死にたい。いつからか、そう思うようになった。
死にたい。いつからか、そう思うようになった。
自分が恵まれてないなんて思わない。
そりゃ上を見たらキリがないけど、やりたいように生きてきたと思う。その割には多くの人に愛して貰った。
そして世の中にはおれよりバカでブサイクで、どうしようもない人間だって沢山いることも知っている。けれど、他人と自分の気持ちには何も関係はない。
死にたい理由なんていくらでも思いつく。だけど、内面化された苦しみの理由を探して解消してもさほど意味はないのだと思う。
「生きてることにはきっと意味がある」、「これから必ず良いことがある」みたいに励ましてくれる人もいる。
だけど、楽観的にはなれない。
根拠がないからだ。実績がないことを期待するのは欺瞞なのだと知っている。奇跡が起こらないことを知っている。
30年、生きて判ったことは、どこに行ったところで人間関係に悩み、無能に悩み、明日の食べるものに悩み、大して楽しいことなんてありはしないということだけだ。
生きていると、色んな面倒ごとがある。
空気を読んだり、誰も教えてくれなくても確定申告をして、ネットや水道光熱費、明日やらなければいけないタスクについて思考を割かなければ生きてはいけない。
マウンティングをしなければ尊厳まで奪われ、やられたら報復しなければ次がある。
その果てに与えられるのが無限の退屈なのだとすれば、別に生きていたいだなんて思わない。生きるインセンティブが無い。
その上で、幸せとは、愛すべき誰かと気持ちを分け合うことだと思う。だけど現実問題これからの人生は日に日に孤独なものになるだろう。
老いゆく身体で孤独と怨嗟を抱いて不穏に死ぬのと、健康な身体と魂で自分の人生に「まあこんなものだな」とある程度納得して自死するのでは、後者の方が遥かに人間的で豊かな最期ではないかと思う。死ぬインセンティブならあるのだ。
それを安易に悟った、甘ったれたナルシストの戯言だというのも解る。
ただそれはそれとして、毎日寝て、食事をし、歩き、呼吸することが苦しい。
内面化された無意味なものだとしても、この苦しみは、現実そのものだ。
きっと一過性なのだと思い込もうとして、薬を飲んでも効果はない。骨の髄まで退廃が身に染みているのだろう。
「死んだら他人に迷惑がかかる」「死んだら悲しむ人がいる」という話も、後か先か、大か小かの違いとしか思わない。人が一人死んだくらいで世の中が大して変わりはしないことくらい知っている。
いや、本当のことをいうと、誰かに迷惑をかけたり悲しませたりしても申し訳ないとか、そういう感情が起こる機構が組み込まれてない。本来申し訳なく思うべきなんだろうな、ということは判る。
人としてどこか大事な部分が欠落しているんだと常々思う。
だから自分の置かれた状況を考えると、生まれた時点でこの人生の底へ帰結することが決まっていたと思うのだ。
過去どんな選択肢を採ったとしても、早晩この場所に到達していただろう。そしておれのことを説得することは誰にもできなかったし、救えなかったはずだ。
人が人を救うことなんて出来はしない。
人を救うことができるのは、いや自分を救うことができるのは、運命と僥倖だけなのだと知っている。