as paisen in tokyo

「パイセン! お久しぶりです。」

 

 木島崇は、カフェに現れると快活に笑って見せた。

 高い身長に健康的に黒い肌、整った顔は男ながら色気を感じてしまう。ネイビーにストライプの入った既製品のスーツはきっと高い物ではないのだろうけれど、オーダーメイドなんてしなくたってすっきり身体にフィットしているのは、彼のスタイルが理想的だからなのだろう。

 確か、4つ年下の28歳。同じ歳の頃の私はこんなに爽やかだっただろうか? きっとモテるはずだ。そんなことにしか同性に対して判断基準のない自分がイヤになる。

 

「ねえ、久しぶりじゃん。久々に連絡もらってちょっとびっくりしたんだけど。マルチ? 宗教? 」

 

 彼は、アハハと笑って気まずそうな表情をした。

 

「そう思われても仕方ないですよね。別に全然、大したことじゃあないんですよ。」

 

 ただお酒飲みたかっただけで。でもこんなご時世ですから、こういう健康的な場所しかないんですよね。そんなことを言いながらメニューを開いて思案していた。

 

「いいよ、オレ最近そんなにお酒飲まないんだ。お金だってそんなにあるわけじゃないからこのくらいで丁度いいよ。」

 

 そうですか。あ、アイスコーヒーで。といって彼は私に向き直った。

 

「もしかして、ご迷惑でしたか? 」

 

「そんなことないよ。オレ今すごくヒマしてるから。無職異常独身中年男性ってやつ。」

 

 *

 

 崇と知り合ったのは7年ほど前になるだろうか。青山一丁目で開催された立食形式の街コンに参加したときに知り合った。暑苦しい梅雨のジメジメした曇天の日だったと思う。

 

「えー、だっちゃん今実家から通っているの? 早く独り暮らししなよ。ダメだよそんなんじゃ。男でしょ、ダサイよ? 」

 

 社会人に成り東京で就職した後、半年ほど実家に住んでいた時期がある。大学院に通っていたこともあり同い年の学生に比べて2年社会に出るのが遅れていた。学生の頃は東京で一人暮らしをしていたのだけれど、その部屋を引き払ってからは何せ金がなかった。背に腹を変えられなかった。今思えばもっと冴えたやり方もあったのだろうけど。暮らすのに都合の良い部屋が見付かるまでの間、実家から片道2時間以上かけて都心の職場まで通っていた。それは傍目には滑稽に映ったかもしれない。

 だからといって、初対面の女にそのことを指摘される謂れはなかった。自分にはやんごとなき事情があるのだということをわざわざ他人に説明する男は私のほかにもいないだろう。

 上司が部下に諭すが如く、さもそうすることが当然のように滔滔と私をなじる女の「自己紹介カード」を見ると、32歳とあった。

 

「ああ、そうですか。」

 

 小太りの女は当時20代半ばの若造である私が取り合わないことにカチンと来たのか怒りを露わにし今にもヒステリックにがなり立てようとしていたが、話を聞いていた隣の男に肩を抱かれた。それが崇だった。

 

「あ、ボクらご飯とってきますんで。」

 

 二人でお皿を手にビュッフェに置いてある食事をよそいながら愚痴を言った。

 

「何なんだよあのババア、初対面で説教とか信じられん。これは仕事か? 」

 

「しょうがないっすよ。きっと誰にも相手にされないからイラついてたんでしょ。」

 

「……崇……くん? でいいのかな。マジ助かった、ありがとうございます。」

 

「いいんすよ。チームプレーですよ。ボク年下なんで呼び捨てでいいっすよ。あとタメぐちで。」

 

 崇は京都の専門学校を卒業した後、中古PCを修理して販売する仕事の営業の仕事をしていた。地元で就職し、最近、東京支社に転勤になったということだった。さすが客商売をしているだけあって場の空気を読むことに長けている。わざわざ助け出してくれるとは中々の快男児だと思った。イケメンだし。

 

「何人連絡先交換しました? ボクは5人です。」

 

「いや、まだ一人もできてなくて。」

 

 あちゃあ。といって彼は笑った。そうした経緯で、二人でパーティ会場を回ることになった。こういう場所では同性の友人もよくできる。それは単なる馴れ合いや慰め合いなのだが、誰にも相手にされず一人で時間をうっちゃるよりはずっと心強い。

 

「今度あっち行ってみましょうよ。」

 

 崇に連れられて、さっきの三十路女のいない人の輪の中に分け入っていった。

 

「どうも、だっちゃんっていいます。こっちは崇21歳。何の話してたんですか? 」

 

 ちょっと、どうしてだっちゃんが自己紹介するんすか! と崇は笑っていた。彼の快活な笑顔に、場の空気に「この人たちは悪い人たちじゃないな。」という微かな安堵が広がったのを感じた。

 その場の男女を交えた会話は穏やかに進み、可もなく不可もない表面的な会話をしただけだ。またしても私は女の子から連絡先を手に入れることが出来なかったが、元々人見知りの私にとってはそんなことより「特に支障なく会話が終了した。」という事実だけで一安心だった。彼女を作るだなんて話はもっとずっと先にあった。

 女の子たちが散開すると、会話の輪の中心にいた男が「ねえねえ、君ら、連絡先でも交換しようよ。」といってスマホを取り出し我々はLINEを交換した。

 男は木村、キムと名乗った。キムはDJをやりながら事業も運営していると自己紹介した。彼はその名乗った職業に相応するように話術が長けていた。身長は150cm代と小柄だったがそれを感じさせない威圧的な雰囲気を放っていた。

 私はそれが半グレみたいな人間の放つ夜の世界のそれだということを知っていた。半グレには何故かデカい奴とチビの二通りしかいない。

 

「オレ、たまに合コンとか開くからさ。今度誘うし一緒に来いよな。」

 

 夜の世界の住人であっても合コンに誘ってくれるなら構わない。とにかく彼女が欲しくてたまらなかった。

 

 数週間後、キムからLINEが届いた。新宿三丁目にあるレストランで合コンをやるから来いとのことだった。崇にLINEを送った。

「キムさん今度合コンやるんだって。お誘い来たんだけどそっちは来た? どうする? 」

 すぐに返事がかえってきた。

「ああ、そうなんですね。実は何回か断ってて。だっちゃんパイセンが行くならボクも行くって言ってたんですよね。それでかもしれないです。」

 

 崇が何度か断ったという合コンの話は私には届いていなかった。

 あれから崇は私のことを「パイセン。」と呼んで慕ってくれていた。きっと転勤したての東京の土地で、ほとんど最初に知り合った仕事外の友人だったのだろうと思う。そういう相手にとりあえず懐いてみる姿はひよこみたいで愛らしく思った。別に私は彼の先輩でも何でもないけれど、年下のイケメンに懐かれるのは決して悪い気持ちはしない。

 

「オレは行くつもりだったんだけど。」

 

「じゃあボクも行きます。」

 

「無理しないでくれよ。」

 

「合コン終わったら飲みましょうよ。」

 

「良いけど、それってオレが誰も持ち帰れない前提で言ってるよね? 」

 

 崇は「テヘ」という顔をしたスタンプを送ってきたきり何も言わなかった。

 合コンの当日、仕事が終わりすぐに現地に参集すると、崇は店の前で私を待ってくれていた。

 

「オス。」

 

「もうキムさんもみんなも中にいるみたいですよ。」

 

「待たせちゃってごめん、ありがと。」

 

「いいんすよ。」

 

 崇は破顔してみせた。店の中に入ると既に男女が入り乱れて座っていた。お誕生日席の位置にキムが立ってスマホを弄っていた。傍らには黒人男性がキムのスマホを覗き込みながら何かを話しかけていた。

 

「お、……だっちゃん、だよね? お疲れ。とりあえず会費は6千円、先払いね。」

 

 その場でお金を徴収された。このお店のコースは6千円もしない。参加者から徴収した差益が彼らの取り分なのだろう。街コンに参加して合コンの参加者を募り、出会いの場を提供して現金収入を得るのは、時給に換算すれば相当うまみがあるに違いない。

 だが合コンに参加したからって、コミュ障で醜い私がそう簡単に結果を出せるわけではない。出会いの場に出なければ確率は0だから、と言い聞かせて顔は出すものの、今回も惨憺たるものだった。女に侮られ、会費はとられ、時間は浪費する。

 女のシブい顔を見つつ、遠くにいる崇を見ると、彼のいるところは相当盛り上がっているようだった。

 合コンが解散したあと、私たちは連れ立って新宿の街を歩いた。崇は私に合コンの結果を聞かなかった。

 

「コンビニで酒買おうぜ。」

 

「何でです、居酒屋入らないんですか。」

 

「コンビニの酒の方が安いだろ。居酒屋見つけるまでお腹の中入れとこうよ。」

 

「パイセン、ちゃんとした仕事してるのに貧乏性っすね。」

 

 崇がグフフ! と笑った。

 はい、カンパイ。私たちはチューハイを開けて缶をくっつけ適当なことを話しながら歩いた。新宿なんて歩いていれば無限に居酒屋はある。何処でもいいけど、それだけに決め手に欠ける。

 

「あ、思いついたんですけど。相席屋なんてどうですか? 」

 

 相席屋は、男が女の飲食代を支払う仕組みの居酒屋だ。

 男が先に入り、店内で女の客が来るのを待つ。女の客は男の客の待つ席に「相席」として通される。女は無料で飲食できるけれど、少なくとも相席した男の相手はしなければならない。そして入店するには、男女ともに「二人組でなければならない。」というルールがある。いつでも思いついたときに一人で入ることはできないのだ。

 

「チミは天才かね。一度行ってみたいと思ってたんだわ。行ってみるか! 」

 

 店内に入ると、薄暗い店内に男女がひしめき合っていた。

 卓に着いて十分もすると、若い女二人組が案内されてきた。どちらもサブカル系の20代前半、あるいは10代といっても通用するであろう少女のような外見をしていたけれど、いずれにしても可愛いことには相違なかった。

 しかしまあ、結果はご想像のとおりだ。私はコミュ障なりに頑張って会話を振ってはいたけれど、彼女たちの視線はしっかりと崇の方に注がれており、私が何を言っても馬耳東風であった。ただ、少なくとも崇の友人であろう私に最低限失礼がないように気を遣っているのであろうことだけは判った。

 きっと自然界で彼女たちに出会ったら、「何、このオッサン。キモイ。」で終了だったに違いないと思うとそれだけでもマシなのだと思う。

 

「二次会いきましょう。」

 

 と彼女たちの方から誘われた。

 

「パイセン、何食べたいですか。」

 

 と崇から訊かれ、「じゃ、もんじゃにしようか。」と答え、適当なもんじゃ屋に入った。

 もちろん、彼女たちが誘ったのは私ではない。彼女たちにとっては余計なサラリーマンのおっさん(といっても二十代半ばだが)がオマケでついてきたようなものだろう。私の始めた話題は「はいはいはい、なるほどですね。それで崇君は……。」のようにぶつ切りにされて取りつく島はなかった。

 トイレで用を足していると、「オレ、何やってんだろう。」という気持ちが頭をもたげてきた。時計をみると既に22時半になっていた。もう十分だろうと思った。

 

「オレ、明日も仕事だから先に上がらせて貰うね。1万円置いとくから。」

 

 トイレから戻るなり3人にそう告げ、荷物を拾って店を去った。私を見上げる崇が、「あ、だっちゃん……。」と私に何かを言いかけているのを目の端で捉えたが、相手にはしなかった。彼女たちは「あ、もう行っちゃうんですね! ご馳走様でした! 」と先ほどまでとは打って変わって明るく有終の美を飾ってくれた。

 店を出ると新宿の街の濃厚な夜の湿度が肌に張り付いて不快だった。

 

「まあ、こんなもんだから。」

 

 そう呟いて自分に言い聞かせた。その頃にはもう私は、自分が他人に、とりわけ異性に求められない人間であることを身に染みていた。

 わかっていた。醜い私とイケメンの彼が並んでいれば、誰だって私が引き立て役だと思うだろう。けれどひたすら気のいい彼に遠慮して、そんなことを口に出すことはできなかった。

 間違っているのはこの劣等感なのだろうと思う。他人と比較して美醜に打ちひしがれることには終わりがない。さりとて他人の目を一切気にしなくなった人間が向かう先は狂気の果てでしかありえない。生きていくとは、他人と比べられるということだから。だからきっと、都合の良い時には比べられることを意識して、都合の悪い時には比べられることを意識しない、心をスイッチのように切り替える器用さが必要なのだ。そうでなくてはこの苦しみにはきっと終わりがこない。でも、本当にそんなことが自分に出来るのだろうか? 劣等感を俎上に置いて自問自答を繰り返していると、ただただ途方もない気持ちになる。

 帰りの電車の中で、崇から「今日はすみませんでした。」とLINEが来ていた。何かを返そうとも思ったけれど、「え、何が?! 」も、「いやいいんだよ。」も違う気がした。結局答えが見つからず、返事はしなかった。

 

 それから暫くして、私は亀有にワンルームを借りて一人暮らしを始めた。

 あれから何事もなかったかのように崇とは何度か合コンに参加した。ある日、合コンの二次会でカラオケに行くことになった。崇は目当ての女の子がいたらしく、珍しく強かに酔っぱらってしまっていた。

 

「だっちゃーん、カナコが相手してくれないんすよー! 」

 

 などと当のカナコ本人を目の前にして悪酔いする崇を介抱していると、「その人、だっちゃんが連れて帰ってあげてね。」と女性陣にきつく厳命されてしまった。

 

「ぶええ、気持ち悪い。」といって嗚咽する崇の背中を撫でた。あれから崇は何人か彼女を作ったり別れたりしていたようだったけれど、私にはひたすら愛想の良い、可愛い崇の一体何が不満で彼女たちは別れてしまうようなことになるのだろうと思った。話を聞く限りでは見当もつかず、きっとヤバい性癖でもあるのだろうと思うことにした。

 

 出会ってから数か月経った頃、休日に渋谷で偶然崇とバッティングし一緒に蕎麦を食べることになった。

 

「実はですね。ボク最近転職したんですけど、2か月目で優秀賞を貰ったんですよ。」

 

 誇らしげに見せる彼のスマホの画面をのぞき込むと、そこには仲間に囲まれて賞状を掲げる崇の姿が写っていた。崇は大手家電量販店の営業に転身していた。そこで早くも成果を上げ、表彰されていたらしい。

 

「優秀なんだね。」

 

「厳しいですけどね、楽しいですよ。評価されるのは。金一封も出ますしね。まあ、それでも給料は低いんですけど。」

 

 そういえば以前、崇と一緒に電車に乗ったときに「だっちゃんパイセン、6か月定期買ってるんですか? 貴族ですね。」と言っていたことがあった。

 

「何で? 6か月定期の方が1か月当たり安いじゃん。」

 

「いやいや! そんなお金ないですよ。実はお金持ちだったりするんですか? 」

 

 そんなことを言っていた。私も学生時代、お金に困っていた頃、学生定期を1か月ごとに支払っていたことがあった。崇はお金に困っているのだろうか。

まあ、いくら低給だと言ったところで食うには困るまい。よく知らんけど。

 

 それから暫く月日が流れ12月も半ばの頃、再びキムから連絡が来た。

 

「実は今度のクリスマスにDJとしてパフォーマンスするんだけど、もし良かったらおいでよ。」

 

 クラブなんて久しく行ってない。まあ、クリスマス・パーティともなれば賑やかしは一人でも多い方が良いのだろう。そもそもクリスマスにクラブに来るような連中というのは寂しい人間ばかりが集まるのだ。上手くすれば何か出会いみたいなものが、まあ、無いだろうけど、あったらいい。

 西麻布の住宅街の一角にあるクラブでパフォーマンスが始まると、ビームやミラーボールの明滅、CO2のガス噴射に紛れるようにして男たちは女たちに声をかけまくっていた。私も私で気合を入れて女の子たちに声をかけていたけれど、もちろんどうにもならなかった。そういえば崇も来ると言っていたけれど、何処にいるんだろう。まだ仕事が終わってないのだろうか。

 ふとフロアの横に設置されたトイレのドアが開き、中の青い明りが漏れるのを見た。そこには女の子をトイレに連れ込む崇の姿があった。その横顔を見て私は、何か見てはいけないものを見てしまったように思った。

 目をそらすように顔を上げると、お立ち台の上にあるミキサーの前でプレイをする一人のDJに目が留まった。ミニスカートのサンタクロースのコスプレをしたモデル体型の女がヘッドフォンを片耳に当ててリズムをとっていた。私は彼女に見覚えがあった。ああ、あれは新宿のレストランで合コンにいた女の子だ。であるとすれば、あの中の一体何人がサクラだったのだろう。崇も本当はそういう類の人間の一人なんじゃないかという疑念さえ沸いてくる。彼は今トイレで女を抱いているが、私は一体もうどのくらい女に縁がないんだろうと思うと何もかもバカらしく思えてきた。足元見られて、カネも払ってこんなところまで来て。

 帰る前に、彼らの良い声でも聞けるんじゃないかと期待してトイレで用を足すことにした。けれど期待に反して、中から聞こえてくるのはくぐもった話し声だけで、トイレに必要以上に置かれた芳香剤の臭いの間隙をぬって甘い香りが漂っていた。私はその香りを知っていた。

 

 それからはずっと婚活アプリにかかりきりになっていて、崇やキムの誘いを受けることもなく疎遠になっていった。

 ある日、LINEのタイムラインに崇の投稿が上がっていた。

 

「仕事を辞めました! もっとビッグになるぜー! 」

 

 そんな文字の下には、何処か大きなハコで体操服を着た崇と、周囲をブルマ姿の女たちがとりまいている写真が載っていた。

 彼は何かのカモにされたのか、これから誰かをカモにするつもりなのか、いずれにしても、もはやこうなってしまった人間を救えはしないことを私はよく承知していた。だけど、崇は可愛いやつだから。

 彼の投稿には延々と彼のことを称賛する絵文字でキラキラしたコメントがついていたが、

 

「崇、お前、大丈夫なの? 」

 

 と一言だけコメントをした。そのコメントには見向きもせず崇は他の人にコメントをつけていったが、翌日になって私のコメントに「私も心配しています。人の信頼を失うようなことだけはしないでください。」とリプライが付いていた。それは私の知らない人ではあったけれど、木島姓がついていたから崇の母親か姉か、その類の人であることは間違いなさそうだった。

 その後、そのコメントに新しいリプライが付くことはなかった。そしてラインのタイムラインにはしばらくの間、懲りずに何かのパーティを主宰しているらしき崇の姿が踊っていた。私は呆れながらも、もう彼とは関係ないのだと思うことにした。それにやはり長身で見目麗しい崇の人前に立つ姿は凛々しくてサマになっていたから、私の声は届くはずはないと思った。

 気付いたときには、崇はLINEを更新しなくなっていた。あれから数年の月日が流れた。

 

 *

 

「実は、京都に帰ることにしたんですよ。まあオリンピック終わってからなんですけどね。」

 

「あれからもう7年でしょ。よくぞこの東京砂漠でこんなに長い間、耐えてきたね。偉いよ。オレにはできなかったんだから。」

 

「耐えてなんてないんですよ。ボクに東京は向いてませんでした。また、地元で何か仕事、探します。」

 

 彼は言葉少なだった。

 

「崇、オレのことをカモにしようとしなかったよね。色んなこと言われたかもしれないけど、オレは崇のこと良い奴だと思ってるよ。」

 

 私は崇のことなんて何一つ判っちゃいないんだけど、何でもお見通しだぞ。という顔だけはして見せた。別に先輩でも何でもないパイセンの、ただの年長者ぶった先輩ヅラなのだが。

 そもそも失敗だらけの私の人生に、彼が見習うべきところなんて露ほどもありはしないだろうし。私には、彼の何かを非難する気も、根掘り葉掘り訊く気もなかった。それに多分、こうして私の前に姿を現したという事実そのものが、彼が何かに叩きのめされ、打ちひしがれた結果なのだと思うから。

 そして少なくとも、私にとっては誠実でいてくれた。

 

「実はボク来週誕生日なんですよ。」

 

「あ、そ。おめでと。じゃあここの払いはオレが持つよ。」

 

「いや、ワリカンでいいです。だってパイセン破産してるんでしょ。」

 

「ワリカンでいいなら何で誕生日だとかいうのよ。」

 

「いや、何となく。」

 

「まったくこの甘えんぼさんめ。何かあったかなあ。」

 

 カバンを開くと、裏地の奥に文庫本が一冊入っていたので手渡した。

 

「もう何回も読んだから、それあげる。」

 

「何ですか、これボロボロじゃないですか。」

 

「要らなかったら捨てていいよ。オレと別れてから。でもきっと崇の力になると思う。」

 

「いや、読みますよ。覚えてます? 確か昔も誕生日だって言ったら本くれたんですよ。」

 

「何だっけ。忘れちゃった。」

 

「何か、あの、ウサギのマンガ。つまんなかったです。」

 

「ああ、わかった。『鼻兎』でしょ! あれつまんなかったでしょ。つまんなかったからあげたんだもん。でもそれは面白いから。オレにはね。」

 

「いいですよ、詰まんなくても。ブックオフで5円くらいにはなるかな。」

 

 崇がニコっと笑った。やはり良い顔をしている。

 カフェの外に出ると、外はもう薄暗くなっていた。お店はやっていないけれど、街にはもう多くの人が出歩いていて外出自粛なんてどこ吹く風という様相だった。

 

「来てくれてありがとうございました。」

 

「また東京に来たら連絡してよ。」

 

「はい。」

 

「あ! 」

 

「え? 」

 

「元気でね。」

 

 崇は頷いていた。夜風が鼻をくすぐった。