バレンタインデーを許すな。

 赤道から上下20度経度を広げた高温多湿の熱帯、特に東南アジアにおける一帯を「カカオベルト」と呼ぶ。
 似たようなものにコーヒーベルトというものがあり、これは経度上下25度までと範囲が広い為、カカオベルトの方が範囲が狭い。

 しかし実際には高地でも栽培可能なコーヒーと異なり、カカオは低地の熱帯でなくては育たないという点でさらに栽培可能な地域は絞られる。

 高地での農業は比較的牧歌的である。低地より気候が涼しく、虫が出ず、感染症のおそれも少ない。
 他方、低地のカカオ栽培は、コーヒーより高値で取引される利点はあるものの虫や感染症のおそれを常に抱えながら農作業に従事することになる。
 つまり、人が死に易い土地なのだ。

 人が死に易い土地は、当然命の価値も軽い。
 従事者が死に失われた労働力を補うのに、人身売買が行われる。その主体となるものは、当然暴力によって御しやすい子供たちだ。
 子供が子供の面倒を見、農業を教え、貧弱な装備ゆえに虫や感染症で死のうとも、戸籍のない子供の足跡を追うものはいない。死体は生ゴミとともにその辺の塚に放られ、風化を待つだけである。

 熱帯はまたコカインの原料となるコカノキの栽培にも適した土地でもある。木を隠すには森といったもので、低地に生い茂る森林は遠目がきかない。認められない何かを隠しておくのに丁度いい。

 無論コカノキの栽培も子供たちが担うことになる。
 育った子供たちは、少女のうち美しく育った者は、自らが育てたコカによって狂わされ再度売られることになり、その他は新たな労働力を生む人身御供となり、少年たちは人身売買、麻薬ビジネスに従事していくことになる。
 彼らに罪悪感はない。それが彼らの育ってきた道程であり、日常生活の一部なのだ。

 非合法なビジネスのキャッシュフローの基礎と体裁を健全に装うのが、チョコレートの需要だ。
 世界的な人口増の傾向もあり、チョコの需要がとどまることはない。
 そのたびに東南アジアのどこかで労働力が足りなくなり、子供が売られ、理不尽な病死を経、蜘蛛の巣様に犯罪の連鎖を紡いでゆく。誰もチョコを求めることがないのなら、子供が売られることはなく、コカノキを覆い隠すベールも存在しはしなかった。

 世界のどこかでバレンタインデーというものがあり、少女が少年に恥じらい混じりにチョコを手渡すとき、その手は同年代の少年少女の血で紅く染まっている。