耳無し重助

 戦前、昭和一桁年。
 神奈川の相模で重助は生まれた。五人兄弟の末子であった。
 間もなく戦争が始まり、幼く貰い手がつくうちに重助は神奈川のさる海辺に在る料理屋を営む養父にもらわれた。
 とはいえ養父としても別段重助を可愛く思い引き取ったわけではなく、単に重助の実親にある何がしかの恩なるものを晴らそうとしたに過ぎない。
 戦時中でも魚は獲れる。漁港の町ゆえにその食生活は都会の人間に比べれば比較的真っ当なものだった。

 しかし、決して線が細かったり小柄であったわけではないけれど、色白で紅を差したような唇の重助の容姿は、浅黒く大柄の者の多い漁港では多少奇異であり都会者の様相であった。
 当時、「漁業関係者はみんなヤクザと思え」というほどに漁港の人間は反社会的勢力と密接に関係していた。漁業はシノギであり、荒っぽい連中にとって奇異なる捨て子の重助はイジメ相手として格好の標的となった。

 養親からはことあるごとに「鮪漁船に乗せちまうぞ」等と脅された。実際鮪漁船の多数停留する港町であったから、実親に捨てられた経験のある重助にとってその脅しは現実の刃を突き付けられるに等しい。
 
 養親のいる家にも外にも居場所のない重助が物思いに耽りがちな陰鬱な性格を獲得するようになったのも事の次第としては自然の成り行きである。
 とはいえ徴兵制が始まり徐々に目の上のたんこぶである大人の男たちが消えていくと、重助の気持ちは幾分晴れやかになり安穏な暮らしを得ることができた。

 しかしそれも長くは続かなかった。
 10代も後半となると徴兵年齢の引き下げに伴い、重助は東海から移転したばかりの横須賀鎮守府で訓練を受けることとなった。
 戦地で重助は勇敢な男だと言われていた。しかしその根底にあるのは、自分の帰る場所は何処にもない、いつ死んでも構わないという捨て鉢根性であった。

 しかし組織として動いていれば、捨て鉢となるのを許してくれないこともある。
 満州において作戦中、自らの無謀によってそれを庇った同期を死なせてしまうことになり、重助は上官から叱責を受けることとなる。
 懲罰用の鞭で百叩きを受け、その打撃の苛烈さによって右耳の上半分と聴力を失うことになった。

 聴力は兵士にとって重要な能力であり、それを失った重助は隊にとって足手まといでしかない。重助は他の傷病兵とともに日本に帰投させられた。
 現代と異なり、満州から帰郷するのも容易なことではない。道中亡くなる友人たちも多くいたが、衛生面の問題もあり重助は仲間とともにその亡骸を腐りきる前に海に放った。右耳の下半分は、そのとき代わりに腐り落ちて失うことになった。

 帰郷すると、まだ若い男の少ない時期であったこともあり養母から許嫁として近所の女を紹介された。だが、丁度そのとき養親の一人娘であるギンが奉公から帰ってきていた。
 奉公先の旅館で生意気な客を殴るという狼藉を働き暇を出されるほどお転婆であったギンは、再度奉公に出たくないばかりに重助との間に子をもうけた。
 そんなことで養親は致し方なく娘と重助との結婚を認めざるを得なかったのである。

 こうして重助は養親の料理屋で板前として働くこととなった。
 右耳を失っていたとはいえ肉体は健康な若者である重助は労働力として田舎で重宝がられ、商売はうまくゆき、料理屋は民宿に改築した。
 終戦して郷里に男たちが帰ってきてからも、意気消沈した他の男たちとは別に既に自分の城を持っていた重助は幅をきかせることができた。目の敵にされていた漁師たちからも「耳なし重助」と親しまれるようになった(普段は漁師用の耳あてのついた帽子で耳を隠していたのだが)。
 団鬼六等の文士や大物政治家との付き合いも生まれ、商売は順調、ギンとの間に三男一女の子供をもうけ、当時珍しく4人とも東京の一流4年制大学にやった。

 月日は流れ、末娘に男児の孫が生まれた。男児は色白で、重助にそっくりだった。
 三男児の孫は嫁に囲われ殆ど顔を見たことはなく、いっとう自分に懐いていた末娘がやっと近くに住み、孫を触らせてくれたのであるから、ほぼ初孫同然で可愛がった。
 娘に無断で孫を連れ出して漁船に乗せて勝手に遠征したり、旅行に連れて行ったりしては、娘に怒鳴られることが度々であった。

 重助が還暦を迎えた頃、いつものようにビールケースを抱えたときに、ぎっくり腰になってしまった。
 ぎっくり腰自体には過去に何度かなってはいたものの、今回は大層重く骨髄に注射を打ったり手術したりしても結局直らず、数ヶ月入院することになってしまった。老齢になるとはそういうことだ。
 やっと入院生活が終わり家に帰ったとき、民宿は既にギンと子供たち他従業員の手のみで回るようになっていた。俊敏に動くことのできない重助は足手まといでしかなく介入する余地はもはやなかった。

 「居場所」というものに固執していた重助にとって、自らの城である民宿にさえ自分が無用であるという確信をしたとき、自分の人生や自分の存在について大きな諦念が生まれたことは間違いない。重助の家は民宿の真横にあったから、猶更痛感していたことだろう。
 そこから痴呆が進み、人の言葉をきけなくなるのに半年もかからなかった。

 ただ週に何度か正気に戻る日があった。それがよかったのか悪かったのかは判らない。

 ある夏の日、孫が確か小学校2年生の頃だったと思う。夏休み、気まぐれに娘一家が泊まりに来た。タイミングよく重助は正気であり、久々に娘や孫との交流を楽しんだ翌日、家族が民宿の仕事に出かけ家からひと気が消えたのを見計らい、首を括った。

 実は家には、未だ孫が夏休みをいいことに寝ていたのだが、そんなことを気に掛ける余裕は重助にはなかった。いつ自分が正気を失うか定かではない、ことは一刻を争っていたのだろう。
 そして起きてきた孫によって、障子の梁に首を吊っている重助は発見されることになったのである。

 孫は、いや私は、最初梁にかかったモノを祖父だと認識できなかった。
 何か異様に人の形をした、人の気配のしない人ではない何か。モノとしてあまりに雑然としていて、危うく気づかず外に遊びに出てしまうところだった。しかし再度よく見てみると、それはやはり祖父の抜け殻がそこにあった。
 足を引っ張ると、弾力のない皮膚のぶよぶよとした感触がこの体に魂の宿らないことを教えてくれた。昨夜、「マグロの目玉、くうか?」と変わらず無邪気に笑っていた祖父はもういなかった。
 とにかく尋常でない事態であることはわかった。裸足のまま外へ駆け出し、母を呼んだ。

「お母さん、お母さん!!」

 民宿に行って探してみたけれど、そんなときに限って母の姿は見当たらないのである。

「おばあちゃん!おばあちゃん!!」

 二人して姿を消してしまっていた。不安でたまらなかった。足から血が出るほど走れども走れども、知ってる顔が見当たらない。まるで誰もいない世界に置き去りにされたような感覚だった。
 偶然、私の姿を見た近所のおばさんが、「ぼっちゃん、どうしたの」と話しかけてくれたおかげで、そこからは大人たちが全てを担ってくれた。

 それが私の人生で最初に見た遺体である。

 葬式は大名行列のような大がかりなものとなった。地元で実直に商売をしていれば、自然に愛されていくものだ。
 耳無し重助ただ一人だけが、自分自身の卑しい生まれと醜い容姿を理由にして、自らに居場所を与えなかったのだ。勿論、人間はそんなに単純に割り切れたりはしないのだけれど。

 数年後の夏、民宿の目の前にある海を泳いでいると小判鮫の姿を見つけた。近海では珍しい魚だ。
 泳いで追いかけていると、小判鮫はどんどん逃げて行った。海上のブイのもっと遠く、そして深海へ逃げていく小判鮫を追って私も潜った。

 「まずい、戻れなくなる」とそう気づいたときには時すでに遅く、海上に出ようとしてもまるで何かに掴まれたように身体が海中から上がらなかった。じきに意識はなくなり、気づいたときには病院だった。

 そのとき右耳の鼓膜を失い、聴力を失った。あれからずっとカナヅチである。

 そして運命的なものを感ぜずにはおれなかった。重く陰鬱の性格に、容姿や後天的な特徴まで似ているのだ。
 私はおじいちゃん子だったから、別にそれは嫌なことはでない。ただ身内の死は呪いのように私の心の一部を死で覆うようになった。

 月日が経つにつれ、人が死ぬという事実を遠い世界のフィクションではないと強く感じるようになった。今はただ、一刻も早くその日が来ることを願っている。