老後のことを考えると、本当に辛くなる。
数年の社会人経験を経て、自分が組織に絶対的に向いてないことが判った。
といって、自分で稼ぐことができるようにもならなかった。目ぼしい資格を持っているわけでもない。
ならば我慢をしなければならないのだけど、正直、この苦行を後35年できるかと問われると相当難しい。
人生が向いていないのだと、つくづく思う。といってみたところで、人生は続く。
そして、この先のありうべき日々のことを考えると、本当に辛くなる。
何とか囚人のような時代を耐え、定年を迎えたとしよう。
順当に生きていたとしても、今の給与水準で出来る貯金なんてたかが知れている(ましてや、おれは貯金なんて口にすることさえおこがましい状況にある)。
必ず足りなくなる。
生活保護費さえ引き下げられている中、年金だって本当に出るかどうか疑問だ。少なくとも、支給年限は引き上げられ、支給額は引き下げられるだろう。まともに暮らすような金は期待できない。
金がないなら、なお仕事を探して働くしかない。
若く健康な精神と肉体を持っていてさえ罵倒され、仕事を覚えるのに四苦八苦している人間が、老いたらどういう目に遭うかは想像するだに悲惨だ。
仕事だって、いつまであるか知れない。
そこを乗り越えて、遂に心と体が擦り切れてしまった後にさえ、待ってる生活は恐ろしい。
老人ホームへ行って、お歌をうたい、リハビリし、TVを見て、薄味のまずい食事をする。
ここまで至ると、自分で死ぬことさえ許されない。勝手に外を出歩けば徘徊や脱走と言われ、食事をしなければ点滴をぶち込まれることになる。
発狂しない方がおかしい。
今、自分は自分だと、間違ってることは間違ってるのだと強硬に主張できる根拠は、誰にも依存しない心身に依存している。
衣食住その全てを誰かに依存して、それでもなお強気でいられる自信は、正直ない。
まかり間違って重篤な病になろうものなら、チューブで生かされる。
そうなったとき、果たして自我がどうなっているかについては、想像したくない。
忌々しい老いを背負って、地獄の業火に焼かれてなお少しでも生き永らえようとする理由は、2つしかない。愛と信仰だ。
誰にも望まれず、自分さえ自分を愛さず、信仰さえ持たない人間は、一体何が悲しくて生きていなければならないのだろう。
老後について不安がる記事はネットには数多あるけれど、大抵「難しい時代だ」とか「各々が自分で考えることがまたれる」とか「起業し自分で仕事を作り出す能力の獲得を」とかいった曖昧だったりできもしない言葉で締められていて、要領を得ない。
要するに、どこかで死ななければならないのだろう。
社会が安楽死を許そうが許すまいが、どこかで自分の命を絶たなければいけない。
そんなことを考えなくてはいけない社会や時代が間違っているとは思わない。寧ろ耐用年数を超えてもなお生きることを許され、死さえ自らの手に委ねられるくらい自由の時代になったと考えるべきだと思う。
自殺は、人に許された最後の愚行権だ。
人はどうしたって老いる。老いを受け入れず生に執着する有様は、始皇帝が不老不死を求めるような傲慢さに等しい。
いや、始皇帝であればきっと、生き永らえれば何かを成し遂げただろう。
だけど、おれは違う。