できれば、何も食わずに暮らしたい。

 生産的な活動なんてしていなくとも、生きてるだけで腹は減る。
 今ではすっかり信用を失った政府・総務省の家計調査によると、単身世帯の食費は直近(2018/7~9)で43千円/月となっており、単純計算で一食当たり1,424円と、人は生きてるだけで中々の金額を消耗している。

 自分についていえば、現在は人付き合いも極端に減ったし酒もさほど飲まないので流石にここまで食費はかからない。

 けれど現実として金はないし、食にもさしあたり興味はない。そもそも、生きる気力も湧かず死なば死ぬまでの捨て身なのだ。
 もうあとは食べずに過ごそう、と思い飲食を絶ってみたことは何度かある。

 終末期医療の現場で安楽死が許されない場合に患者が採りがちな代償行動として飲食拒絶=VSED(Voluntarily stopping eating and drinking)がある。
 しかしVSEDには前提として絶食を上回る病の苦痛があり、それゆえそもそも食が細っているという条件がある。それでも成功率は高くなく、大抵の人は挫折してしまうのだという。

 先般、自分で3日ほど絶食してみて痛感したことが、とにかく時間をうっちゃれない。
 人が一食にありつくのには、買い出し、食事の準備、実際の食事、片付けと、実に四行程もアクションがあって、三食たべないと一日辺り3時間近く余裕が生まれることになる。
 これが忙しいビジネスマンであれば勉強やら何やら生産的な行動に回せそうだけど、おれは現実として忙しくないので1日3時間まるまる浮いた分、空腹と向き合う時間になる。
 空腹の苦痛から目を逸らせば、当然そこにはいつもの人生の苦痛が鎮座している。
 気を逸らそうと本や映像に逃げ込もうとするけれど、読書にも映画鑑賞にも、勿論こうしてブログを書くことにも、実は膨大なカロリーを必要としていたことを知る。
 目に入るものの何一つ頭に入ってこないし、書いた文章はまとまりを失い、次第に重い倦怠感が身体を支配するようになった。何より、腹が減って、イライラする。

 それでもVSEDで意識のシャットダウンは中々やってきてはくれない。
 「空腹がある程度を越えたら空腹の不快感がなくなる」とネットで読んだことがあったけれど、おれの場合3日程度ではそのゾーンに到達することはなかった。きっと余計な肉が多いんだろう。
 結局、食事の面倒を受け入れる方が、面倒を回避して冗長な空腹の苦痛に耐えるより余程楽なのだと、こんなことはもう余りにも当然過ぎて試す必要なんてどこにもないような結論だけ得た。

 そして数日ぶりに、カロリーメイトを紅茶で流し込んだ。
 カロリーメイトのビスケットの隙間に熱い紅茶が流れ込み、糖を溶かして内臓に浸透してゆく。シワシワに萎れた細胞がパンパンに張りを取り戻し、全身が熱を帯び、皮膚に薄く汗がのるのが分かる。

 早く消えてなくなりたいと思う主観に相反して、肉体は生を渇望している。
 美しくもなく恵まれた体躯でもないが、馬力が出ていざというときに無理の利く肉体ではある。おれなんかじゃなくもっと高潔な魂の器だったのなら、きっともっと多くの人に愛され、自然、自分自身にも大事に扱われたのだろう。
 我がごとながら勿体ない。両親からの受肉に、申し訳ない。