宗教勧誘についていった

「君、だっちゃんだろ?」

 大学の図書館の前で携帯を弄っていると、男に話しかけられた。長身で爽やかで、清潔な身なりをした如何にも好青年という出で立ちで、知らない顔だった。
 どちらさまでしょうか、と応える前に男が続けた。

「わかんないか。S法律研究室の上田っていうんだけど、上級生のことは流石に知らないよね」

 男はおれの所属している研究室の名前を口にした。先輩付き合いのある方ではなかったので、なるほど顔を知らなくても当然だと思った。

「あ、お疲れ様です。」

 別段忙しいわけでもなかったので、差し障りのない会話に付き合った。教授のこと、授業のこと、試験のこと。
 それ自体は上辺を滑るような会話の内容ではあったけれど、上田君が真面目に勉強してきた4回生であり、魅力的な容姿と喋り方をする先輩であることは十分伝わった。
 上田君は、卒業後就職ではなく法科大学院へ進学をするらしい。それはつまり弁護士になりたいということだ。既に法科大学院には合格していて、時間を持て余してるのだと言った。

「前から君と話したいと思ってたんだよね。今度飯行こうよ、明日の夜とか空いてないかな?」

 院進はおれも進路として考えていたので、彼の話には興味があった。
 折角気のよさそうな先輩が誘ってくれてるのだし、良い情報収集の機会だと思って応じることにした。
 ガラケーの赤外線通信で連絡先を交換し、その日は別れた。

 翌日、待ち合わせの時間に図書館の前に行くと上田君が「よ!」と手をあげた。先に待っててくれたらしい。

「お待たせしちゃった感じですか?」
「いや、そんなことないよ。じゃあ、これ乗って」

 彼は図書館の前に停めてある軽自動車を指さした。
 大学は都心にあるので、飯を食う場所なんて徒歩圏内にいくらでもある。それに、車に乗って何処かへいくなんて話は聞いてない。

「え、車乗るんですか?」

 と訊くと

「そうだけど、嫌?」

 とさも何でもないことのように聞き返す。
「申し訳ないんですけど、今日は帰らして貰いますわ」と言おうと思って、少し考えた。
 普通なら、事前に断りもなく車に招き入れるような誘いには乗るべきではない。悪い話なんていくらでもあるのだ。それはわかる。
 だけど、大学にはちょっと考え方のおかしな善人なんていくらでもいるし、仮にトラブルだったとして自分に失うものがあるのかといえば精々歯の一、二本程度のものだろう。
 いずれにしても、どうやらこれは面白いことになりそうだと思った。
 そう思ったのなら、そちらを選ぶべきだ。若かったので、そういう無謀さがあったのである。

「いや、何でもないです。行きましょう。ぼくはお酒飲んでもいいですよね」

「うん、じゃあ荷物、後ろに載せなよ」

 そのときおれは参考書の詰まった大きめのカバンを持っていたのだけど、何となく申し出は断り、荷物は後部座席に置かずに胸に抱えて車に乗ることにした。後でその判断に救われることになる。

 車が走り出し、夜の東京が横目に通り過ぎて行った。

 他愛ない話をしながら数十分車を走らせると、上田君は板橋本町にあるガストの駐車場に車を停めた。
 ガストなんてどこにでもあるのに、なんでここにしたんだろうと思った。
 適当に料理を頼みつつ上田君と話をしていると、

「実はさ、見て貰いたいものがあるんだよね」

 と新聞を広げ始めた。そらきた、と思った。機関紙のような体裁の新聞の一面には、「顕正新聞」とあった。

「ああ、はいはい、宗教勧誘ですか?」

 直球で訊くと、「いや、違うんだわ」と言う。あらそうなのか、じゃあ何の話なんだろうと思っていると、上田君はキラキラした目でおれの目をしっかり見据え、

「宗教だとか、そんなレベルの話じゃないんだ。これは世界の法則の話なんだ!」

 と言ってのけた。もっと悪いじゃないか!あたかもこれは秘密の話なんだけど、という口調で喋るのにイライラした。

「まず聞きたいんだけどさ、君は幸せになりたいと思う?」

「ええ、そりゃ、まあ」

「うん、無理だね!」

 いきなり何を言うんだ、コイツ頭におがくずでも詰まってるのか。それでも変わらず彼の眼は輝きを失ってない。コイツ、マジだ。これはマジの目だ。

「簡単に説明するとね、ぼくらを取り囲むこの大いなる宇宙からは幸せ光線が、あっ、これは波動って言ってもいいんだけどね、そういうのが下りてきてるんだよね。」

「......。 あ、ハンバーグ食べていいですか?」

「いいよいいよ、食べながら聞いてくれる?だけど君の頭の上にはこう、わかるかな、ブラインドが乗ってるんだよね、これがね、君の邪念なんだよね。勘違いしないでほしいんだけど、それは別に君が特別悪いってことじゃないんだ、それが普通なんだよ?でもさ、君がハンニャシンキョウを唱えるとね、これが開くんだよ。パーって。するとね、幸せ光線が下りて来るんだよ!」

「もう帰って良いですか?」

「え、なんで?この辺駅ないよ。送ってくよ。何か質問ない?」

「それで、上田君は幸せ光線が下りてきてなんか良いことあったんですか?」

 上田君の目がキラッと光り、よくぞ聞いてくれましたという表情になった。

「俺、小学生の頃、身体が凄く弱くてさ、イジメられてたんだよ。親父は事業に失敗して借金するし、母親は病気するし、本当に災難だったんだよ。そしてそんなときにね、顕正会に出会ったんだ...」

 そこからは、彼はいじめっ子を成敗するし、父親の事業は持ち返すし、母親の病気は快癒するし、幸せ光線は正に万能の効能を発揮することになる。雑誌の胡散臭い広告みたいな話だな、と思った。あんまり真剣に聞いてなかったけど、彼は自分の半生に関する長い演説を終え、涙ぐみながら言った。

「つまりさ、まあこんなところで話してるよりも本部を一度見て貰った方が話が早いと思うんだよ。どう?まだ時間ありそうだし、チラっと見に来なよ」

 本部に来いだと。それは悪の枢軸に乗り込みにいくようなものじゃないか。確かに当初の目論見通り面白いことにはなったけど、流石にアジトに乗り込むのはまずいんじゃないのか。
 だけどここでやはり考え直した。こんな機会はそうそう無い。もうちょっと見てみたい。この世界を覗いてみたいと思った。ヤバくなったら逃げればいいのだ。

「うーん、まあちょっとだけなら良いかなって感じです」

「よし、じゃあ善は急げだね」

 上田君は荷物をまとめ始めた。おれはもう食べきっていたけど、上田君は料理に殆ど手をつけてない。

「食べなくていいんですか?」

「ん?うん。いいのいいの、本当はお腹いっぱいだったんだよね。君が食べる?」

「いや...」

 上田君はレジの会計をしながらこちらを振り向いて言った。

「君の分、700円だってよ」

 奢ってくれないのかよ!とんだケチな仏もいたものである。
 おれ達は車に乗って、再び夜の街を走っていった。

 上田君は慣れた運転で軽快に夜の街を軽自動車で飛ばしていった。

「運転よくするんですか?」

「ん?ああ」

 助手席から適当に話しかけても、上田君の返事が芳しくない。何事かに気を奪われているのがわかる。気が急いてるのだろうか。
 信号で車がとまると、上田君が口を開いた。

「そうそう、そういえばさ、ダッシュボードの下に用紙入ってるでしょ、それに記入して欲しいんだよね」

 上田君が手を伸ばしておれの足元のダッシュボードを開けると、何枚綴りかの用紙がバインダーと一緒に入っていた。
 上の数枚の用紙は内側に織り込まれていて、最後の一枚の下方にだけ名前と住所の記入欄があった。車内が暗くて良く見えなかったけど、2枚目の文字が透けていて、「申請書」と書いてあるのが判った。
 間違いなく名前を書いてはいけない類いの書類だと思った。

「今日は見学いくだけなんで大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないんだよね。あと学生証だけ預からせてくれないかな?」

 おれの行っていた大学の学生証には、住所の記入欄がある。当時おれは一人暮らしをしてはいたけれど、そこには実家の住所を書いていた。そんなもの流石に預からせるわけにはいかない。

「それはまあ無理ですよね」
「いや、無理って言うかさ。無理じゃないよね。俺もこれから仏間に君のことを入れるわけだけど、それはやっぱり神聖な場所なんだよ。そんな所にどこの馬の骨ともわからない人を入れるわけにはいかないじゃない」
「でも上田君、おれ後輩ですよね。」
「それはそうだけど別に学生証確認したとかそういうわけじゃないじゃん、万が一ってこともあるよ。もし悪意を持った人を入れたら、それは大変なことなんだ」
「いや、無理ですね」
「いやいやもうダメだよ、だってもう着くもん、ダメダメ」

 そういうやりとりをしていると、車が信号で止まった。
 もうここが潮時なんだろう。ドアに手をかけて開こうとすると、ガチャン!と音がして上田君が運転席側のカギを閉めたのが判った。だけど、おれがドアを開く方が一瞬早かった。すぐにシートベルトを剥がして外に出た。
 車外に転がるように脱出すると、グイ!と強く引っ張られた。振り向くと、上田君が運転席から手を伸ばして、おれの服の袖を掴んでいた。

「てめえドコ行くんだよ!!」

 もう、さっきまで会話していた優しい先輩の顔はなかった。
 鬼の形相をした狂信者がそこにはいた。

 手を振り払い、住宅街を走った。
 大きな荷物が邪魔をして早く走れない。だけどこれを置いて行ったら上田君に拾われて個人情報を知られてしまうから、置いて行くわけにはいかなかった。
 後ろを振り返ると、上田君が車から降りてこちらを見ているのが判った。追ってくる様子はなかった。

 近くにいたタクシーを捕まえ、「最寄り駅にお願いします」と伝えた。タクシーの後ろを何度も確認したけど、上田君の車が追ってきているのかどうかは判らなかった。

 最寄り駅のときわ台に到着すると上田君から電話がかかって来たけど、電話は取らずに着信拒否にした。まもなく「今どこいるの?」とメールが入ったけど、そちらも着信拒否にした。

 駅のホームに電車が入って来て乗り込んだ。ひと気のない電車が妙に寒々しくて、居心地が悪かった。

 そしてそれ以来、上田君と会うことは二度となかった。
 学内の色んな人に確認したところ、彼に勧誘された人はおれの他にも沢山いるらしいということが判った。

 後日、「こんなことがあってさ~」と創価学会に入信している友人にことの経緯を話すと、

「それは災難な目に遭ったねぇ。顕正会の連中は正直評判悪くてさ、おれ達と出会うとラップバトルになるんだよ」
「ラップバトル?!」
「そうそう、どっちの教義が正しいかバトルになるんだよね。だからあいつらには関わらないのが吉だよ!」
「そうなんだ...」
「でもさ、波動の話とか聞いてたら、俺達と教義的には同じなんだね~」
「そうなんだ...」

 そうなんだ...。

「いやうん、まあ別にいいんだけど友達を勧誘するのだけはやめてね?」

「え~!なんでだよ~」

「なんでだよ~、じゃね~だろ!!」

 あれから10年経った。
 ふと思い出して彼の名前で検索すると、上田君は弁護士になっていた。

 「弱い立場に立たされた方の味方になりたい」と笑顔で語る彼を見て、あの日の寒々しい気持ちが蘇ってきた。