してから暫くして、再会した彼女はやつれていた。

 

「いま、通関士の勉強してるんだ。親がとれっていうの」

 

 まだ資格は取れていなかったけれど、勉強中だと面接で言ったところ、神田駅の近くに在る貿易関係の会社の事務職員として正規採用された。給与も条件も、中々悪くなかった。

 

「おめでとう、あとは合格するだけだね。個人的には早く家を出た方が良いと思うよ、当面、おれの部屋にいてもいいから。」

 

 就職祝いに、彼女にロクシタンのハンドクリームを渡した。

「あなたは本当に優しいんだ、ちゃんと見て貰えたら、きっと好きになってくれる子が現れるよ」

 

 だけど、彼女は転職してから3か月持たなかった。

 事務職特有のぎすぎすした空気感や、重箱の隅をつつくような書類の不備を指摘されることに耐えられなかったのだという。

 退職日に神田駅のカフェで食事をし、一通り経緯を聞いた。うつを発症しふさぎ込む彼女に、おれは何も言えなかった。

 暫く長い沈黙のあと、彼女が口を開いた。

 

「私なんかにご飯も奢って、プレゼントまで渡して、本当に損したね。あなたの人生って、いつもそんな感じだよね、そういうとこが気に入らなかった」

 

 LINEをブロックされ、そこから暫く連絡をとることはなかった。

 

 

 思い立ち、有休をとって館山まで一人で出掛けた。そこには彼女の言うとおり「空き家」の貼紙がされていて、廃墟同然となったバラックがあった。

 これは墓標だ、と思った。

 彼女と私は、ここで永遠にまつわる約束を沢山した。若く幼い、友人の少ない孤独な二人だったから、本当に滑稽なくらい清い約束をしたのだ。

 大人になり、それらが決して果たされることのないモノなのだと頭ではわかっていたけれど、それでも私はそれを後生大事にしていた。空手形でもそういう約束をしてくれた人が確かに居た、というただそれだけのことが、この世界のどこかに再び自分のことを受け入れてくれる誰かがいるのではないか、という希望になっていた。

 けれども、館山の海辺で思い出の墓標を目の当たりにして、心の中から何かが失われてしまうのを感じた。

 

 

 翌年、再び連絡が来て彼女と食事をした。

 彼女はネットのアプリで知り合った4歳年下の美容師と結婚することを決めていた。婚約者は、まだ専門学校を出たてで、金がなかった。

 

「ねえ、50万貸して。良い仕事に就いてるじゃない。今なくても平気でしょ。私"たち"は、今必要なの」

「金、ないんだ。婚活全然うまくいかなくて、余裕ないんだよね」

「そうなんだ。なんか、情けないね、ほんと。なら働かない方がいいじゃん」

 

 図星を突かれたと思った。

 満員電車に揺られ、誰にでもできる仕事をして、家に帰る。ご飯を食べ、寝て、また会社にでかける。節制なんてしなくても、少しずつお金はたまる。上司に怒鳴られたって、別に死ぬわけじゃない。

 だけどふと考える。「何の為にこんなことをしているんだ?」ただただ時間が流れるのを待つだけの、寧ろどちらかといえば苦痛寄りの人生に、一体何の意味があるんだろう。

 わかっていた、自分には理由が必要なのだ。

 

「私は●●の為に生きているんだ、実存なんて問うな!」

 伴侶、子供、名誉、娯楽、なんでもいい、誰かに言い訳をしなければいけない。しなければ、もう人生の無意味さに耐えられない。

 彼女の一言は、言葉にしないことで、すんでのところで踏み止まっていた私の背中をトン、と押し出す無情に聞こえた。

 

 食事の帰り道、同じ路線だったけれど、「少し見て回りたいから」とウソをつき、改札で彼女を見送った。一刻も早く独りになりたい、と思っていた。

 

「死んだりしないで」

 

 顔をあげると、彼女が私を見据えていた。途端、踵を返し改札へと消えて行った。

 

 コンビニで買ったチューハイを飲みながら、一駅分歩いた。

 彼女の言う通りだ、なんて情けないんだろう。情けなくて、どうしようもなくて、何度も立ち尽くした。おかしな顔をしていたのだろう。すれ違うホストの私を見て笑う声が頭に響いていた。

 

 

 それから2年経ち、今年、千葉の館山を中心に台風15号の猛威を伝えるニュースが報じられる頃、LINEに電話がかかって来た。

 

「元気でやってる?わたし今、静岡にいるんだ。」

 

 彼女の話だと、どうやらあの海辺のバラックは、台風で完全に大破してしまったらしい。何もかも風雨に洗い流されてしまった。

 私たちの思い出には、墓標さえ与えられなかった。

 

「実はね、子供うんだの。見に来て欲しい。あなたには沢山ひどいことしてきたけど、良かったら」

 

 別にもういいよ。そんな昔のこと。

 

「お金も借りる用事ないから、安心して」

 

 本当に勝手だな……。

 

 ふふふ、と笑う彼女の声の中に、付き合ってた頃の優しい声を思い出した。高校生の頃、彼女はひたすら優しかった。彼女の作る料理は美味しかった。多くを望み過ぎず、物事がうまく転がり続ければ、良い母親になれるはずだ。それが難しいのかもしれないけれど。

 

「わかった、会いに行くよ。いつにしようか」

 

 Googlemapで調べると、私の家から彼女の住んでいる町まで、2時間半だと判った。

 

「2時間半か~、結構遠いな」

 

 自分で口にして思った。そうか、2時間半は結構遠いんだ。昔のおれ、偉かったなぁ。

 直接会いに行ったって、また傷つくだけかもしれない。それでも彼女の幸せそうな顔を確かめたい。

 そうしたら、私たちの人生はいつか花開く日が来るんだと、私たちの人生はそういう仕組みになっているんじゃないかって、少しは信じられそうな気がする。

 

In to the wild.(荒野へ)

 鏡の向こうには、グランドキャニオンが広がっていた。
 それを見て、おれはただ、立ち尽くすしかなかったのだ。

 先月某、髪の毛を切りに近所の1,000円カットへ出かけた。どうせポマードで整えるのだ、高いところへ行く必要はない。
 7・3のツーブロック、サイド1mmと堅い仕事に就く社会人としては攻めた髪型だ。成形も簡単らしく20分ほどでカットは終わる。
 いつものように美容師が「はい、後ろもこれで大丈夫ですか~?」と事務的に手鏡を後ろに回し、確認を求めた。

 そして、おれはそこに確かに見た。美容師の持つ手鏡の中にグランドキャニオンを、雄大な、荒野の姿を。

「はい、大丈夫ですよ」

 平静を装ったが、何一つ大丈夫ではなかった。心臓は早鐘を打った。息が苦しい、早く外へ出なければいけない。

 (禿げてるやんけ...!)

 元々、そのけはあった。
 そのけというのは、毛の話ではない。いや、もちろん毛はあったのだが、ここでは気の意味だ。まぎらわしくて申し訳ない。
 東洋医学では男性は8の倍数で体質が変化するという。

 8、16歳は、まだ幼いから良いとしよう。問題は、24歳だ。
 当時婚活に没頭していたおれは、明らかに抜け毛が多いのを感じていた。口の悪い女友達からは、

「だっちゃん~、腐った油の臭いがするよ~(顔をひんまげて)」

 等と言われていたが、どうしようもなかった。
 結局まえにも書いたのだが、「シャンプーをしない」というトリッキーな解決策で窮地を乗り越えることになる。
 そこから数年、安定期が続いていた。
 ところが一昨年、昨年は、容姿については正直どうでもいい、もう関係ない、そういう気持ちが先行して、頭皮について心を配ることはなかった。
 自分の後ろに、後頭部にヒタヒタと迫る脅威について、考えが及ばなかったのである。

「まさか、こんなことになってたなんて...」

 正直、泣きたい気持ちだった。
 ハゲは全てを滑稽にする。
 例えばおれが交通事故で死んでも、「足を滑らせたのかな?ツルツルなのは頭なのに。滑って移動してたのかよ」という誹りを免れない。
 仮に自殺しても、「ハゲてたから...」と勝手に合点されてしまうだろう。
 何か不愉快なことがあって、「ふざけるなよ、こんなこと許されるかよ!」とおれが怒鳴っても、絶対誰かが「プッ!」と吹きだす、そういうエネルギーが、ハゲにはある。

 ハゲは全てを滑稽にする、ハゲは全てを滑稽せしめるのだ。

 おれはブログもシリアスな感じで書いてるし、それだけは絶対に避けなければならない。何を書いても「でもハゲてるんでしょ?」と言われたら何もかも終わりなのだ。だがまだ助かる、マダガスカル!

 速攻で育毛サロンについて調べていた。神は一体、いくつのカルマ(業)を背負わせるというのだろう。
 だがハゲたくないという思いは、それはそのまま老いる自分を、未来を意識しているということでもある。そういう意識は大事にしたいと思ったのだ。

 されどおれには金もなかった。毛も無ければ、金も無いのである。いやまだ毛はある、マダガスカル!自分を鼓舞することも忘れなかった。
 何社か検討したけれど、無料体験を実施していたバイオテックに相談してみることにした。
 ネットで予約すると折り返しの電話があり、すぐ入れるとのことで近隣の駅にあるサロンに向かった。

 そこは普通のマンションの一室だった。
 エレベータで入ると、白いワンピースを着たむちむちの悩ましい長身の美女の施術師が出てきて、どういう生活をしていたのか、通り一遍の質問をされた。
 そして白く細い指で、おれのグランドキャニオンをなぞり、かきわけ、スコープみたいなもので写真を何枚も撮ったのである。
 おれは生唾を飲み込んだ。ゴクリ、女に音が聞こえてはならない。慎重に、だ。
 女の熱い吐息が頭皮に当り、熱を帯びる。
 なんてスケベなんだ、ハゲそう、いやハゲない、マダガスカル!

 

「ちなみに、ハゲレベルでいうとどのくらいですか?」

 

 客観的な点数が欲しいと思って訊いてみた、すると

 

「うーん、そうですね、ハゲレベルでいうと30ハゲレベルくらいですね!」

 

 等と元気なお返事。は?ハゲレベルっていうのはおれだけの指標なんだが?勝手に客をハゲレベルでスコアつけてるんじゃあないぞ!という複雑な乙女心が湧いてくるのを感じていた。


 とりあえずお姉さんの観測の結果、頭皮の状況がそんなに芳しく無いということを聞いて施術に向かった。シャンプーをしてくれるらしい。
 しかしサロンの様相は呈しているが、これは普通のマンションの一室、ふつうにひとんちである。
 むちむちお姉さんに代わり、若い女の子が出てきて髪を洗ってくれるという。
 おれの髪にお湯をかけながら、
「どこから来はったんですか~?」
「これからどこ行かはるんですか~?」
 などと間延びした関西弁で世間話を振ってくる。後ろでは、他の施術師たちがきゃいきゃい言ってるのが聞える。なんだここは、あの世か?どこいくっていうか、今イキそうだ、マダガスカル!

 特別な溶液か何かで髪の毛を洗うと、すぐ謎のマシンが出てきた。
「はい、ではオゾンをふきかけますよ~」

 オゾン?O3だって?!いや知らんけど、猛毒だって理科の時間に習ったぞ、お前、そんなものを頭に吹きかけたら、あ、もう終わった、と思った。

 だけどおれは、生きていた。また死ねなかったのか...。
 女たちに開放されたおれは、ドッと疲れていた。

 後日、経過観察の為にもう一度バイオテックに行ったのだが、またしても別のムチムチお姉さんが出てきた。店長だという。年齢はおれと同じか、少し上くらいだろう、何て色香なんだ。耐えられない、マダ略
 耳を済ますと、他の男性客が「はい、出張のお土産!」等と施術したちに物品をわたし、「キャー!ありがとうございます~」等と言うのが聞える。キャバクラじゃないか。

 おれも少しくらいなら出しても良いかなと思っていたけれど、店長の説明を聞くとおれの今の状態からふっさふさの頭皮に戻るには、年100万以上かける必要があるとのことだった。

「持ち帰ります」とおれが言うと、店長が焦った顔をした。
「え、逆にどうしてですか?何かご不安があるんですか?」
「いやほんと、持ち帰ります」
「あ、さようでございますか」

 店長の顔からスーッと色が引いていくのがわかった。女ってすぐそういう顔するよね、最後まで頑張れよ!
 店長に見送られ外に出たおれは、松屋の牛丼を食いながら「あとでミノキシジルとプロペシアの錠剤注文しよ~」と思ったのだった。

 おわり

自分には、ほとほと失望した。

 ある朝、まだほの暗い時間帯に、少し早めの電車に乗った。
 もう30分もすれば身動きがとれないほどの人であふれる乗車駅だけれど、この時間ではまだ「ふつうに立って乗ることができる」。
 発車し、寝起きのぼんやりした頭で景色を眺めていると、まもなく次の駅で止まった。

「あああああ!なんなんだよおおおおお!!」

 ホームで気が触れた男が叫んで地団太を踏んでいて、それを駅員が宥めようとしていた。たまにはそんな日もある。すぐ隣で誰かが暴れていたとて、多くの乗客にとってそんなものは大した感慨のある光景ではない。みんな、歯を食いしばって正気を保っているだけで、何かの拍子に正気でいるインセンティブを失ってしまったら、正気とは何なのかど忘れしてしまったら。いつ自分がそうなってしまうか判らないのだ。
 誰もが正気を失わず生きて行くことに必死で、正気を失ったあとに人生が続いていることなんて、想像したりはしない。


 去年、自分の人生にうんざりしていたおれは、正気でいることを辞めた。
 紆余曲折あり、死ぬ機会を得た。しかし最期まで踏み切ることはなかった。
 おれの自殺"的"行為は、死なない可能性を十分残した「願わくば死にたい」程度のものだった。そうして人生の決定的な部分を、天か何かに委ねたい様の甘えがあった。
 屋上のカギが空いている地上数十階のビルを知っているし、毎日自殺者の出る駅に行く方法だって知っている。だけどそこへは行かなかったし、決定的な行動に及ぶことは終ぞなかった。
 そうこうしているうちに、「良い精神薬が手に入ったから」等と嘯いて、死にゆく狂人の振りをすることを辞めた。つまり正気を失い切れていなかったのだ。だから今もこうして生きている。
 生きて、正気の街に帰って来てしまった。


 電車を降り、会社近くのコンビニのイートインで朝食をとり、スマホを眺め時間を潰した。
 朝9時半、出社時刻となりコンビニから出ると、丸ノ内のビルの鏡面ガラスに太陽が乱反射して、まだ5月だというのにコンクリートから湯気が立ち上っている。
 昨年もこの景色を見た気がする。まるで丸々1年時間が飛んでしまったようで、「去年起こったことは何もかも夢で、別に何も起こらなかったのだ」と言われれば、そうであるような気もしてくる。そのくらい変わり映え無い日々に戻ってしまった。
 ひとたび出社したが最後、窓の無いコンクリートの部屋で囚人のように数時間打っ棄るまで、その日はもう、太陽の光を見ることはない。

 社会に馴染めない人間にとって、自分が特別な人間だということが救いになる。
 
 自分のような社会不適合者が、結局再びまともな仕事...誰にでも替えの利く仕事を、生活の為に始めた。
 そういうことにおれは名状しがたい憤りを覚えた。

 昨年、ブログのいくつかのエントリに反響があって、そこで「物書きとして食っていける」と言われたことをまんまと真に受けて、小説でも書いてみようとしたけれど、何だかんだと言い訳をつけて、何も書こうとしなかった。書きたいものがなかった。
 それこそ才能の欠缺そのもので、結局何も形にすることができず、金にもならないブログのことなんて忘れようと思った。

 そうこうして、他にすることもなくなって、また惰性のように婚活を始めた。
 今のおれは起業家でもトレーダーでもない。収入が下がり、貯金を失い、将来に見通しが立たず、ただただ自信を失ったボンクラだ。当然、不発の日々が続いた。

 何人、何十人と会った。 与えられた作業をベルトコンベアでこなしていくように、日々スケジュールをこなしていく。
 昔誰かが「狂気とは即ち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること」だと言ったらしいけれど、狂気なんて大層なものを持ち出さなくても、一定の確率で世の中に変人はいるものだ。

 昨晩、女の子に告白を受けた。

「だっちゃんのこと、凄く素敵だと思います。お付き合いしたいです」と言われた。

 同い年の可愛らしい子だった。そんなことを言われたのも久しぶりで、舞い上がり、「おれも、君のこと好きだよ」というと、顔を覆い目を潤ませ照れていた。おれも中々どうして捨てたもんじゃない、とすぐ調子よく思ってしまった。

「きっと、すごく誠実な人だなって思ってたんです。ずっとそういう人が良いと思ってて、でもだっちゃんみたいな人、いなくて」
「だから、お互い隠し事の無いお付き合いがしたいんですよね。」

 屈託のない顔でそう彼女に告げられ、もう隠せないと思った。いつかは伝えなければいけないこと、伝えればどういう反応が返ってくるか、判り切っているようなこと。
 それを隠し通すような覚悟も無かった。

 でも、もし奇跡みたいなことがあるのだとしたら。もしかしたら...

「実はね、色々失敗して破産したんだ。本当にごめんね」

 彼女の顔から、みるみるうちに色が引いていくのが判った。

後ろ手に束ねた 恥じらいの花束が揺れる 


 都会のサラリーマンなんて、字面で見れば華やかに見えるけれど実際のところ物理的に拘束されてその我慢料を手にしているだけに過ぎない。
 そうして毎日時間と心を切り売りしている内に、トルストイが家庭の幸福の中で「人生における唯一の確かな幸福は、他人の為に生きることだ」と語っていたのはどうやら確からしいということを知った。
 おれは自分の為だけに生きることのできる人間ではない。

 だから家庭を作ろうとしたけど、叶わない願いだった。
 醜悪で金のないおれを愛し、特別な存在にしてくれる女なんてそう居はしないし、ましてや子どもを持つのはその先の話だ。

 だけど実際のところ、おれは自分が限界だと判っていた。一刻も早く許されたかった。自分がこの社会に存在していて良いこと、誰かの為に生きること、そういう証が欲しかったのだ。

 ある日、孤児院出身の人物が主人公の映画を劇場で見た。

 その映画自体はとんでもない駄作だったんだけど、独り合点することがあった。
 そうか、少額でも寄付すれば、自分はこの世界の誰かの為に生きていることになるのかもしれない。

 これまで「寄付」だなんて偽善じみたことを蹴飛ばして生きてきた自分にとって、そういうことに及ぶ人間の心が理解できなかったのだけど、それはつまり誰かに存在を許して貰いたかったからなのではないか、と納得した。
 自分自身の子供ではないけれど、「恵まれない子供たちの為に働いている」というのは、砂を噛むような日々を耐え忍び自分を納得せしめるのにこれ以上ないくらい良いアイデアに思えた。
 丁度、当時住んでいた部屋の近所に孤児院があったのでそのサイトから毎月、クレジットカードで自動で引き落としがかかるようにした。金額を月500円、年6,000円とほんの少額に設定したのは、そこは生来ケチなんだろうと思う。
 寄付することに慣れていなかったので、最初はわずかばかり自分は何かいいことをしているかのような気持ちにもなった。

 だけどそんな高揚も、長続きはしなかった。
 毎月500円多く引き落としがかかったところで生活には何ら変化は起こらないし、結局のところおれを誰かが面と向かって特別な存在なのだと告げてくれないことには満たされるものもなかった。

 そうこうして生活が荒れていくのに合わせて、自分がそういうことをしていたんだということ自体、日々の喧騒に流されて忘れていた。

 

 およそ2年の月日が流れ、先週の日曜日。

 暇を持て余していたおれは図書館で本を借りるついでに初めてその施設に行ってみることにした。考えてみれば、実際に施設や子どもたちのことを見たことさえなかったのだ。

 小田急線沿いの坂道だらけの住宅街をバスで30分、アクセスの悪いところにある団地の一角にその施設はあった。
 ここはおれの生まれた町でもある。懐かしい町に吹く春風はまだ少し冷たいけれど、気持ちいい。

 フェンスから中を覗くと、子供たちがはしゃいでいた。想像していたより色んな年代の子供がいるようだった。
 学童保育みたいな光景だな、と思った。彼らのこれからは、決して明るい事件ばかりではないだろう。親がいないことや昔あった嫌な過去に何度も直面することになるんだろう。
 だけど、やりかたはいくらでもある。中には社会を巧く泳いでゆける人間もいれば、おれと違って家庭を持つ者もいるんだろう。そういう未来への可能性に眩暈がした。

 そして内臓を鷲掴みにされるような苦痛を覚えた。
 もはやおれは経済的に破綻して、クレジットカードは止まり自動引き落としは決済不能になったはずだ。これから寄付する余裕はもう無い。
 昔、ある女の子に「だっちゃんは優しいから、きっと良い父親になれるよ」と言われたことを思い出した。とんでもない思い違いだった、おれは僅か500円さえ子供たちに差し出すことができない人間だ。
 自分の子供に責任をとることなんて遥かに難しい。ただただ社会からリソースを奪い去っていくだけ、何も与えず、何も生み出さない、存在そのものがまるで虚無のようだ。
 助けが必要な人に手を差し伸べ、許しを求めたはずが、それでもお前の手は要らないと払われたように感じた。

 自分の許されなさ、所在なさに途方に暮れて呆けていると、「あの」と話しかけてくる女がいた。30代半ばくらいの若い職員だった。目の奥に、微かに怯えと警戒の色があった。

 

「何か御用でしょうか?」

「いえ、何でも」

 

 逃げるようにしてその場から立ち去った。元から関わりのない子供たちについて考えるのはもうよそうと思った。
 感情が過多になって、その日は中々寝付けなかった。

世界最大級の廃墟 華南モールからの脱出

 数年前、中国の東莞という南方の都市を旅しているときに「華南モール」を訪れたことがある。
 華南モールは一時世界最大になったこともある中国最大のショッピングモールで、中国のいわゆる建築バブルのときに建造された。
 ところがその広さゆえに十分なテナントが集まらず、奥に出店すればするほど客のアクセスが悪くなる。結果、敷地の大半が廃墟と化し、麻薬の売買等の温床と化している。
 単一の建築物としては世界最大級の廃墟だ。

 

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 空港からバスを乗り継ぐこと約6時間、華南モールに到着した。

 海辺の都市と比較すると町は荒廃気味で、打ち捨てられた建物は山ほどあって決して景気はよくなさそうだった。

 

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 ただ、電車は走っていないけれど(中国人にとってごく一般的な交通手段の)バスはいくらでも走っているし、辺りは通常の居住区になっている。近くには東莞可園という観光名所もある。バカげた大きさにさえしなければ、尻尾から頭まで普通のショッピングモールとして成立していただろう。


 坪単価なんか気にしてる時点で発想が日本的なのかもしれないが。

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 外周は一応大通りに面しているだけあってマクドナルドやスーパー、高速バスのチケット販売所等のテナントが入っていて、にぎわっていた。だけど、それは表面の皮一枚だけの話だ。モールに併設された遊園地は、実質閉鎖状態になっている。

 

 

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 内部は広大で入り組んだ迷路のようになっていて、奥へ進むにつれ電灯が消え、どんどんひと気がなくなっていった。建築途中で放棄されていたり、一応設置されている造花やベンダーには分厚い埃が載っている。

 

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 外の人の声も届かないほど奥へ来ると、自分以外の人類が全員死んでしまった終末世界に放り込まれたような感覚になった。本来人がいるべき景色に誰も人がいないのは不思議な気持ちがする。
 ときおり、日本ではきかない種類の鳥の声がキィキィ響いていた。

 

 

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 時刻は既に夕方で、電気のついていないような場所に長居しては所在を見失ってしまう。最深奥では長居せず、外へ出ることにした。

 外周は大きな円になっているので、近所のおじさん達が太極拳をしたりランニングコースとして使用されていて、外から見る分には決して廃墟感はない。

 

 


 まあこんなもんだろうと思いつつモールの外周を歩いていると、巨大樹の根のオブジェの横に、「いかにも」という風情でドアが開いていた。

 

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 ああこれは誘われてるなと思い、入ってみることにした。完全に神経がマヒしている。

 中にはジャングルがあって、うち棄てられたジャングルクルーズがあった。ボートやゴンドラを模したレールの上を走るカートに乗って、施設内に設置されたオブジェクトを見て回るという、遊園地とかによくあるアレである。

 

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 勿論、柵を飛び越えジャングルの中を探検することにした。

 子どもの頃から、ディズニーランドの海賊船や、ジャングルクルーズのボートから降りてセットの世界を歩いてみたいと思っていたのだ。夢が叶ったというものだ。
 オブジェのマンモスに、オブジェの原住民、オブジェの太古植物にアノマロカリス。

 そういうものに直に触れて、何だかワクワクしてジャングルの奥にどんどん分け入っていった。

 暫く中を歩いていると、イヤホンをしていて気づかなかったのだけれど、遠くの方で何か音がしているのが判った。イヤホンを外した。

 

 ヴィー!ヴィー!ヴィー!ヴィー!

 

 考えるまでもない、警報だ。警報が鳴っている。一体いつから鳴っていたんだ?


 施設内遊園地の大半が死んでいたので油断していたけど、一部のアトラクションは稼働していたのだ。そして運悪く、それが、このジャングルクルーズだったのだ。

 ガサガサと人が近づいてくる気配がする。男の怒声で何かが聞こえる。何を言っているのか判らなかったが、完璧に聞き取れたフレーズがある。

 

「パオパオパオパオ!パオパオパオパオ!」

 

 パオ(跑)とは、「走る」という意味の中国語である。

 転じてパオパオパオと連続で遣うときは、軍隊でいう「現場急行」みたいな意味だ。

 ヤバイ、捕まったら間違いなく一旦はボコボコにされるだろう。その上で裁判にかけられて実刑がつかないとも限らない。そんな例はいくらでもあるのだ。
 もう汚れなんて気にしていられない。おれはとにかく暗闇のジャングルから脱出することにした。革靴のまま水の中に膝まで浸かって、必死に走った。おれは足が速いから、とにかく出口まで辿り着ければ逃げおおせるはずだ。
 時折ピカピカ光っている赤や紫の警戒色の電灯が危機的な状況を煽り立てる。

 

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 肺が破裂するほど走って逃げ、遂に外の光が見えるところまで辿り着いた。

 そこにあったのは、流れる河が滝となり奈落へ吸い込まれていく断崖絶壁だったのだ。迫る追っ手、正に状況は絶体絶命。だけどもう、選択肢はなかった。
 おれは意を決して飛び降り、"坂"を転がっていった。

 

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どうみても断崖


 そして、何とか逃げおおせ、現実の世界に還ってくることができた。

 捕まってたら、一体どんなことになってたんだろう。
 インディ・ジョーンズばりのジャングルからの大脱出劇を演じて心臓が早鐘を打っていた。妙なところをぶつけたらしく、腕が痛い。

 しばらく震えが止まらなくて、思わず笑えてきた。 

家へ帰ったことに免じて

 深夜、満身創痍の身体を引きずって家の扉を開くと、暗い廊下の奥で干してある洗濯物が人の姿に見えることがある。

 首を吊って、風もなくギシギシと音を立て揺れる自分自身の亡霊だ。

 壁の電気を点けると亡霊は消え、いつもの何もない部屋がある。


 部屋には大型犬用のリードがあって、容易に首を入れる輪をつくることができる。洗濯物をどかして、その代わりに自分を吊るせば、それでこの人生もしまいだ。
 随分長く歩いた気がする。出来の悪い茶番劇だった。

 

 だからもう、ここまででいい。

 

 この人生はもはや詰んでいて、代わり映えなんてしない。ここから先にあるのは真綿で首を絞められるような緩慢な死だと思う。
 居心地の悪い1LDKにもこの世界にも、自分の居場所なんてない。早く砂になって、ここではない何処かへ消えてしまいたい。本当はこんな家に帰りたくなんてない。
 そうなことを思う日ばかりだ。

 

 フローリングに布団をしいて、横になって天井を眺め、目を閉じて物思いに耽る。


 それは、刺激的な出来事について。

 先物で数百万円の含み損を抱えたときや、ヤクザや半グレの暴力を目の当たりにして死をちらつかされたとき、監禁されたとき、人によってはもしかしたら死んでしまうかもしれないような、そういう状況を眼前に突き付けられたときのことだ。


 そういうとき、不思議と考えることは死によってもたらされる安寧への期待ではない。

 

「家に帰りたい」

 

 時間を戻して欲しい。
 あのただ飯を食って寝るだけの埃っぽくて、そして麻薬的に温かな布団の中に戻って、少しで良いから寝かせて欲しい。


 なんでこんな所へ来てしまったのだろう。代り映えのしない日々に一体なんの不満があってこんなことに首を突っ込んでしまったんだろう。
 お願いだから、あの閉塞感だけの日々に戻りたい。

 

 やり直したい。

 以前おれは、過去にどういう道筋を採ってもここに辿り着いただろうと書いたことがある。だから、普段これまでのことについて後悔することはそんなにない。
 だけどこの感情は明らかに後悔そのものであって、まるで後少しでいいから生きていたいという見苦しく不合理で、自然な、動物的な情動だ。

 

 

 ここ最近、本当に刺激的な出来事の連続だった。お陰で死にたい理性とは別に、いまも本能があと少し、あと少しを求めている。バカらしくて、滑稽で、思わず笑えてくる。


 だから明日も刺激的な一日でありますように。誰かに話したくなるようなとんでもない出来事が起こって、その顛末を話したい。そして、この部屋に帰りたいと思わせてくれるように。


 今夜も、部屋へ帰ってくることができた。

 そういうことに免じて今日のところは、首を吊るのを止めにした。

夜明けの西成・泥棒市場

 まだ陽の昇らない時間帯、空気は肌を刺すように凍てついている。
 紆余曲折あって数年ぶりに大阪は西成区のあいりん地区にいた。

 

 朝の5時くらいになると、労働福祉センターの周りにはホームレス崩れの日雇い労働者を現場まで連れて行く為のバンがちらほら現れる。
 バンに乗るため参集した日雇い労働者達や近所の貧しい身なりをした老人達が、そこここで道路に座り込むホームレスたちの周りに集まっていた。

 

 ここには「ドロ市(泥棒市場)」というものが存在している。盗品を販売しているのだ。
 ホームレスたちはブルーシートを敷いて、その上に雑然と商品を並べている。飽くまで品物を並べているだけなのであって、売っているわけではないというのが建前だ。
 その様子をケツモチと思しきヤクザが車から遠目に伺っている。
 売られている商品が実際に盗品かどうか知る由もないけれど、要するに出自不明の中古品であることに変わりはない。

 


 賞味期限が切れ本来コンビニが廃棄するはずだったお弁当やおにぎり、海賊版のアダルトDVD、偽ブランドの財布等々、平気で路上に並べて売られている。

 東京の山谷(台東区)にもドロ市は存在しているけれど、そちらのメインはアダルトDVDやエロ本で、どちらかというとネットにアクセスする能力のない老人の性的福祉を担っている印象だった。


 ここあいりん地区での主力商品は処方薬、とりわけ精神薬だ。

 


 生活保護者は、制度上医療費がかからない。必要以上に医者に処方を申請してホームレスに卸せば、そのまま行政に足のつかない遊興費となる。

 レイプドラッグ、処方量では足りない依存患者、西成には指名手配となり病院にかかれない人間もいる。そもそも健康保険なんて支払っている方が少数派だろう。薬の需要ならいくらでもある。



 道に胡坐をかいてブルーシートに座る男に話しかけた。

「シャブ(覚醒剤)ないんですか?」
「その前にお兄ちゃん、手に持ったケータイうらっ返しにしてくれる?」

 スマホを表にして画面を見せた。何も映ってない。
「なんやなんや、いやごめんねぇ、ほら動画とか撮る人いるでしょ、それでね」

 男は相好を崩して釈明した。本当は写真を撮っていた。咄嗟に電源を落としたのが間に合った。肝を冷やした。
「シャブは数年前までは扱ってたんや。でも、今は眠剤くらいまでで頑張らしてもろてるんですわ」

 

 別のブルーシートに移り、試しに薬(デパス)を購入することにした。ワンシート1,200円だという。少し頭の弱そうな60代くらいのホームレス風の男が
「今、値上げしてる、これ安い、あっち(のブルーシートでは)2,000円、ここ1,200円」
 などと言う。1,200円は実際に処方される倍以上高い価格設定だけど、それでも売れるということだろう。千円札1枚と5百円硬貨1枚を渡すと、頭の弱そうな男は困惑した表情になった。
 暫く「あー」とか「うー」とか言った後、思いついたような顔になりヤクザの乗った車に向けて「親方、親方ー!」と叫び始めた。釣銭の計算ができないのだ。
 こんなところでヤクザなんかと関わって面倒ごとに巻き込まれたくはないので、「お釣りとっといてよ」と言って立ち去った。

 ドロ市は犯罪なので、当然のことながら何度も規制されてきた過去がある。だけどどんなにルールで規制したって、日の当たる世界で生きられない人間もいる。

 

 前日、串焼き屋の若い店員に「泥棒市って知ってる?」と尋ねた。
「なにそれ、知らんなぁ。大阪人やってもな、西成には近づいたらあかんって言われんの。あの辺は絶対行ったらあかんって」
 彼らは目立たないことで社会から透明人間として扱われ、こうして警察や行政と折り合いをつけながら黙認されている。

 


 労働センターの中に入ると日雇いの求人が張り出されていて、2階は解放されてホームレスが風雨から逃れる場所になっている。打ちっぱなしのコンクリートは冷たいけれど、それでも外よりはマシなのだろう。皆、毛布にくるまって震えていた。

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 その中の一つの毛布がビタンビタンと飛び跳ねていた。形容しがたい呪詛のような言葉をくぐもった声で呟いている。毛布がめくれると、男が下に何も履いていないのが見えた。

 

「アアア、アアア、アアア、アアア、アアア、アアア!」

 

 よく耳を傾けると、どうもそれは女の名らしいと判った。アイコかアヤコか、そういう類の名前を虚無に向かって叫んでいる。

 明らかに正気を失い、人の姿をした何かとなってしまったが、この男にもおれと同じように誰かを愛そうとした青年時代がいつかあったのだろうか。

 だとすればあるいは、これは来るべきおれの未来の姿なんじゃないのか。そうじゃないだなんて、誰も保証なんてできないだろう。 

 今日も大阪の夜が明ける。
 街にスーツを着た通勤するサラリーマンの姿が増えるのに合わせて、彼らはどこかへと消えて行った。

サンフランシスコの韓国人


 10年前、サンフランシスコに短期留学をしていた。
 そのとき撮った写真を見返していたら、一人の韓国人の女の子のことを思い出した。

 

 名前を彗林(hye lim yoon)といった。
 韓国人らしい顔つきの美人で、いつもヒョウ柄や妙な色味のちょっとどこかエキセントリックな服を着ていた。
 彼女とは同じ語学学校に通っていた。語学学校はペーパーテストの実力別に何段階かのクラスに分かれていたが、彼女はかなり下の方の講座を受けており、おれとは別のクラスだった。

 

 ある日、語学学校の主催するパーティか何かのイベントがあって、隅で一人大人しくしている彼女におれが話しかけたのがきっかけで仲良くなった。
 彼女はかなりの人見知りで英語を話すことはできなかったが、どういう経緯か中国語を話すことができた。
 おれも当時少しだけれど中国語の基本は抑えていたので、中国語での交流だった。
 彼女の首筋には雑な★形のタトゥーが彫られていた。昔付き合っていた男にされたと言っていた。どうもそれが中国の人だったらしい。

 

 彼女は高校を中退していた。
 その後いくつかの職を転々としていたらしいけれど、韓国にいたたまれなくなるような事情があってサンフランシスコに流れてきたのだという。
 手首には傷がいくつもついていた。

 ある日、おれが一人で帰ろうとすると、「ついてっていい?」といって一緒に食事をした。それ以来、何度か一緒に食事をするくらいには仲良くなった。

 

 語学留学なので、もちろん食事が終わったら一緒に英語の勉強をした。
 彼女は中国語を話せたので、「中国語を英単語に置き換えるだけで、ひとまず通じるようになるよ」と教えると、眼から鱗が落ちたようだった。日本から持ってきた新品の単語ノートを一冊あげると、すごく喜んでくれた。
 文法はめちゃくちゃだったけれど、徐々に単語を見ながらであれば英語で意思疎通が取れるようになってきた。

 

 数週間たったある日、「来週おれサンフランシスコを去るんだよね。大連に行くんだ」と言うと、彼女は形容しづらい表情になった。それが妙に記憶に焼き付いている。
 次の日、語学学校でエレベータで一緒になると「だっちゃん、イナイ、サミシイ」と何処で覚えたのか日本語を口にした。

 

 彼女はこれから語学学校に通いながら、アメリカで働くのだといった。日本料理店で働くらしい。ビザのことはよくわからないけど、多分誤魔化してるような気がする。おれが優しかったから、日本人を優しいと思ったと言ってくれた。

 サンフランシスコを去っても、おれのことを支えにして生活している人がいる。そういうことが凄く情緒的で、嬉しかった。
「自分を大事にしてね、Facebookでいつでも連絡して!」と言うと、頬にキスをしてくれた。
 大連を経由して日本に帰国した後も、何度か「i miss you」と連絡が来た。

 

 

 それから1年くらいしたある日、Facebookの友達一覧に彼女の名前がないことに気付いた。
 でも彼女としていたFacebook Messengerのスレッドをクリックすると、彼女の個人ページはまだあった。
 つまり、Facebookの友達から外されてたのだ。
 えぇ~、なんでだろう?!と思ったけれど、TLには彼女の今の生活が映っていた。

 

 そこにはおれの知っている内気で友達のいない彼女はいなかった。
 いかにもアジアンガール然な化粧をして、アメリカナイズされ白人のボーイフレンドとデートする彼女の姿だった。沢山の異国の友達もできたらしい。
 何故かフラれたような、もやもやするような、複雑な気持ちになってしまった。

 

 ただ彼女がサンフランシスコで逞しくやっていることと、多分彼女の中でおれの存在が要らなくなったんだろうってことは嬉しかった。もしよかったら、こうしてこれまで歩んできたストーリーを誰かに語るときに少しだけ「アメリカで最初にできた友達は親切な日本人でね、」みたいに登場させてくれたら、嬉しいと思う。 

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何億年も前につけた傷跡なら残って

 目を覚ますと、いつもの天井だった。
 カーテンから白い光が差し込んで、塵の浮いた部屋の空気を照らしている。
 嫌な汗をかいている。思わずため息をついた。

 また、いつもの夢を見た。



 中学の頃、ネットでは中高生の間で「前略プロフィール」というサイトが流行っていた。
 それは簡単な質問に幾つか応えるだけで自己紹介ページを作成することができるというもので、SNSの存在しなかった当時としては画期的な交流の場となっていた。
 「前略」には、掲示板が付属している。
 自分と気の合いそうな「前略」を見つけたら掲示板に書き込みをして、気が合えばチャットルームに誘導したりhotmailメッセンジャーというLINEのようなサービスで関係を深め、ときにはオフ会をしたりする。
 それがある界隈では一連の流れとなっていた時代があったのだ。

 中学生2年生のおれは、当時もこうしてネットに文章を書いていた。
 ブログではなくいわゆる「テキストサイト」という自分でHTMLを組んで作成するHPで、そのデキはといえば黒歴史としかいいようがない。だけど恐らく同じ方向に中二病を爆発させたと思しき固定の閲覧者が何人かついてくれていた。
 HPの中には「前略」が設置してあって、見てくれた人が感想を書き込んでくれる。おれもその人のサイトに行って、感想を言い合う。
 その中の一人が、マリだった。

「素敵な文章だと思います!」
「今日はオチが弱かったですね。笑」

 そういうコメントを毎日書き込んでくれていた。
 彼女も同い年で、似たような感性を持った者同士で仲良くなって、実際会おうという話になるのに時間はかからなかった。
 彼女は千葉の下房総に住んでいた。

 おれの住む神奈川の町からは、片道2時間半ほどの道程だ。
 電車とバスを乗り継ぎフェリーに乗り、田舎の1時間に1本しか来ない電車を待ってやっと彼女の住む町に到着する。
 それは、中学生のおれにとって大冒険だった。

 初めて会ったマリは、身長が高くて、可愛らしい女の子だった。
 思春期大爆発で顔面がニキビでめちゃくちゃになっているおれを見て彼女がどう思うか不安だったけど、彼女は気にするそぶりもなくおれを受け入れてくれた。
 彼女の住む町をただ歩き回るだけのデートをして、付き合うことになった。

 マリは初めてのカノジョではなかったけど、初めてのカラオケデートも東京観光も、キスもそしてセックスも、全部彼女だった。
 毎日電話とメールをして、月に2回くらい会いに出かけた。遠い町に住んでいたけど、出かけるのは苦にならなかった。色んな話をした。好きな小説の話、勉強の話、公立中学校の粗野な同級生に馴染めない話。
 おれたちは同類で、彼女のことが好きだった。




 月日が流れ、高校二年生になった。
 ある日、軽音楽部の友達がライブをするというので誘われて、住宅街の真ん中にある小さいライブハウスの前で友達と話していると、彼女から電話がかかってきた。

「はいはい、どうした?」

 電話を取ると無言のまま、マリは何も言わなかった。泣いているようだった。

「なに、どうしたの?」

 暫く言葉にならない呻きで泣いた後、彼女が言った。

「D君、わたし、レイプされた」

 その一言で周囲は音を失った。
 住宅街の真ん中を通って東京湾へと繋がる用水路の向こうに、大きな赤い夕陽が静かに落ちていった。覚えているのはその光景だけで、自分が何と応えたのかよく覚えていない。
 だけどおれはそのまま友人のライブに参加したし、フェリーに乗って彼女のもとに駆け付けようともしなかった。

 その日から彼女は人が違ったようになって、手首を切っては写メを送ってくるようになった。
 会う度に狂ったようにセックスを求めるようになった彼女に、心が醒めていくのを感じていた。
 結局、都合5年付き合って関係は終わった。最期は彼女の浮気だった。

 自分は、いざとなったら何でもできる男だと思っていた。
 相手の男は彼女の高校の学生で、居所だって判っていたはずなのにおれは後日復讐の為に殴り込みに行こうとさえしなかったのである。

 こんな思いをしたのだから、それを何かに役立てなければ割に合わない。もしこの世界に神様か何かがいるなら、おれにそう命じてるじゃないのか。そう思わなければ、とても苦痛を受け入れられなかった。
 そして法律の勉強を始めた。法学部に進学し、法科大学院にも進んだ。検察官になろうとした。

 力が欲しい。大事な人を傷つけられないような権力が欲しいと思った。そんなものは存在しはしないんだけど。
 だけどおれの学生時代の半分は、半グレのようなことをして社会に反逆したつもりになってお茶を濁していたのだから、それはやはり歪んだ正義感というか権力志向だったんだろうと思う。
 結局、おれは法律家にはなれなかった。

 こんな何億年も前の話は、いまとなっては思い出して辛くなることさえない。
 レイプされたのは自分自身じゃないし、あれからもっと酷い話は他にいくらだって見聞きした。単に若くて幼い心には、少しだけ耐えきれなかったというだけの話だ。

 けれど未だにレイプモノのAVは吐き気がして観ることができないし、今でも彼女が無理やり犯される悪夢を見る。見たはずのない光景だ。
 その度に、傷跡が消えていないことを確認するのである。


 23歳のある日、彼女と再会してカフェで食事をした。
 司法試験に受かる能力がなくて、法科大学院を辞めることになった。

「ごめん、おれ大学院辞めたんだ。検察官になれなかった」

 そう告げると、彼女は

「D君、あんなの全部ウソだよ。信じてたの、損したね」と嗤った。

 マリは垢抜けていて、美しい女に成長していた。

「もう自分の人生を生きて、幸せになって。」

死にたい。いつからか、そう思うようになった。

 死にたい。いつからか、そう思うようになった。

 自分が恵まれてないなんて思わない。
 そりゃ上を見たらキリがないけど、やりたいように生きてきたと思う。その割には多くの人に愛して貰った。
 そして世の中にはおれよりバカでブサイクで、どうしようもない人間だって沢山いることも知っている。けれど、他人と自分の気持ちには何も関係はない。

 死にたい理由なんていくらでも思いつく。だけど、内面化された苦しみの理由を探して解消してもさほど意味はないのだと思う。
 「生きてることにはきっと意味がある」、「これから必ず良いことがある」みたいに励ましてくれる人もいる。
 だけど、楽観的にはなれない。
 根拠がないからだ。実績がないことを期待するのは欺瞞なのだと知っている。奇跡が起こらないことを知っている。
 30年、生きて判ったことは、どこに行ったところで人間関係に悩み、無能に悩み、明日の食べるものに悩み、大して楽しいことなんてありはしないということだけだ。

 生きていると、色んな面倒ごとがある。
 空気を読んだり、誰も教えてくれなくても確定申告をして、ネットや水道光熱費、明日やらなければいけないタスクについて思考を割かなければ生きてはいけない。
 マウンティングをしなければ尊厳まで奪われ、やられたら報復しなければ次がある。
 その果てに与えられるのが無限の退屈なのだとすれば、別に生きていたいだなんて思わない。生きるインセンティブが無い。

 その上で、幸せとは、愛すべき誰かと気持ちを分け合うことだと思う。だけど現実問題これからの人生は日に日に孤独なものになるだろう。
 老いゆく身体で孤独と怨嗟を抱いて不穏に死ぬのと、健康な身体と魂で自分の人生に「まあこんなものだな」とある程度納得して自死するのでは、後者の方が遥かに人間的で豊かな最期ではないかと思う。死ぬインセンティブならあるのだ。

 それを安易に悟った、甘ったれたナルシストの戯言だというのも解る。
 ただそれはそれとして、毎日寝て、食事をし、歩き、呼吸することが苦しい。
 内面化された無意味なものだとしても、この苦しみは、現実そのものだ。

 きっと一過性なのだと思い込もうとして、薬を飲んでも効果はない。骨の髄まで退廃が身に染みているのだろう。

 「死んだら他人に迷惑がかかる」「死んだら悲しむ人がいる」という話も、後か先か、大か小かの違いとしか思わない。人が一人死んだくらいで世の中が大して変わりはしないことくらい知っている。
 いや、本当のことをいうと、誰かに迷惑をかけたり悲しませたりしても申し訳ないとか、そういう感情が起こる機構が組み込まれてない。本来申し訳なく思うべきなんだろうな、ということは判る。

 人としてどこか大事な部分が欠落しているんだと常々思う。
 だから自分の置かれた状況を考えると、生まれた時点でこの人生の底へ帰結することが決まっていたと思うのだ。
 過去どんな選択肢を採ったとしても、早晩この場所に到達していただろう。そしておれのことを説得することは誰にもできなかったし、救えなかったはずだ。

 人が人を救うことなんて出来はしない。
 人を救うことができるのは、いや自分を救うことができるのは、運命と僥倖だけなのだと知っている。