In to the wild.(荒野へ)

 鏡の向こうには、グランドキャニオンが広がっていた。
 それを見て、おれはただ、立ち尽くすしかなかったのだ。

 先月某、髪の毛を切りに近所の1,000円カットへ出かけた。どうせポマードで整えるのだ、高いところへ行く必要はない。
 7・3のツーブロック、サイド1mmと堅い仕事に就く社会人としては攻めた髪型だ。成形も簡単らしく20分ほどでカットは終わる。
 いつものように美容師が「はい、後ろもこれで大丈夫ですか~?」と事務的に手鏡を後ろに回し、確認を求めた。

 そして、おれはそこに確かに見た。美容師の持つ手鏡の中にグランドキャニオンを、雄大な、荒野の姿を。

「はい、大丈夫ですよ」

 平静を装ったが、何一つ大丈夫ではなかった。心臓は早鐘を打った。息が苦しい、早く外へ出なければいけない。

 (禿げてるやんけ...!)

 元々、そのけはあった。
 そのけというのは、毛の話ではない。いや、もちろん毛はあったのだが、ここでは気の意味だ。まぎらわしくて申し訳ない。
 東洋医学では男性は8の倍数で体質が変化するという。

 8、16歳は、まだ幼いから良いとしよう。問題は、24歳だ。
 当時婚活に没頭していたおれは、明らかに抜け毛が多いのを感じていた。口の悪い女友達からは、

「だっちゃん~、腐った油の臭いがするよ~(顔をひんまげて)」

 等と言われていたが、どうしようもなかった。
 結局まえにも書いたのだが、「シャンプーをしない」というトリッキーな解決策で窮地を乗り越えることになる。
 そこから数年、安定期が続いていた。
 ところが一昨年、昨年は、容姿については正直どうでもいい、もう関係ない、そういう気持ちが先行して、頭皮について心を配ることはなかった。
 自分の後ろに、後頭部にヒタヒタと迫る脅威について、考えが及ばなかったのである。

「まさか、こんなことになってたなんて...」

 正直、泣きたい気持ちだった。
 ハゲは全てを滑稽にする。
 例えばおれが交通事故で死んでも、「足を滑らせたのかな?ツルツルなのは頭なのに。滑って移動してたのかよ」という誹りを免れない。
 仮に自殺しても、「ハゲてたから...」と勝手に合点されてしまうだろう。
 何か不愉快なことがあって、「ふざけるなよ、こんなこと許されるかよ!」とおれが怒鳴っても、絶対誰かが「プッ!」と吹きだす、そういうエネルギーが、ハゲにはある。

 ハゲは全てを滑稽にする、ハゲは全てを滑稽せしめるのだ。

 おれはブログもシリアスな感じで書いてるし、それだけは絶対に避けなければならない。何を書いても「でもハゲてるんでしょ?」と言われたら何もかも終わりなのだ。だがまだ助かる、マダガスカル!

 速攻で育毛サロンについて調べていた。神は一体、いくつのカルマ(業)を背負わせるというのだろう。
 だがハゲたくないという思いは、それはそのまま老いる自分を、未来を意識しているということでもある。そういう意識は大事にしたいと思ったのだ。

 されどおれには金もなかった。毛も無ければ、金も無いのである。いやまだ毛はある、マダガスカル!自分を鼓舞することも忘れなかった。
 何社か検討したけれど、無料体験を実施していたバイオテックに相談してみることにした。
 ネットで予約すると折り返しの電話があり、すぐ入れるとのことで近隣の駅にあるサロンに向かった。

 そこは普通のマンションの一室だった。
 エレベータで入ると、白いワンピースを着たむちむちの悩ましい長身の美女の施術師が出てきて、どういう生活をしていたのか、通り一遍の質問をされた。
 そして白く細い指で、おれのグランドキャニオンをなぞり、かきわけ、スコープみたいなもので写真を何枚も撮ったのである。
 おれは生唾を飲み込んだ。ゴクリ、女に音が聞こえてはならない。慎重に、だ。
 女の熱い吐息が頭皮に当り、熱を帯びる。
 なんてスケベなんだ、ハゲそう、いやハゲない、マダガスカル!

 

「ちなみに、ハゲレベルでいうとどのくらいですか?」

 

 客観的な点数が欲しいと思って訊いてみた、すると

 

「うーん、そうですね、ハゲレベルでいうと30ハゲレベルくらいですね!」

 

 等と元気なお返事。は?ハゲレベルっていうのはおれだけの指標なんだが?勝手に客をハゲレベルでスコアつけてるんじゃあないぞ!という複雑な乙女心が湧いてくるのを感じていた。


 とりあえずお姉さんの観測の結果、頭皮の状況がそんなに芳しく無いということを聞いて施術に向かった。シャンプーをしてくれるらしい。
 しかしサロンの様相は呈しているが、これは普通のマンションの一室、ふつうにひとんちである。
 むちむちお姉さんに代わり、若い女の子が出てきて髪を洗ってくれるという。
 おれの髪にお湯をかけながら、
「どこから来はったんですか~?」
「これからどこ行かはるんですか~?」
 などと間延びした関西弁で世間話を振ってくる。後ろでは、他の施術師たちがきゃいきゃい言ってるのが聞える。なんだここは、あの世か?どこいくっていうか、今イキそうだ、マダガスカル!

 特別な溶液か何かで髪の毛を洗うと、すぐ謎のマシンが出てきた。
「はい、ではオゾンをふきかけますよ~」

 オゾン?O3だって?!いや知らんけど、猛毒だって理科の時間に習ったぞ、お前、そんなものを頭に吹きかけたら、あ、もう終わった、と思った。

 だけどおれは、生きていた。また死ねなかったのか...。
 女たちに開放されたおれは、ドッと疲れていた。

 後日、経過観察の為にもう一度バイオテックに行ったのだが、またしても別のムチムチお姉さんが出てきた。店長だという。年齢はおれと同じか、少し上くらいだろう、何て色香なんだ。耐えられない、マダ略
 耳を済ますと、他の男性客が「はい、出張のお土産!」等と施術したちに物品をわたし、「キャー!ありがとうございます~」等と言うのが聞える。キャバクラじゃないか。

 おれも少しくらいなら出しても良いかなと思っていたけれど、店長の説明を聞くとおれの今の状態からふっさふさの頭皮に戻るには、年100万以上かける必要があるとのことだった。

「持ち帰ります」とおれが言うと、店長が焦った顔をした。
「え、逆にどうしてですか?何かご不安があるんですか?」
「いやほんと、持ち帰ります」
「あ、さようでございますか」

 店長の顔からスーッと色が引いていくのがわかった。女ってすぐそういう顔するよね、最後まで頑張れよ!
 店長に見送られ外に出たおれは、松屋の牛丼を食いながら「あとでミノキシジルとプロペシアの錠剤注文しよ~」と思ったのだった。

 おわり