海と花束

 

 H子が中絶する日の早朝、YはH子と新宿で会い、25万円を手渡した。

「最低限の責任を取れたと思える形にした。」とYは言った。

 中絶をする理由は世の中に色々あるから、その承諾書に男の名前は必ずしも必要ではないとのことだった。

 YはH子の手術には付き合わず、そのまま出勤した。

 後日、Yと酒を飲んだ。

「まあ中絶費用は安くないですけど、痛みを味わわないだけ男は十分お得ですよ。25万くらい、大したことじゃありません。」

 勿論、今回の妊娠・中絶で悪いのはYだけじゃない。だから彼を責めるのがお門違いだとわかっていた。それでも、どうしても言葉が刺々しくなってしまった。

「わかってるよ。暫く自重するよ。」

 そして一息ついてYは言った。

「だっちゃん、彼女イイ人過ぎるね。めちゃくちゃ罵ってくれたら、その方が俺も救われたのに、何も言われなかった。逆に謝られちゃったよ。」

「救われたいだなんて思ったらダメっすよ。これから背負ってって下さい。」

「痛烈だなあ……。」

 施術の日、H子とは仕事の片手間にラインをしていたが、正午辺りになってラリーが途絶えた。きっと今頃、手術をしているのだろう。

 中絶の方法は、中学生の頃にみた性教育の図解で覚えていた。膣に器具を入れて搔きまわし、胎児をジェル状にして掻き出すのだ。想像を絶する苦しみだと思う。

 東北の片田舎から夢を描いて上京して、大学を卒業して就職して、無垢の少女がいつかどこの馬の骨ともわからぬ男とできた子を中絶する未来なんてどうして想像できただろう。

 H子の屈託のない笑顔には到底似つかわしくない不幸さに思わず、頭を抱えた。

 これから職場を早退しH子を新宿の婦人科に迎えに行く。そのときH子が寄りかかれるように、強い男として振る舞わなければいけない。だけど私はといえば職場のトイレに駆け込み、昼に食べたものを嘔吐した。

 手術の翌日から、H子は傷ついた身体を引きずりながらも出社していた。

 しかし世間は冷たかった。

 婦人科に通う為に急に何度も会社を早退し、手術の為に仕事を休んだことをサボりだと指弾された。だけど中絶のことを職場の人に弁明するわけにはいかなかった。施術による痛みを抱え動きが緩慢になっているところを、邪魔だと押しのけられた。

 人には誰しも語りたくない不幸がある。しかし他人が抱えた不幸には、誰もがお構いなしだった。日に日にH子が弱っていったとしても案ずるようなお人好しはいなかった。ただ心を壊してもう使い物にならないかもしれないから、新しく派遣さんを採用しなければならないんじゃないか、という酷薄でただならない噂が流れただけだった。

「手術が失敗して死んでしまえばよかった。」とH子が言い始めるのに時間はかからなかった。

 

 それから数週間経ち、カラオケの一室で歌いもせずにおれ達は七転八倒していた。 

 テーブルの上にはもう何社目になるのか、エントリーシートが散らばっている。H子と私は毎週末、朝から晩まで籠ってこんなものを書いていた。 

「あなたはどうしてこの業界を志望したんですか、だって?うるせえ、金だ、安定だ!決まってるじゃん!」

「ちょっとだっちゃん静かにして!いま名案が思いつきそうなの!」 

 数週間前までのH子は抜け殻のようだった。

「職場の居場所も、健康な心と身体もなくなっちゃった。本当は子供が生める身体だったのに、もう無理かもしれない。」

「手術の前、看護婦さんに『誰も迎えは来ない』って言ったら、看護婦さん哀れなものをみるような顔をしたの、忘れない。惨めだった。」

 H子は恨み辛みを口にした。

「だからね、だっちゃんが待合室にいたの、泣きそうになった。」

 そもそもYを紹介したのはおれだった。だからもっといえば、H子がおれと知り合わなければこんなことにもならなかったはずだ。そのことに思い至らないH子ではないはずなのに、そんなおれに恨み辛みが向けられることはなかった。

「エコーなんてどうしたらいいの。こんなの棄てられない。でも、持ってるのも辛いよ。」

「うーん…。辛いなら、預かるけど。」

 申し出るおれにH子は驚いたような、呆れたような声で言った。

「止めなよ、水子の怨念が籠ってるよ。」

「自分で言うなよ。おれは他人だから怨念なんか効かないよ。」

「だっちゃんって本当に変な人だよね。普通男って面倒臭いの嫌がるものなんじゃないの。」

「そうかな、別に面倒だと思わないよ。いや、きっとそういう面倒臭いものが欲しいんだよ多分。」

「最近、よく考えるんだ。だっちゃんが私の前に現れたのには、何か意味があるんじゃないかって。じゃあ、あの子はどうして私のお腹に降りて来てくれたんだろう。」

 降りて来てくれた、か。

 H子は日頃から子供が嫌いだ、要らないと口にしていた。それでも実際に妊娠を経験してからは、子供目線で語ることが増えた。女っていうのはそういうものなのだろうか。

 少なくとも彼女は自分で言うほど「母親になれるような器じゃない。」と思わない。

「ずっと自暴自棄に生きて来たからかな。私のこと戒めるために降りて来てくれたのかな。」

 結局、エコーはほとぼりが醒めるまで預かることにした。 

 病体を引きずって、職場で居場所を失って、H子の置かれている現状は楽じゃなかった。そういうものから逃れる為、H子は転職活動に没頭した。転職のことを考えているうちは、別の有り得る生活を思い描くことができるんだろう。エントリーシートの作成も面接の練習も、時間の許す限り付き合った。

 二人で一通エントリーシートをかき上げる度に、おれ達は大げさに喜んだ。少しでも不幸を忘れられるように。

面接の練習で、おれがおどけた質問をして、H子が思わず吹き出す。そんなことをする度に、彼女に息が吹き込まれ少しずつ生き返っていくように感じた。おれも必死だった。

「わたしね、色々考えたんだけど、だっちゃんと一緒に働きたいの。」 

 H子が思い切ったようにおれに切り出したのは、そんな日々を送って暫く経った頃だった。「やっぱ、ダメかな?」とはにかむH子に、かぶりを振った。

「もちろん、ダメじゃないよ。挑戦してみよう。」

 とはいうものの、おれの職場だって志望倍率は百数十倍は下らない。H子が採用情報を探してきて私の職場に狙いを定めてからおれ達は一層真面目に対策に打ち込んだ。

「どうして転職をしようと考えたんですか?」

「業界に特殊性がなくて自分の力を発揮できないと考えたためであります!」

「それはうちの業界も同じかと思いますが?」

「えっと、え~っと…やっぱりそう来る?」

「そう来る?じゃない。真面目に!」

 それからまた暫く経ったある日、会社から帰るとH子から電話がかかって来た。

「実はね、発表があります!何と、書類選考を通ったのです!次は役員面接だって!」

「お~!おめでとう!」

 選考の最大の難所はエントリーシートだった。これだけで、数十倍の倍率を突破したことになる。

「だっちゃんのおかげだね。」

「H子の実力だよ。」

 うん、といってH子が笑っていた。

「これでさ、本当に受かっちゃったら笑うよね。そんなこと、あるのかな」

「期待しちゃうじゃんね。」

「だっちゃんがいなかったら、私、独りだった。中絶のことだって、親にも言えないことだから。いつも、ずっと一緒にいてくれてありがとう。」

 電話口で泣き始めた。H子はあんなことがあっても、今日まで一度も泣いていなかった。 

「今度、いつ田舎に帰るの?」

 H子の父は、彼女が小さい頃に亡くなっていた。祖母の実家にある仏壇に手を合わせる為、H子は年に一度は帰省しいた。

いつか彼女が見せてくれた東北の町は見晴らしがよくて、ここで眠るのは中々悪くないと思った。

「そのときにエコー持っていこうよ。一緒に供養してあげよう。お父さんもきっと喜ぶよ。おれも一緒に行くから。」

「さすがに、あんなド田舎まで来て貰ったら悪いよ」

「悪いかな?あの辺調べたんだけど、けっこう温泉たくさんあるんだよね。温泉巡りしたいよね。」

 H子は笑った。

「ううん。悪くない。一緒に見て回ろう。」

 

 でも結局H子はうちの職場には受からなかったし、私たちがその話題を口にすることはもう二度となかった。