夜明けの西成・泥棒市場

 まだ陽の昇らない時間帯、空気は肌を刺すように凍てついている。
 紆余曲折あって数年ぶりに大阪は西成区のあいりん地区にいた。

 

 朝の5時くらいになると、労働福祉センターの周りにはホームレス崩れの日雇い労働者を現場まで連れて行く為のバンがちらほら現れる。
 バンに乗るため参集した日雇い労働者達や近所の貧しい身なりをした老人達が、そこここで道路に座り込むホームレスたちの周りに集まっていた。

 

 ここには「ドロ市(泥棒市場)」というものが存在している。盗品を販売しているのだ。
 ホームレスたちはブルーシートを敷いて、その上に雑然と商品を並べている。飽くまで品物を並べているだけなのであって、売っているわけではないというのが建前だ。
 その様子をケツモチと思しきヤクザが車から遠目に伺っている。
 売られている商品が実際に盗品かどうか知る由もないけれど、要するに出自不明の中古品であることに変わりはない。

 


 賞味期限が切れ本来コンビニが廃棄するはずだったお弁当やおにぎり、海賊版のアダルトDVD、偽ブランドの財布等々、平気で路上に並べて売られている。

 東京の山谷(台東区)にもドロ市は存在しているけれど、そちらのメインはアダルトDVDやエロ本で、どちらかというとネットにアクセスする能力のない老人の性的福祉を担っている印象だった。


 ここあいりん地区での主力商品は処方薬、とりわけ精神薬だ。

 


 生活保護者は、制度上医療費がかからない。必要以上に医者に処方を申請してホームレスに卸せば、そのまま行政に足のつかない遊興費となる。

 レイプドラッグ、処方量では足りない依存患者、西成には指名手配となり病院にかかれない人間もいる。そもそも健康保険なんて支払っている方が少数派だろう。薬の需要ならいくらでもある。



 道に胡坐をかいてブルーシートに座る男に話しかけた。

「シャブ(覚醒剤)ないんですか?」
「その前にお兄ちゃん、手に持ったケータイうらっ返しにしてくれる?」

 スマホを表にして画面を見せた。何も映ってない。
「なんやなんや、いやごめんねぇ、ほら動画とか撮る人いるでしょ、それでね」

 男は相好を崩して釈明した。本当は写真を撮っていた。咄嗟に電源を落としたのが間に合った。肝を冷やした。
「シャブは数年前までは扱ってたんや。でも、今は眠剤くらいまでで頑張らしてもろてるんですわ」

 

 別のブルーシートに移り、試しに薬(デパス)を購入することにした。ワンシート1,200円だという。少し頭の弱そうな60代くらいのホームレス風の男が
「今、値上げしてる、これ安い、あっち(のブルーシートでは)2,000円、ここ1,200円」
 などと言う。1,200円は実際に処方される倍以上高い価格設定だけど、それでも売れるということだろう。千円札1枚と5百円硬貨1枚を渡すと、頭の弱そうな男は困惑した表情になった。
 暫く「あー」とか「うー」とか言った後、思いついたような顔になりヤクザの乗った車に向けて「親方、親方ー!」と叫び始めた。釣銭の計算ができないのだ。
 こんなところでヤクザなんかと関わって面倒ごとに巻き込まれたくはないので、「お釣りとっといてよ」と言って立ち去った。

 ドロ市は犯罪なので、当然のことながら何度も規制されてきた過去がある。だけどどんなにルールで規制したって、日の当たる世界で生きられない人間もいる。

 

 前日、串焼き屋の若い店員に「泥棒市って知ってる?」と尋ねた。
「なにそれ、知らんなぁ。大阪人やってもな、西成には近づいたらあかんって言われんの。あの辺は絶対行ったらあかんって」
 彼らは目立たないことで社会から透明人間として扱われ、こうして警察や行政と折り合いをつけながら黙認されている。

 


 労働センターの中に入ると日雇いの求人が張り出されていて、2階は解放されてホームレスが風雨から逃れる場所になっている。打ちっぱなしのコンクリートは冷たいけれど、それでも外よりはマシなのだろう。皆、毛布にくるまって震えていた。

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 その中の一つの毛布がビタンビタンと飛び跳ねていた。形容しがたい呪詛のような言葉をくぐもった声で呟いている。毛布がめくれると、男が下に何も履いていないのが見えた。

 

「アアア、アアア、アアア、アアア、アアア、アアア!」

 

 よく耳を傾けると、どうもそれは女の名らしいと判った。アイコかアヤコか、そういう類の名前を虚無に向かって叫んでいる。

 明らかに正気を失い、人の姿をした何かとなってしまったが、この男にもおれと同じように誰かを愛そうとした青年時代がいつかあったのだろうか。

 だとすればあるいは、これは来るべきおれの未来の姿なんじゃないのか。そうじゃないだなんて、誰も保証なんてできないだろう。 

 今日も大阪の夜が明ける。
 街にスーツを着た通勤するサラリーマンの姿が増えるのに合わせて、彼らはどこかへと消えて行った。