健忘症
昨夜は相場がなかったからか、ぐっすり眠れた。
そしてこんな早朝に目覚めてしまった。
転がったチューハイの缶を蹴飛ばし、キッチンでホットミルクを作った。
砂糖を入れ、ベランダへ出て、朝焼けを眺める。風がなくても冬の空気が肌に張り付きヒリヒリする。
どこかでカラスの啼く声がして、まだ閑散とした道路を車が走っていく。
目を閉じると彼女のことを思い出す。
寒い日の朝、彼女の顔が目の前にあって、キスをすると笑って身を寄せる。
おれが「もう起きなきゃ」というと、
彼女は「もうちょっと」と胸に顔をうずめて「幸せ」と呟く。
彼女の頭のにおいをかいで、身体のやわからさやぬくもりが伝わって、安心する。
この時間が永遠に続けばいいのに。
あのとき確かに「この子と一緒に、この先の景色を見ていたい」と願った。
だけど、それは叶わなかった。
全部自分のせいだけど、過ちがなければ彼女もおれを愛したりしなかっただろう。だから、最初からあれは無かったものだったのだ。
ここからみる景色のどこかに彼女がまだ眠っているのに、彼女がおれの隣で目覚めることはもうない。
あの朝も、願いも、何もかも無かったものなのだ。
最後の日、彼女はおれのことを支えられなくてごめんなさいと言ったけど、おれもまともな社会人に戻って彼女の望む生活を与える自信がなかったから、信じてついてきて欲しいとは言えなかった。
もうあんな朝は来ない。
無かったものならいっそ全部、忘れることができたら良い。
きっとそんな願いが叶うこともないけれど、せめて彼女がおれのことを思い出さなければいいと思う。
部屋に戻って転がったチューハイの缶を拾うと中身が少し残っていた。仰いで飲んだけど、アルコールは全部抜けてしまっていた。