今も未だ旅の途中であること


 小学4年生のある年、京浜急行の出展で私の描いたマリーゴールドの花の絵が表彰を受け、電車の広告に数日貼り出されるということがあった。
 それは理科の、花を観察することにかこつけた課題だったのだ。しかしこうして目立つような事態になることは、私にとって決して喜ばしからぬことだった。
 私の絵は、家にあったwindows98のブラウン管に画用紙を押し当て、検索して出てきた適当な大輪の花の写真を模写したものだった。それはコンペの求める趣旨からすればイカサマだった。
 そして「明らかに私の技術より巧く描けている」その絵について問い詰められた私は容易くイカサマを自白した。そのことを知った母は、烈火の如く怒りを露わにした。

 けれど私はそうするしかなかった。そのような手を使わなければ、コンペに受賞する水準はもとより担任に「課題をこなした。」と認定を受ける水準のものさえ描けないことが私には判っていた。今まで何度もそうして放課後居残りをさせられ、暗くなるまで絵を描いてはボツを食らって難儀してきたからだ。
 私の心の中に、「じゃあもう、オレにはどうすることもできないな。」という大きな諦念が生れた。

 


 当時私は塾に通わせて貰っていたが、しかしその成績は小学校でも塾でも最下位だった。
 公文式では小4の課題をこなせず、小1の課題をやらされていた。小学生の中にあって、下学年の子どもたちと同じ課題を解かねばならないこと、そしてその中でも決して上位ではないことの屈辱は計り知れないものだった。
 物覚えが悪く、といってスポーツも人付き合いも得意ではなかった。
 「自分は出来損ないなんだ。」と子供ながら当然自覚しもした。

 そして、「特別学級」の知的障害を持つ子どもたちが目をひん剥いて何やらわけの分からないことを喚き廊下を彷徨う様に戦慄を覚えた。私も一歩踏み外せばあちら側へ落ちてしまうのではないか、そのことに恐怖していたのだ。
 そのときは未だ、「他人からどう思われても構わない。」という開き直りはしていなかった。


 ある日、知的障害を持つ同級生の男子が、登校する際かぶらねばならない「黄色い帽子」を無くして帰宅したことがあった。
 彼曰く、「だっちゃんが盗って、河に捨てた。」という。私は両親とともにその家に謝罪に出かけた。しかし私はやっていなかった。だが幾ら弁明しても無駄だった。
 「お前は素行が悪いから信じられなくて当然。黙って相手の言うことを受け容れていなさい。」と父に言われ、知的障害を持つ同級生より私の言葉が価値を持たないことに愕然とした。ここから逃げなければ、「あちら側の人間」になってしまうと思った。


 ある日、学校から帰宅すると、「野口君と遊びに行ってきます。」と書き残し、私は旅に出ることにした。何故野口君だったのか。それは仲が良くも悪くもなかったからに他ならない。どうでもいいと思っていたから、彼の名前を書いたのだった。
 お年玉を貯めておいた1万数千円と、親の財布から数千円を抜き出し、カバンの中にお菓子を詰め込んで自転車に乗った。
 とりあえず、都会へ行こうと思った。
 横須賀、浦賀金沢八景、、、と京浜急行線上を北上した。途中休憩し、腹が減ってお菓子はすぐに食べてしまった。よっちゃんイカ午後の紅茶ミルクティー買い足しひたすら走り続け、結局、上大岡駅の下にある駐輪場に自転車を乗り捨てた。長いようで短いツーリングだったけれど、もう辺りは真っ暗になっていた。
 横浜市営地下鉄に乗り、終点・あざみ野で下車した。バスの乗り方が判らず、闇夜の中、歩いて新百合ヶ丘駅へ向かった。そこには、祖母の家があったからだ。
 ここまで一人で遠くへ来たことは今までなかったけれど、親に連れられて来たことがあり道を覚えていた。また家を出ることを企図してからというもの、「おばあちゃんちの最寄駅って、なんだっけ。」等と折に触れて訊いては情報を集めていた。
 新百合ヶ丘駅の近くに在る祖母の家に2時間ほど歩いて、やっと辿り着いた。恐る恐る中を伺ったけれど、そこに人の気配はなかった。祖母は、両親から私が帰らないことを電話で連絡を受け、私の実家へ向かっていたのだった。
 これ幸いと私は祖母の家の合いカギの場所を思い出し、家の中へ侵入し、シャワーを浴びて適当な食料を漁った。冷たい納豆と魚肉ソーセージを食べ取りあえず満たされた私は、祖母のこたつで眠りについた。歯は磨かなかった。
 いつ祖母が帰って来るとも判らなかったから、家を漁りお金を盗むと、祖母の家を後にした。

 小田急線に乗ると、朝の通勤ラッシュだった。当時の小田急線の通勤はまさに戦争のようで、両脇をサラリーマンに挟まれ、私の小さい身体は宙に浮いた。そうして何とか、新宿へ出た。
 新宿は、当時小学生の体の小さい私には余りに複雑で、構造を把握することはできなかった。御苑の方へ歩いて行くとマクドナルドがあり、そこで昼飯を食べた。
 ガードレールの下をホームレスがリアカーを曳いて徘徊していた。家へ帰りたいとは思わなかった。このまま、ホームレスのように世捨てになることを望んだ。都会を延々と歩いていたけれど、疲れ果て、その辺の橋の欄干の下で眠った。

 翌朝、秋葉原に彷徨い出た。当時、テレビでオタクの聖地として度々取り上げられている光景が目の前に広がっていることに胸が膨らんだ。エッチな美少女の写真がいたるところに貼られていて、すごく興奮した。しかし頭が痒くてバリバリ掻き毟ると、白いフケが沢山でた。こんな汚い手で股間を触るのはよそうと思った。
 当時、秋葉原にはジャンクショップのようなお店が露店のように沢山軒を連ねていた。そういうものを搔き集めて何かを作るようなギークに憧れもしたし、用途不明のパーツを見て漠然と「良い形をしているから、欲しいな。」と思ったけれど、結局当時の私にはどうしようもできなくて、その日はコンビニで五目おにぎりと赤飯おにぎりを買って食べながら彷徨った。
 その辺のスーパーに入ると、コンビニでは高めだったお茶が少し安く売っていて、これからはスーパーでお茶を買おうと思った。また、疲れた身体にはミルクティーよりも甘くないお茶の方が美味しいということを発見した。
 そこからひたすら線路沿いを南下した。途中、神田あたりの汚い河に汚い野良猫を見付けて餌付けし、一緒に眠った。

 翌朝、東京駅の辺りを彷徨っていたが、ただただ大きい池と、城の堀を見付けた。行く当てもなく池の周りを歩いていると、段々見覚えのある景色が目に入って来た。霞が関上智大学、永田町、青山一丁目
 青山一丁目のマンションには、祖父が住んでいた。近くには青山霊園があり、怪談好きの祖父が四谷怪談を語って私を驚かせたことがあった。
 祖父の家は銀杏並木の隣だったから分かりやすく、すぐに辿り着くことができた。布団で眠りたいと思い祖父の家のドアの前に立ったがしかし、室内には祖父が在宅している気配があった。見つかりたくないと思った私は諦め、周辺のソバ屋で腹ごしらえをした。ただお金が目減りしていくことに危機感を抱いた。このペースならもって数日だろうと思った。

 青山霊園にも猫がいたので餌付けして遊んだ。そのとき季節は秋だった。連日の野宿で体が冷え込み、体力が低下しているのがよくわかった。
 しかしこれからどうしよう、とその辺をうろついていると、青山一丁目十字路の交番の婦警さんに「ぼく、どうしたの?」と捕まえられた。そこから何をどうしたのか、みるみるうちに私の素性は暴かれ、銀杏並木の祖父の家に強制送還された。

 


 祖父の家でシャワーを浴びテレビを見て寛いでいると、母が泣きはらした顔でドタドタ祖父の家に入って来て、私を抱きしめ「家に帰ろう。」と言うのだった。何故だか私も涙は出た。
 しかし心は醒めていて、ただただ「ああ、まだあの日常を続けなければいけないのか。」という気持ちに心を覆われていた。その後、家に帰ると私は勉強が出来るようになっていて、中学で一番の成績をとるようになり、学区で一番の高校に入学することが出来た。

 しかし結局、物事は人の与えられた能力のあるべき形になるらしい。
 気が付くと30歳の孤独でうだつの上がらない無能な大人になっていて、貧困を這いずっている。そして今もまだあの「自分は出来損ないなんだ。」、それなのに「この日常を続けなければいけないのか。」という醒めた気持ちの中にいる。