合理的さの末路

 東京の暮らしは忙しくて、心をすり減らした。

 毎晩残業続きで、深夜の帰宅。飲み会もある。だけど婚活も勉強もしなければいけない。

 結局、睡眠時間を削ることになる。
 こうなると日常生活に支障を来すので、睡眠を1分でも多く確保する為、生活の色んな部分を合理化(単純化・省力化・合目的化)していくことになる。

 家事は週末までやらないし、食事は決まった栄養食、シャワーも湯シャンで済ませるし、移動は小走り。
 そうして何とか捻出した時間を、睡眠に充てた。

 物理的に断捨離もした。

 服は人当たりの良い一着と、靴、ベルト、時計、カバン、ネクタイ、全部ひとつずつ。ベッドのフレームも分厚いマットレスも要らないし、本も本棚も、必要のないものは全て捨てた。

 学生時代付き合ってた元カノとの思い出の品だって、手紙も指輪もプリクラも画像データも全て捨てた。それは過去を振り返らないという気持ちの表明でもあった。

 そこまですれば、当時住んでいた20㎡の部屋もさすがに広く感じた。
 こうして作った空間が広ければ広いほど、大きな幸せというか、大切な誰かと一緒に享有する時間を沢山詰め込めると思っていた。
 日当たりの良い部屋で、とおりぬける風が清々しくて、ベランダに干した白いYシャツが揺れるさまは絵になった。人生が少しだけ前進したような気持ちになったことを覚えている。

 だけど実際のところ、人生には何の進捗もなかった。
 彼女はできないし、仕事を頑張ったってポストは埋まっていて出世なんてしようもないし、残業代は出ない、基本給も上がらない。
 気を紛らわそうと趣味を探したこともあったけど、特段見当たらなかったし、趣味にかかずらうくらいなら一人でも多くの女性に会うべきだ、それが合理的な行動だ、と思い探すのも止めた。

 そうして砂を噛むような日々を送っていくうち、頭の回転が日に日に遅く、身体が重くなるのを感じた。「なんて自分は報われないのだろう」。そんな自己憐憫が心を占めるようになっていった。
 人が壊れるときには、発狂して奇行に走るか潰れて心身が稼働しなくなるかの二種類あって、自分は後者なんだな、と沈んでいくのを感じていた。

 結局婚活は辞め、仕事も勉強も、頑張ることを放棄した。
 だけど一旦失ってしまった知力と体力が元に戻ることはなかったし、常に素早く合理的に動くという習性が直ることもなかった。

 人生に疲れてしまったおれは、何かに寄りかかりたいと思うようになった。人でも、趣味でも、過去でも、なんでもいい。ただただ寄りかかりたいと思う。

 だけど趣味はついぞ見つけられなかったし、といって過去を振り返ることもできない。思い出の品なんて、ほとんど全部捨ててしまったからだ。
 全部捨てようと思ったとき、元カノの手紙もプリクラも指輪も、確かに生活の必需品ではなかった。画像データだって心乱すものでしかなかったし、不要なものだった。
 だけどあれは、過去に自分がこんなに愛された実績のある価値ある人間なのだと確認するのに必要なもの、必要なときがやがて来るものだった。

 合理的な生活を求めて断捨離してきた。生き急いでいた、と言い換えてもいい。
 物理的にも精神的にも、非本質的なものなんて要らないとハナから相手にもせず蹴り飛ばしてきた。だけどそういう「何も顧みない」という生き方には、大きなリスクが伴う。
 何もかも捨ててしまった部屋は寒々しくて、寄りかかるものが何もない。
 ぽっかり空いた空間には、大きな幸せどころか孤独と不安が入り込み、天井から見下ろしてくる。

 人はそもそも合理的な存在じゃない。合理なんて突き詰めれば、必ず「なぜ生きてるのか」という命題に必ず辿り着いてしまう。だから合理を必要以上に求めるのは間違っている。
 伴侶を手に入れるのにも、子供を持つことにも、個としての生存にも必須ではなくて、人生の目的から外れていて、"なのに思い入れを持ってしまうもの"。
 それは利害のない他人で、趣味で、そしてもう変えられない過去の道程だ。そういう非本質的なことを愛する非合理な主観こそ、人生の本質なのだと思う。
 そしてそういうものを蹴り飛ばしてきた人間が、心の支えを失うのは当然のことだ。

 丁寧に生きられたら良かった。
 とそんなことが頭で判っていても、長年の習い性も価値観も、容易には変わらない。
 いまや時間は十分あるのに、家事も風呂も食事も素早くこなし、つい時間的な余白を作ろうとしてしまう。
 そうして毎日不用意に捻出した時間で、今では仕事をするわけでも睡眠時間を増やすわけでもなく、ただただ人生を嘆き、堂々巡りを賽の河原の如く繰り返している。
 「子を作り再生産に貢献もせず、社会に求められる人間にもならず、かといって社会を変革もせず、にもかかわらず自分自身生きていて楽しいと感じられない人間が、どうして生きてるんだ。女々しいこと言ってないで、自分をこの世から断捨離した方が話が早いんじゃないのか?」

 人生の目的を失い、にも関わらず目的以外のものを愛せない人間の暮らしは、もう合理的にも非合理的にもならない。
 暮らし自体が「なぜ生きているのか」という答えのない問いそのもので、ただ生きていることが先の見えない苦行のように心がすり減っていく。