沖縄滞在日誌4日目、夜

 

 「これ。」という切っ掛けがあったわけではない。

 

 ほんのつい最近まで、Twitterに愚痴や絶望を吐露しつつ都心にある政府系の金融機関でそれはそれなりに大人しく日々働いていた。

 ある日、職場の上長から呼び出され、「きみ最近、遅刻と欠勤が多すぎるよ。」と諫められた。同じ日、人事課長から呼び出され、「きみ最近、遅刻と欠勤が多すぎるよ。」と諫められた。「ああ、本当に限界なのかもしれない。」と思った。

 それで仕事に行かなくなった。最初のうちは職場から何の用事か鬼電、鬼メールが来てたけど、今となってはメールボックスは凪のようである。おかげで人生の見通しが全くつかなくなってしまった。

 

 しかしある程度まとまった休みが出来たので、「ずっとやりたかったこと。」をやろうと思った。正確には「昔の自分が確かにやりたいと思っていたこと。」であって、「実はもはやどうでもいいこと。」でもある。そのうち実現が現実的なものの中の一つが、「日本の全都道府県を見て回ること。」だった。

 

 今現在、私の中に嬉しい、楽しい、見たい、やりたいに類する情動がほとんど全てと言っていいくらい雲散霧消してしまった。

 仕事がないからずっと望んでいた家庭を持つ自信もないし、新しい仕事をする気持ちも続けていく自信もない。早晩こうなるであろうことは判り切っていたから、そういう不安を払拭する試みをしたこともあった。けれど、その一切が叶ったことはない。実績も折り紙付きというわけである。

 映画や番組、マンガや小説みたいな作品を積極的に観たいとは思わないし、ツーリングもお酒も何かの手段であって趣味ではない。望んで美味しいモノを食べに行こうとも思わない。

 やりたいことがない人生はまるで誰かが道端に吐き捨てたガムを拾って延々クチャクチャクチャクチャ咬まされ続けているようで、生きていることそのものに生理的な嫌悪感を覚える。

 それでも過去「ずっとやりたかったこと。」を今まさに出来るタイミングで、これを逃したら次はないかもしれないという状況になったとき、「日本の全都道府県を見て回ること。」をやってみようという気になった。家の中で独り自家中毒のように精神が底へ沈んでいくのに身を任せるのも悪くはなかったけれど、旅先で考え事をするのもそう変わらないと思った。

 

 そうして11月~12月の計およそ35日間かけ、バイクでフォッサマグナ以西を周遊し日本を半周した(その間も色んなことがあったのだけれど、それはまた機会があれば書こうと思う。)。できることならそのまま日本一周してしまいたかったけれど、時期的に大雪の東北をバイクで越えることは出来なかった。

 

 そして年末、沖縄に辿り着いた。

 

 *

 

 といってもダイビングしたいわけでもなかったのと、北陸を旅したことで過度な田舎にちょっと嫌気がさしていたので本島だけレンタカーで見て回ることにした。

 12月末でも沖縄の気温は平気で20度近く、頻繁に内地の雨季みたいなスコールに見舞われた。車の窓を閉じていると暖かさに眠くなってきた。コンビニで買ったサンドイッチを碧い海の砂浜で食べていると何処からか猫がやってきて頭を摺り寄せてきたので、少しちぎって分けてやった。

 そんな風に時間を過ごしていると、ほんのちょっと前まで丸ノ内のオフィスでパソコンをカタカタして暮らしていたことなんて白昼夢の類いだったのではないかと思えてきた。

 あの日々に戻りたいとは思わない。それでも「きみは何者なのか。」と問われたとき、誰恥じること無い「立派な社会人。」なのだと答える術を失ったことで、なし崩し的に何か自分の中で終っていくのを覚えた。支えてくれる理解のある上司も同期もいた、多分これ以上ないくらい完璧な環境を得て、それでもなおどうすることもできなかった。

 

 末日、那覇市内にある国際通りに宿をとった。

 沖縄料理というか沖縄人の味覚感覚は正直合わないと思った。チャンプルーだとか、沖縄ソバだとか、アグー豚だとか、そういうのが多分そんなに好きじゃない。国際通りは居酒屋やジャンクフードみたいなお店も沢山あって、多分それは沖縄県からしてみたら「あれは沖縄ではない。」のかもしれなかったけれど、個人的には「あれで十分。」という感じがしたし、路地裏の猥雑な雰囲気がアジア的で(それでも日本的な清潔感を失っていなくて)とても居心地が良かった。

 

 そんな路地裏に在る居酒屋で一人、本を読みながら泡盛を啜っていると、「アーレー?」と声を掛ける女がいた。

 

「お兄さん、さっき一人でハンバーガー食べてたでしょう。」

 

 見上げると若い女がいた。目鼻立ちがくっきりしていて、中東系の顔をした美人だった。私が答えかねていると、

 

「何処から来たの、内地の人でしょ。」

 

 そういって勝手に私の隣のカウンターに座った。少し前、路地裏にある別のハンバーガー屋で飯を食べていたところを覚えていて、思わず声を掛けたということだった。

 

「神奈川だよ。旅人っぽかった?」

 

「わかるよォ、お兄さん顔真っ白だもん。浮いてるから、ウチナーには内地の人だってすぐわかるよォ。」

 

「ウチナーって本当に言うんだ。」

 

「言わないよ。内地の人だから喜んでくれるかな、と思って言ってみただけ。アハハハハ!」

 

 沖縄的なイントネーションは耳ざわりが良く、ずっと聞いていたい気持ちになった。彼女は26歳で、リカコと名乗った。リカコはよく笑った。

 

「出張で沖縄きてるの?」

 

「スーツ着てるからでしょ。違うよ。スーツしか服が無いからスーツで旅してんの。」

 

「何それ、アハハハハ!スーツしか持ってないの?だっちゃん、結構変な人でしょ!アハハハハ!」

 

 決して後で特定することができないように、心の内を全て明かさない。それでも雰囲気を壊さない程度に崩すくらいの表面的な会話。仕事をしながら婚活しているときは苦痛だったそういう会話も、仕事もしないで話し相手に飢えている今となっては適度な心地よさがあった。

 

「ねぇ、ホテルどこなの。ついてっていい?」

 

 といって私の後をついてくるリカコに対して美人局という言葉が浮かばないこともなかったけれど、そういう面倒ごとが起こっても構わないという気持ちがあった。

 居酒屋の外に出ると、外は土砂降りみたいなスコールが降っていた。

  横に並ぶと思っていたよりリカコは身長が高かった。意表をつかれたように思うのは、きっと顔が小さいのだと思った。

 

「リカコちゃん傘持ってないの。仕方ない、入りなさい。」

 

 私が折りたたみ傘を広げると、ボロボロに骨が折れていて崩壊寸前だった。沖縄は風が強くて、雨が降っていても500円の折りたたみ傘なんかじゃ簡単に壊れてしまうのだった。

 

「何これ、ボロボロ!アハハハ!こんなのさしても意味ないよ!」

 

 リカコは文句を言っていたけれど、ホテルに向かって駆けて行くと「キャー!濡れるー!」と楽しそうに傘に入ろうとして来るのだった。

 徒歩数分のところにあるホテルに着くころには、私たちはびしょ濡れになってしまった。リカコのいう通り、あんな傘じゃさす意味なんてほとんどなかった。

 部屋に入るなりリカコが私の袖を掴んだので、そのままキスをして交わった。

 

「どう、沖縄って。」

 

「良い所だと思うよ。皆んな良い人だと思うし、暖かいし。」

 

「今日、寒いよ。」

 

「いや暖かいよ。」

 

「内地の人にはね。それに沖縄の人、良い人いないよ。私もボロボロだもん、DVとか。見て。」

 

 リカコの膝とアゴには大きな痣と切り傷のような痕が残っていた。旦那は彼女への暴力で警察に捕まり、最近離婚が成立したということだった。それで多分、彼女自身の枷も外れてしまったのだと思った。

 小麦色の肌に大きな目、高い鼻、細い顎。こんな繊細な造型を男の力で殴りつけたら、それは簡単に壊れてしまうだろうと思った。

 

「旦那は最悪だった。弱い立場だと思ったら後輩も殴ってたよ。沖縄の男って働かない癖にすぐ手をあげるんだ。何度も骨折られた。私、働いてるのに。」

 

「女にこんな傷が残るくらいの力で殴るなんて、ネジ飛んでるね。沖縄がDV多いのは有名だけど。オレはキミみたいに可愛い女の子と結婚したいと思って頑張って来てたのに、今では諦めて放浪してる。人生って巧くいかないね。」

 

「私もだっちゃんみたいな優しい人と結婚したかったな。東京にはだっちゃんみたいな人が沢山いるのかな?」

 

「でもオレは、きっとその旦那さんに比べたらずっと退屈な男だから。色々、どうしようもない事件が沢山あったしね。」

 

小さく丸まって胸に顔を埋めるリカコの背中に手を回し、強く抱きしめると

 

「グウウウ、男の人の腕力ってこういうために使うんだよね。もっとシテよ、アハハハハ。」といって笑っていた。

 

「東京に来たらいいじゃない。リカコちゃん美人だから、きっと君と一緒になりたい男なんて沢山いるよ。」

 

「アハハ、それはどうかな。美人なんてあんまり言われないから嬉しいよ。」

 

 ホテルの外に出ると、雨は止んでいた。年が明けようとしていた。

 

「これから何処行くの?」

 

「家帰るよ。車、近くに停めてるんだ。」

 

「飲酒運転じゃん。」

 

「もう抜けたよ。あと、東京はきっといつか行くよ。」

 

「うん、遊びに来なよ。ちょっとこっちおいで。」

 

 リカコを抱きしめて、「なんくるないさ~。」と言ってみた。

 

「アハハハ!なんくるないさ~なんて普通言わないから!」

 

「喜んでくれるかなと思って。」

 

「うん。だっちゃんも、なんくるないさ~。」

 

 暫く抱擁してから私たちは別れた。ああでもきっと、私たちはもう二度と会うことはないんだろうなと思った。心の底に、誰か他人を好きになる萌芽のようなものを感じて、登山靴でその芽を踏みつけ擦り潰すイメージを思い描いた。

 それから何度かLINEでやりとりは続けたけれど、やがてどちらからともなく連絡はしなくなった。