見捨てられた町で。

 神奈川県川崎市の海辺の工場地帯に、その集落はある。

 第二次世界大戦中、日本第二位の鉄鋼業JFEスチール(旧日本鋼管)は、急増した武器需要に対応するため労働人夫として半島から朝鮮人を大量に採用し、日本に連れてきた。
 いわゆる、徴用工である。
 JFEは徴用工に工場のある敷地の一角を与え、彼らはそこにバラックを建て、寄り集まって生活を始めることになった。

 そして大戦が終わり、朝鮮人徴用工の労働力がもはや必要ないと判断したJFEは、彼らを敷地から追い出そうとした。
 だが、彼らが出て行くことは無かった。ほかに行き場がなかったのである。
 元々川崎の工業地帯は「部落」のある土地で、稲川会系のヤクザの根城となっている。徴用工の中には暴力団の構成員となった者も少なくない。JFEや自治体が法律を盾にとっても、抵抗は激しかった。
 こうして、彼らの不法占拠が始まった。

 そして未だに問題は解決しておらず、今もJFEの敷地の中にその集落は存在している。

 池上町。 

 この町のことを知ったのは昨年のことだ。
 とにかくお金が無くて、もう家賃を払うこともしんどかった。
 だけど関東圏から逃げ出すわけにもいかず、土日は相場が無いので知り合いから現金手渡しで受注した事務作業や軽作業を手伝って飯代の足しにするありさまだった。
 そんな折、軽作業で一緒になった男から安く住めるドヤがあるという話を聞きつけ、下見にいくことにしたのである。
 とはいえ本気で住もうと考えていたわけではない。

 ただ、人生の終着駅を見てみたいと思った。
 自分の人生は十中八九行き倒れなのだろうけど、その行きつく先を見てみたいと思ったのである。 

 町に到着すると、独特の張りつめた空気が漂っていた。海辺なのに静けさに包まれていて、空気が乾いているのが不思議な感じがする。
 ただ大阪の西成や尼崎とは違い巡回のパトカーはいないし、ひと気もほとんど無い。

 ただ、暗い室内には誰かがいる気配はある。
 建築基準法の防火水準なんてお構いなしの細い路地には、洗濯物がよく干してあって、そこからときおりヌッと手が出てきては、何枚かはぎとると窓がピシャリと閉まる。
 独特の古い建物、バラック、文化住宅。町にはゴミが散乱し、廃墟が立ち並ぶ。錆びてひしゃげた自転車がそこかしこに山積みにされていた。


 だが、古い建物はいずれ風化する。建物が倒れた後には、JFEがバリケードを作り新たな不法占拠を防いでいる。


 新しい建物もある。もちろん接道義務も完全に無視しているけれど、ここは行政の手の入らない町だ。そこには土地を時効取得した者の開き直りがある。
 ただそういう建物には必ず「防犯カメラ設置中」のシールが貼ってある。それだけ"出る"のだろう。

 町を歩いていると作業服を着た男がタバコをふかしながら黒塗りの高級車の横に立っていて、姿を見るなり

「お兄さん、気ィつけて」と言った。

 周辺には、ホルモン焼肉屋がいくつもあって、町には焦げた臭いが漂っている。
 ホルモンとは「放る物」、つまり元々ゴミとして捨てられていた部分のことだ。
 それを拾って持ち帰り、焼いて食うのはいかにも部落の文化だ。
 近隣には屠殺場があるので、きっと昔は調達にも困らなかっただろう。

 

 不法占拠の一方で、個人的には、彼らのことを責める気にはならない。
 上下水道や電気等インフラの整備も本来JFEの私有地なので完全ではない。工場地帯の常で空気は汚れているし、公害もあった。
 今でも近隣にはコンビニさえ無い。生きて行くのに、快適というにはほど遠い場所だと思う。

 母国を離れ差別を受け、男はヤクザになり女は「ちょんの間」に通い、しかしそれでもこの土地にしがみつかなければならない彼らの生き方を思うと、それは相当しんどかったろう。
 おれならきっと、どこかで生きることを諦めてしまっていたと思う。

 

 司馬遷の「史記」に、こんな話がある。
 中国秦代の宰相李斯が若かりし頃、便所のネズミが常に人や犬におびえ、汚物を食らっているのを見た。その後、兵糧庫のネズミが粟をたらふく食べ、人や犬を心配せず暮らしているのを見た。
 そして李斯は「人の才不才などネズミと同じで、場所が全てだ」と悟り、後者になろうと決心したという話だ。

 徴用工の子どもたちの多くは、もう池上町を離れて暮らしている。残っている人の多くは「どうにもならなかった人たち」で、この町はいずれ消える運命にある。

 

 おれみたいなスカタンが生きていられるのは、兵糧庫に生まれたからに他ならない。

 だけど、ただ都会で漫然と食って生きてることに価値を見出せない欲深なネズミは一体どこへ行ったら良いのだろう。

 

 見捨てられた町で、所在なく闇の中に立っていた。