自分には、ほとほと失望した。

 ある朝、まだほの暗い時間帯に、少し早めの電車に乗った。
 もう30分もすれば身動きがとれないほどの人であふれる乗車駅だけれど、この時間ではまだ「ふつうに立って乗ることができる」。
 発車し、寝起きのぼんやりした頭で景色を眺めていると、まもなく次の駅で止まった。

「あああああ!なんなんだよおおおおお!!」

 ホームで気が触れた男が叫んで地団太を踏んでいて、それを駅員が宥めようとしていた。たまにはそんな日もある。すぐ隣で誰かが暴れていたとて、多くの乗客にとってそんなものは大した感慨のある光景ではない。みんな、歯を食いしばって正気を保っているだけで、何かの拍子に正気でいるインセンティブを失ってしまったら、正気とは何なのかど忘れしてしまったら。いつ自分がそうなってしまうか判らないのだ。
 誰もが正気を失わず生きて行くことに必死で、正気を失ったあとに人生が続いていることなんて、想像したりはしない。


 去年、自分の人生にうんざりしていたおれは、正気でいることを辞めた。
 紆余曲折あり、死ぬ機会を得た。しかし最期まで踏み切ることはなかった。
 おれの自殺"的"行為は、死なない可能性を十分残した「願わくば死にたい」程度のものだった。そうして人生の決定的な部分を、天か何かに委ねたい様の甘えがあった。
 屋上のカギが空いている地上数十階のビルを知っているし、毎日自殺者の出る駅に行く方法だって知っている。だけどそこへは行かなかったし、決定的な行動に及ぶことは終ぞなかった。
 そうこうしているうちに、「良い精神薬が手に入ったから」等と嘯いて、死にゆく狂人の振りをすることを辞めた。つまり正気を失い切れていなかったのだ。だから今もこうして生きている。
 生きて、正気の街に帰って来てしまった。


 電車を降り、会社近くのコンビニのイートインで朝食をとり、スマホを眺め時間を潰した。
 朝9時半、出社時刻となりコンビニから出ると、丸ノ内のビルの鏡面ガラスに太陽が乱反射して、まだ5月だというのにコンクリートから湯気が立ち上っている。
 昨年もこの景色を見た気がする。まるで丸々1年時間が飛んでしまったようで、「去年起こったことは何もかも夢で、別に何も起こらなかったのだ」と言われれば、そうであるような気もしてくる。そのくらい変わり映え無い日々に戻ってしまった。
 ひとたび出社したが最後、窓の無いコンクリートの部屋で囚人のように数時間打っ棄るまで、その日はもう、太陽の光を見ることはない。

 社会に馴染めない人間にとって、自分が特別な人間だということが救いになる。
 
 自分のような社会不適合者が、結局再びまともな仕事...誰にでも替えの利く仕事を、生活の為に始めた。
 そういうことにおれは名状しがたい憤りを覚えた。

 昨年、ブログのいくつかのエントリに反響があって、そこで「物書きとして食っていける」と言われたことをまんまと真に受けて、小説でも書いてみようとしたけれど、何だかんだと言い訳をつけて、何も書こうとしなかった。書きたいものがなかった。
 それこそ才能の欠缺そのもので、結局何も形にすることができず、金にもならないブログのことなんて忘れようと思った。

 そうこうして、他にすることもなくなって、また惰性のように婚活を始めた。
 今のおれは起業家でもトレーダーでもない。収入が下がり、貯金を失い、将来に見通しが立たず、ただただ自信を失ったボンクラだ。当然、不発の日々が続いた。

 何人、何十人と会った。 与えられた作業をベルトコンベアでこなしていくように、日々スケジュールをこなしていく。
 昔誰かが「狂気とは即ち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること」だと言ったらしいけれど、狂気なんて大層なものを持ち出さなくても、一定の確率で世の中に変人はいるものだ。

 昨晩、女の子に告白を受けた。

「だっちゃんのこと、凄く素敵だと思います。お付き合いしたいです」と言われた。

 同い年の可愛らしい子だった。そんなことを言われたのも久しぶりで、舞い上がり、「おれも、君のこと好きだよ」というと、顔を覆い目を潤ませ照れていた。おれも中々どうして捨てたもんじゃない、とすぐ調子よく思ってしまった。

「きっと、すごく誠実な人だなって思ってたんです。ずっとそういう人が良いと思ってて、でもだっちゃんみたいな人、いなくて」
「だから、お互い隠し事の無いお付き合いがしたいんですよね。」

 屈託のない顔でそう彼女に告げられ、もう隠せないと思った。いつかは伝えなければいけないこと、伝えればどういう反応が返ってくるか、判り切っているようなこと。
 それを隠し通すような覚悟も無かった。

 でも、もし奇跡みたいなことがあるのだとしたら。もしかしたら...

「実はね、色々失敗して破産したんだ。本当にごめんね」

 彼女の顔から、みるみるうちに色が引いていくのが判った。