もんじゃの人

 初めてもんじゃを食べたのは、大学生のときだった。

 昔から人間関係がすこぶる苦手で、友達は決して多くない。いつだって人生に何かしら問題を抱えているような態度をして、荒んだ振る舞いをしているのだから当然のことだろう。もはや厄介な習い性のようになっていて、どうにも矯正できないでいる。
 だけど自分が好いていた人が自分の元から去っていくことには、中々慣れることができない。それが自分勝手な思いで、彼らの幸せの中にどうしたって自分の居場所がないことを解っていても、心に折り合いをつけられないことがある。

 だから自分が仲を良いと思っていても、それは一方的な片思いなんだと思うことにしている。仮にちゃんと好かれていても、そう予防線を張っておけばいつかやってくる別れの日に備えることができる。
 本当は嫌っていたのに、今までずっと我慢してくれてありがとう。そう思うことができる。

 大学生の頃、毎日夜勤のバイトをしていた私は、心身ともに完全に荒みきっていた。
 睡眠時間も全然取ることができず専攻の成績もどんどん周りと差がついていった。その焦りから友人達に当たり散らしたことは一度や二度のことではない。周りから人が離れ、少なくなってきていることを薄々わかりつつも、それには見て見ぬふりをしていた。

 あるときたまの休みができた日に、横浜へ一人で買い物に出かけた折り、電話がかかってきた。ほとんど参加してないサークルの友人からで、

「いま浅草でみんな一緒に遊んでるから、こっちに来なよ!」

などと言う。最初は面倒だなと思ったけど、電話を替わった別の友人の

「横浜なら京浜急行線で一本じゃないですか!」

と言う言葉に押し切られ、まあそんな日もあるかと思い電車に乗った。

 浅草に着きサークルの友人同士4人、目的もなく町をちんたらだらだら彷徨った。
 そして私は、生産性がこれではないなと思った。別にわざわざ浅草なんか行かなくたって、いつだって大学で会えるじゃん、と偏屈にも思っていた。人間関係に生産性なんて関係ない。そんな当然のことにさえ、当時私は無自覚だった。

 そうして夜も更けた頃、友人の一人が、

「そうだ、もんじゃ行こうよ。」

と言い出した。

「いいですねー」

ともう一人が応じた。私はもんじゃを食べたことが無かった。

「あ、おれもんじゃ初めて。もんじゃって何?」

 と大人しく白状すると、3人は顔を合わせた。

「それは良かったです、もんじゃはいいもんですよ!」

とのこと。答えになっていなかった。

 「ぼく、ここしか知らないんで。」

と友人らに誘われるまま、浅草の路地裏にある鉄板屋に入り、酒を飲み、もんじゃ焼きを作り合った。見た目に反して案外イケるものだと思った。そしてもう何を話したのか、ほとんど忘れてしまうくらいの他愛ない話を、延々していた。ふと友人の一人が、

「だっちゃん、知ってますか?もんじゃを一緒に食べた人ってね、一生ずっと友達でいられるんですよ。」

 と言ったのだった。私はそのことに衝撃を受けた。
 おいお前、一生だぞ?一生おれと友達なんて、それはもう罰ゲームの域を遥かに超えた呪いの類の何かじゃないか!

「そうそう、そういうこと。また皆で一緒に遊びにいこう。」

 とまた一人がさも平然と続けるのだった。

 彼らには多分私の知らない友人が山ほどいるはずで、きっと冗談半分の軽い言葉だったのだろうとは思う。だけど心が荒み孤独を受け容れようとしていた身では、彼らの言葉に胸がいっぱいになった。

「もんじゃ、ウマイな!」

 思わず口にした。

「でしょ?もんじゃってね、駄菓子だからラムネが合うんですよ。」

 皆でラムネサワーを頼み、ベロベロになりながら帰った。深夜の秋風は冷たかったけれど、足取りは軽かった。目の端を過ぎてゆく雷門通りのシャッター街がやけに明るかった。
 そのまま友人の部屋に男ばかりで泊まり、ゲオで借りてきた退屈なアクション映画を観て、嬉しい気持ちを抱いて眠りに落ちた。

 あれから10年以上ときが経ち、実際のところ彼らとはもう数年は顔を合わせていない。引っ越しをして、人間関係が変わって、徐々に疎遠になってしまった。
 だけど今でもあの夜のことに思いを馳せ、友人の言葉も信じている。

 ラムネサワーを頼んで、下手なヘラさばきで土手を作り、出汁が零れないように流し込む。不器用だから今も中々巧くはやれないけれど、この絆が切れませんように、ケンカして別れても、いつか笑顔で会えますように。そしてあの夜の友人と同じセリフを口にする。

「知ってる?もんじゃを一緒に食べると、ずっと友達でいられるんだって。」

 私には少し勇気の要る言葉だ。あいつみたいに自然な感じで言えただろうか。それは判らないけど、もんじゃを一緒に食べた人を忘れることはない。それが片思いでも構わない。
 彼らがいつか孤独の嵐に吹かれて倒れそうになったとき、この日のことを思い出してくれたら、嬉しいと思う。