The smell of raindrops, won't you say you'll be alright

 

 高校生のとき、当時遠距離で付き合っていた彼女に会うために、バイクの免許をとった。

 当初は交通機関を使って通っていたのだけれど、バイクがあれば色んなところに彼女を連れて行けるし、彼女をバイクの背に載せて海辺を走るような、そういう青春に憧れていた。

 それに当時彼女は千葉の館山に住んでいたのだけど、房総半島では1時間に一本も電車がない。そういうことにも辟易していた。

 

 16歳の誕生日と共に免許を取得し、ドラッグスター400という中古の大型のバイクを譲り受けた。

 

 月に1,2度、早起きし、まだ薄暗い時間からバイクを暖気した。

 コーヒーを飲んで、菓子パンを頬張り、精一杯髪型を整えた。結局、ヘルメットに潰されてしまうのだから意味なんてないのだけど。

 

 港からフェリーに乗って東京湾を渡り、鋸山のふもとから長い長い海岸線をひたすら南下する。

 夏は暑くて、潮風で肌がベタベタしたし、冬は寒くて手にヒビが入った。私の住んでいた神奈川の片田舎から、片道2時間半の道程だ。

 だけど全然苦にならなかった。

 

 色々な場所へ行った。

 初めてのカラオケ、ラブホテル、行き先も決めずにただ彷徨ったこともある。

 鴨川シーワールドで、シロイルカのぬいぐるみが付いたキーホルダーをお揃いで買った。それは高3の終わりまで付けていたから、真っ黒になってしまった。

 

 海辺の天気は変わり易くて、天気予報を確認してもよく雨に降られた。

 雨の日の道路は、マンホールが良く滑る。慎重に二人乗りのバイクを操作し、やっと彼女を送り届けてから、また二時間半かけて帰宅する。

 

 会った翌日は、二人でよく風邪をひいた。

 そんなときは二人で学校を休んで、ずっと電話で話していた。喉の枯れた声を二人で笑った。それで良かった。二人で過ごす時間より大事なものなんてこの世界には無いことを、私たちは知っていた。

 

 

 彼女の家は貧しかった。

 海辺のバラックを家族で借りていた。トイレは汲み取り式だったし、クーラーもついていなかった。両親は大抵仕事で家を留守にしていたから、雨の降っているときは彼女の家で過ごした。

 湿った毛布に二人でくるまって、ただただ時間が過ぎるのを待った。

 

 ビタビタと雨音が天井を打ち、見上げると蜘蛛が巣を作っていた。目を閉じて胸に顔をうずめる彼女を抱きながら、その蜘蛛から目が離せなかった。

 隙間風が音を立てて家に吹き込み、不安になる。孤独な世界に遭難して、ただ二人きりの生存者だ。

 彼女を離したくない、と確かにそう思っていた。

 

 しかし結局、彼女とは5年程度付き合って、別れることになった。

https://datchang.hatenablog.com/entry/2019/02/23/213353

 

 大学卒業後、彼女は非正規の仕事を転々とした。大抵は、接客業だった。

非正規の仕事で女性の一人暮らしは覚束ない。彼女は家族と一緒に松戸の狭いアパートに家族4人で引っ越した。

 彼女のお父さんはうつ病になり、お母さんは館山で美容室を開いていたけれど、経営がうまくいかなくなり宗教にはまった。

 彼女のお母さんはしっかり者だったけど、こうあるべきものはこうあるべき、とそういう思い込みの強い人だった。いつかは戸建ての家を持ちたい、人並み以上でいたい、そういう思いでずっと働いてきた。

 だけど夫の追加の借金が判明して、そのうえ働けなくなったり、自分の稼ぎもなくなったりして、何もかも思い通りにならないと判ったとき、依り代を現実の世界には見いだせなくなってしまった。楽ではない暮らしの中から、多額の金銭を宗教に奉納していた。

 彼女の決して多くはない収入の殆どが、その寄付金に吸い上げられていた。

 

 私が就職してから暫くして、再会した彼女はやつれていた。

 

「いま、通関士の勉強してるんだ。親がとれっていうの」

 

 まだ資格は取れていなかったけれど、勉強中だと面接で言ったところ、神田駅の近くに在る貿易関係の会社の事務職員として正規採用された。給与も条件も、中々悪くなかった。

 

「おめでとう、あとは合格するだけだね。個人的には早く家を出た方が良いと思うよ、当面、おれの部屋にいてもいいから。」

 

 就職祝いに、彼女にロクシタンのハンドクリームを渡した。

「あなたは本当に優しいんだ、ちゃんと見て貰えたら、きっと好きになってくれる子が現れるよ」

 

 だけど、彼女は転職してから3か月持たなかった。

 事務職特有のぎすぎすした空気感や、重箱の隅をつつくような書類の不備を指摘されることに耐えられなかったのだという。

 退職日に神田駅のカフェで食事をし、一通り経緯を聞いた。うつを発症しふさぎ込む彼女に、おれは何も言えなかった。

 暫く長い沈黙のあと、彼女が口を開いた。

 

「私なんかにご飯も奢って、プレゼントまで渡して、本当に損したね。あなたの人生って、いつもそんな感じだよね、そういうとこが気に入らなかった」

 

 LINEをブロックされ、そこから暫く連絡をとることはなかった。

 

 

 思い立ち、有休をとって館山まで一人で出掛けた。そこには彼女の言うとおり「空き家」の貼紙がされていて、廃墟同然となったバラックがあった。

 これは墓標だ、と思った。

 彼女と私は、ここで永遠にまつわる約束を沢山した。若く幼い、友人の少ない孤独な二人だったから、本当に滑稽なくらい清い約束をしたのだ。

 大人になり、それらが決して果たされることのないモノなのだと頭ではわかっていたけれど、それでも私はそれを後生大事にしていた。空手形でもそういう約束をしてくれた人が確かに居た、というただそれだけのことが、この世界のどこかに再び自分のことを受け入れてくれる誰かがいるのではないか、という希望になっていた。

 けれども、館山の海辺で思い出の墓標を目の当たりにして、心の中から何かが失われてしまうのを感じた。

 

 

 翌年、再び連絡が来て彼女と食事をした。

 彼女はネットのアプリで知り合った4歳年下の美容師と結婚することを決めていた。婚約者は、まだ専門学校を出たてで、金がなかった。

 

「ねえ、50万貸して。良い仕事に就いてるじゃない。今なくても平気でしょ。私"たち"は、今必要なの」

「金、ないんだ。婚活全然うまくいかなくて、余裕ないんだよね」

「そうなんだ。なんか、情けないね、ほんと。なら働かない方がいいじゃん」

 

 図星を突かれたと思った。

 満員電車に揺られ、誰にでもできる仕事をして、家に帰る。ご飯を食べ、寝て、また会社にでかける。節制なんてしなくても、少しずつお金はたまる。上司に怒鳴られたって、別に死ぬわけじゃない。

 だけどふと考える。「何の為にこんなことをしているんだ?」ただただ時間が流れるのを待つだけの、寧ろどちらかといえば苦痛寄りの人生に、一体何の意味があるんだろう。

 わかっていた、自分には理由が必要なのだ。

 

「私は●●の為に生きているんだ、実存なんて問うな!」

 伴侶、子供、名誉、娯楽、なんでもいい、誰かに言い訳をしなければいけない。しなければ、もう人生の無意味さに耐えられない。

 彼女の一言は、言葉にしないことで、すんでのところで踏み止まっていた私の背中をトン、と押し出す無情に聞こえた。

 

 食事の帰り道、同じ路線だったけれど、「少し見て回りたいから」とウソをつき、改札で彼女を見送った。一刻も早く独りになりたい、と思っていた。

 

「死んだりしないで」

 

 顔をあげると、彼女が私を見据えていた。途端、踵を返し改札へと消えて行った。

 

 コンビニで買ったチューハイを飲みながら、一駅分歩いた。

 彼女の言う通りだ、なんて情けないんだろう。情けなくて、どうしようもなくて、何度も立ち尽くした。おかしな顔をしていたのだろう。すれ違うホストの私を見て笑う声が頭に響いていた。

 

 

 それから2年経ち、今年、千葉の館山を中心に台風15号の猛威を伝えるニュースが報じられる頃、LINEに電話がかかって来た。

 

「元気でやってる?わたし今、静岡にいるんだ。」

 

 彼女の話だと、どうやらあの海辺のバラックは、台風で完全に大破してしまったらしい。何もかも風雨に洗い流されてしまった。

 私たちの思い出には、墓標さえ与えられなかった。

 

「実はね、子供うんだの。見に来て欲しい。あなたには沢山ひどいことしてきたけど、良かったら」

 

 別にもういいよ。そんな昔のこと。

 

「お金も借りる用事ないから、安心して」

 

 本当に勝手だな……。

 

 ふふふ、と笑う彼女の声の中に、付き合ってた頃の優しい声を思い出した。高校生の頃、彼女はひたすら優しかった。彼女の作る料理は美味しかった。多くを望み過ぎず、物事がうまく転がり続ければ、良い母親になれるはずだ。それが難しいのかもしれないけれど。

 

「わかった、会いに行くよ。いつにしようか」

 

 Googlemapで調べると、私の家から彼女の住んでいる町まで、2時間半だと判った。

 

「2時間半か~、結構遠いな」

 

 自分で口にして思った。そうか、2時間半は結構遠いんだ。昔のおれ、偉かったなぁ。

 直接会いに行ったって、また傷つくだけかもしれない。それでも彼女の幸せそうな顔を確かめたい。

 そうしたら、私たちの人生はいつか花開く日が来るんだと、私たちの人生はそういう仕組みになっているんじゃないかって、少しは信じられそうな気がする。