何億年も前につけた傷跡なら残って

 目を覚ますと、いつもの天井だった。
 カーテンから白い光が差し込んで、塵の浮いた部屋の空気を照らしている。
 嫌な汗をかいている。思わずため息をついた。

 また、いつもの夢を見た。



 中学の頃、ネットでは中高生の間で「前略プロフィール」というサイトが流行っていた。
 それは簡単な質問に幾つか応えるだけで自己紹介ページを作成することができるというもので、SNSの存在しなかった当時としては画期的な交流の場となっていた。
 「前略」には、掲示板が付属している。
 自分と気の合いそうな「前略」を見つけたら掲示板に書き込みをして、気が合えばチャットルームに誘導したりhotmailメッセンジャーというLINEのようなサービスで関係を深め、ときにはオフ会をしたりする。
 それがある界隈では一連の流れとなっていた時代があったのだ。

 中学生2年生のおれは、当時もこうしてネットに文章を書いていた。
 ブログではなくいわゆる「テキストサイト」という自分でHTMLを組んで作成するHPで、そのデキはといえば黒歴史としかいいようがない。だけど恐らく同じ方向に中二病を爆発させたと思しき固定の閲覧者が何人かついてくれていた。
 HPの中には「前略」が設置してあって、見てくれた人が感想を書き込んでくれる。おれもその人のサイトに行って、感想を言い合う。
 その中の一人が、マリだった。

「素敵な文章だと思います!」
「今日はオチが弱かったですね。笑」

 そういうコメントを毎日書き込んでくれていた。
 彼女も同い年で、似たような感性を持った者同士で仲良くなって、実際会おうという話になるのに時間はかからなかった。
 彼女は千葉の下房総に住んでいた。

 おれの住む神奈川の町からは、片道2時間半ほどの道程だ。
 電車とバスを乗り継ぎフェリーに乗り、田舎の1時間に1本しか来ない電車を待ってやっと彼女の住む町に到着する。
 それは、中学生のおれにとって大冒険だった。

 初めて会ったマリは、身長が高くて、可愛らしい女の子だった。
 思春期大爆発で顔面がニキビでめちゃくちゃになっているおれを見て彼女がどう思うか不安だったけど、彼女は気にするそぶりもなくおれを受け入れてくれた。
 彼女の住む町をただ歩き回るだけのデートをして、付き合うことになった。

 マリは初めてのカノジョではなかったけど、初めてのカラオケデートも東京観光も、キスもそしてセックスも、全部彼女だった。
 毎日電話とメールをして、月に2回くらい会いに出かけた。遠い町に住んでいたけど、出かけるのは苦にならなかった。色んな話をした。好きな小説の話、勉強の話、公立中学校の粗野な同級生に馴染めない話。
 おれたちは同類で、彼女のことが好きだった。




 月日が流れ、高校二年生になった。
 ある日、軽音楽部の友達がライブをするというので誘われて、住宅街の真ん中にある小さいライブハウスの前で友達と話していると、彼女から電話がかかってきた。

「はいはい、どうした?」

 電話を取ると無言のまま、マリは何も言わなかった。泣いているようだった。

「なに、どうしたの?」

 暫く言葉にならない呻きで泣いた後、彼女が言った。

「D君、わたし、レイプされた」

 その一言で周囲は音を失った。
 住宅街の真ん中を通って東京湾へと繋がる用水路の向こうに、大きな赤い夕陽が静かに落ちていった。覚えているのはその光景だけで、自分が何と応えたのかよく覚えていない。
 だけどおれはそのまま友人のライブに参加したし、フェリーに乗って彼女のもとに駆け付けようともしなかった。

 その日から彼女は人が違ったようになって、手首を切っては写メを送ってくるようになった。
 会う度に狂ったようにセックスを求めるようになった彼女に、心が醒めていくのを感じていた。
 結局、都合5年付き合って関係は終わった。最期は彼女の浮気だった。

 自分は、いざとなったら何でもできる男だと思っていた。
 相手の男は彼女の高校の学生で、居所だって判っていたはずなのにおれは後日復讐の為に殴り込みに行こうとさえしなかったのである。

 こんな思いをしたのだから、それを何かに役立てなければ割に合わない。もしこの世界に神様か何かがいるなら、おれにそう命じてるじゃないのか。そう思わなければ、とても苦痛を受け入れられなかった。
 そして法律の勉強を始めた。法学部に進学し、法科大学院にも進んだ。検察官になろうとした。

 力が欲しい。大事な人を傷つけられないような権力が欲しいと思った。そんなものは存在しはしないんだけど。
 だけどおれの学生時代の半分は、半グレのようなことをして社会に反逆したつもりになってお茶を濁していたのだから、それはやはり歪んだ正義感というか権力志向だったんだろうと思う。
 結局、おれは法律家にはなれなかった。

 こんな何億年も前の話は、いまとなっては思い出して辛くなることさえない。
 レイプされたのは自分自身じゃないし、あれからもっと酷い話は他にいくらだって見聞きした。単に若くて幼い心には、少しだけ耐えきれなかったというだけの話だ。

 けれど未だにレイプモノのAVは吐き気がして観ることができないし、今でも彼女が無理やり犯される悪夢を見る。見たはずのない光景だ。
 その度に、傷跡が消えていないことを確認するのである。


 23歳のある日、彼女と再会してカフェで食事をした。
 司法試験に受かる能力がなくて、法科大学院を辞めることになった。

「ごめん、おれ大学院辞めたんだ。検察官になれなかった」

 そう告げると、彼女は

「D君、あんなの全部ウソだよ。信じてたの、損したね」と嗤った。

 マリは垢抜けていて、美しい女に成長していた。

「もう自分の人生を生きて、幸せになって。」