家へ帰ったことに免じて
深夜、満身創痍の身体を引きずって家の扉を開くと、暗い廊下の奥で干してある洗濯物が人の姿に見えることがある。
首を吊って、風もなくギシギシと音を立て揺れる自分自身の亡霊だ。
壁の電気を点けると亡霊は消え、いつもの何もない部屋がある。
部屋には大型犬用のリードがあって、容易に首を入れる輪をつくることができる。洗濯物をどかして、その代わりに自分を吊るせば、それでこの人生もしまいだ。
随分長く歩いた気がする。出来の悪い茶番劇だった。
だからもう、ここまででいい。
この人生はもはや詰んでいて、代わり映えなんてしない。ここから先にあるのは真綿で首を絞められるような緩慢な死だと思う。
居心地の悪い1LDKにもこの世界にも、自分の居場所なんてない。早く砂になって、ここではない何処かへ消えてしまいたい。本当はこんな家に帰りたくなんてない。
そうなことを思う日ばかりだ。
フローリングに布団をしいて、横になって天井を眺め、目を閉じて物思いに耽る。
それは、刺激的な出来事について。
先物で数百万円の含み損を抱えたときや、ヤクザや半グレの暴力を目の当たりにして死をちらつかされたとき、監禁されたとき、人によってはもしかしたら死んでしまうかもしれないような、そういう状況を眼前に突き付けられたときのことだ。
そういうとき、不思議と考えることは死によってもたらされる安寧への期待ではない。
「家に帰りたい」
時間を戻して欲しい。
あのただ飯を食って寝るだけの埃っぽくて、そして麻薬的に温かな布団の中に戻って、少しで良いから寝かせて欲しい。
なんでこんな所へ来てしまったのだろう。代り映えのしない日々に一体なんの不満があってこんなことに首を突っ込んでしまったんだろう。
お願いだから、あの閉塞感だけの日々に戻りたい。
やり直したい。
以前おれは、過去にどういう道筋を採ってもここに辿り着いただろうと書いたことがある。だから、普段これまでのことについて後悔することはそんなにない。
だけどこの感情は明らかに後悔そのものであって、まるで後少しでいいから生きていたいという見苦しく不合理で、自然な、動物的な情動だ。
ここ最近、本当に刺激的な出来事の連続だった。お陰で死にたい理性とは別に、いまも本能があと少し、あと少しを求めている。バカらしくて、滑稽で、思わず笑えてくる。
だから明日も刺激的な一日でありますように。誰かに話したくなるようなとんでもない出来事が起こって、その顛末を話したい。そして、この部屋に帰りたいと思わせてくれるように。
今夜も、部屋へ帰ってくることができた。
そういうことに免じて今日のところは、首を吊るのを止めにした。