黄昏に飛び立つ

 

 ある夜、信号待ちをしていた。

 こんな郊外の町で、こんな時間に走る車の数は多くない。

 空を見上げると、目の前を双子座流星群の火球がゆっくりと横切っていった。それはもう白々しいくらい、「さあ、願え。」と言わんばかりの速さで。

「全部うまく行け。」

 これ幸いと願う自分を見付けた。今さら神も仏も霊魂も信じたりはしない。私が願ったこと、そのほとんどが叶うことはなかった。しかしそれもこれも、今日この日の為の前振りだとさえ思う私を。

 つい最近まで、もはや人生の全てを棄て、金も、幸福も、家族も、命も要らない。そう思っていた私が、いまや節操もなく全部うまく行けなどと願うことの滑稽さを思った。

 産気づいた妻を病院に送り届け、一旦家に帰る途だった。急いで出掛けてきたから、手袋をするのを忘れていた。ハンドルを握る手もかじかむような寒い夜だった。こういう夜の翌日は、きっと晴れるだろう。

 一体、何を以て自分を達観した人間だなんて思い上がっていたのだろう。数千万も投機に費消するやけっぱちさか、ドヤを転々とした時期があるからか、ヤクザの可能性のある人間の事務所に行ったことがあるからか、ちょっと海外のスラムに顔を出したからか、親友の死を眼前に経たからか、ほんの数か月バイクで旅に出てみたことがあるからか。

 どれもこれも達観とは程遠い、「世にありふれた小話。」に過ぎない。現に破水した妻を車に乗せて運ぶくらいのことで背中に脂汗を垂らすような小心さだ。それとも私が弱くなったのか。きっとどれも違う。単に失うものが出来た、たったそれだけのことで、私自身に何ら変わりは無い。ただ状況だけが藁にも縋らせていた。

 

 *

 

 健常の人には中々理解されないことだが、私は元々、基本的に薄っすら死にたい気持ちを抱えて暮らしてきた。「生きているだけで苦痛」なのだ。慢性化した炎症のように、それ自体特に理由はない。

 ただ私には、生きるのに理由が必要だった。趣味でも、仕事でも、誰か大事な人の為に生きなければいけないでも何でもいい。生きる苦痛を贖うだけの理由が。

 学生時代も挫折の連続で、それはそれなりに辛いこともあった。けれど普通のサラリーマンとなり、受験や就活といった目下の目標を見失った後は気を紛らわすようなものもさして見当たらず、ずっと「一体、何のために生きているんだろう?」という気持ちに苛まれてきた。

 無能の社会不適合では、立身出世を夢見て仕事にまい進することも出来なかった。婚活をしてみても、誰にも愛されることはなかった。趣味のようなものを探す努力もしてみたが、見つからなかった。

 誰にも求められず、自分さえ何のために生きているかわからないまま東京で過ごす日々は、着実に心を擦り減らしていった。

 婚活で出会う女に金を遣っているうちに貯金の残高もなくなり、やはり自分のように価値のない人間が愛されるにはカネが必要なのだと思った。そして、リスキーな投機を繰り返し、あっという間に2千万円という多額の債務を抱えてクビが回らなくなった。

 

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 首を吊った。失敗した。縄が切れたからだ。次はもっと丈夫な縄でやろうと誓った。

 しかしいずれにしても「実行できた」。希死念慮を持つ者の中でも、思い描くことと実行することには大きな隔たりがある。「オレは本当にいつでも死ぬことの出来る人間なんだ!」という思いを確かにし、ずいぶん勇気づけられた私は破産手続きをすることにした。

 

 法テラスに連絡して弁護士と破産手続きを進め、裁判所から「お前の破産を認める」という通知が来たのは2019年も半ばに差し掛かった頃で、私は30歳になっていた。

「破産」という言葉の強さに、「これが不幸の底だったら良いな」と少し楽観的に思っていた私だったが、そこから坂道を転がり落ちるように不幸が立て続けに起こった。

 職場で上司に暴力を振るわれ警察沙汰になったり、身内が亡くなったり、別の身内がニュースになるような事件の当事者になったり、海外で車にひかれ、その勢いでインフルエンザに罹り入院したりした。短い期間に事故って負傷したり損害を負ったことも一度や二度ではない。

 

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 もちろん仕事がうまく行くようなことはないし、婚活をしたって破産者で更に未だ債務のある人間を愛する異性なんているはずもなかった。そうして鬱々としているうちに、そういう態度に愛想の尽きた友人たちの多くは私の下を去り、余計に孤独を深くした。

 もう何をやってもこの人生は上手く行かないと悟り、いい加減に死んだ方が良いと思った私は、前回の失敗を活かしAmazonで丈夫な大型犬用のリードを購入した。

 

 そんな折、婚活仲間として意気投合し、一緒に遊んでいるうちに希死念慮を打ち明け合うようになり親しく付き合っていた友人から連絡が来た。私の数少ない、大事な親友だ。

 それは、「一緒に死のう」という申し出だった。「さもなければ一人で死ぬ」という話だった。

 結局、思うところあった私はその申し出を断った。その代わり、友人の自死を看取ることを約束した。

 看取る。つまり友人が自死に失敗したときには、私が殺すということだ。

 私も自殺をしくじった人間だ。自殺の恐ろしいところは、死それ自体ではない。失敗して、欠損した心身で生き残ってしまうことだ。少しでも苦しまずにいけるよう、寄り添っていたいと思った。何があっても味方でいると誓った友人が君にはいて、クソみたいな人生だったかもしれないが、孤独ではなかったと思っていて欲しかった。

 

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 そして友人は死んだ。ホテルの一室で首を括った。傍らには私がいた。

 私は服役することを覚悟していた。調べる限りにおいて類似の事件はみんな実刑になっていたからだ。

 しかしそうはならなかった。友人が書き残した遺書に、しきりに私のことを庇うような言葉が書かれていたからだ。遺書は、私に書かされたものではないことを示すために、自宅に届いた携帯料金の請求書の裏に書かれていた。

 そして遺書には、友人の大事な人に私がメッセージを届ける役目を託すという旨が書かれていた。

 警察から解放された私は、確固たる希死念慮を携えて、友人に託された遺書に書かれた内容を遂げていった。遺族や友人に会い、顛末を伝えた。

 会うのを拒んだ人もいたし、友人の死で心が落ち着くのに時間を要した人もいたが、おおよそ「これ以上はもうできないな」というところまで遂げるのに、半年以上の月日を要した。

 

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 2020年の末、私自身、満足していた。

 私は友人にとって特別な存在になることができた。それだけで苦しんで生きてきた甲斐があったというものだ。そしてもう、私の生きる意味も役目を遂げた。

 

 私は嬉しかった。「死を任せる。」という他の誰にも担えない役割を貰ったことが。
「生を任せる。」こと、即ち共に生きてゆくことよりずっと容易だが、しかし人生を棄てる覚悟をした私でなければ担うことのできない役割だった。
 喉から手が出るほど欲していた、「私の意味。」そのものだ。私のこれまでの人生にはそんなものしか無かったが、しかしそれでも確かに私が得た意味なのだった。

 

 ここから先にあるのは更に苦しく孤独な未来しかないと思った。私自身の心もいよいよ限界を迎えていた。

 もういつ死んでもいいと思っていたが、最後にせめてやり残したことを全て終えてからにしようと思った。

 

 早々に死ぬのなら、もう働く必要はない。

 職場から逃げ出し、仕事を放り出した私は、ブログにこれまでの事の経緯を書き残した。ずっと書きたいと思っていた小説も書き上げた。ほとんど誰にも読まれることはなかったけれど、別にそれで良かった。

 そしてバイクを買って旅に出た。行きたかった場所を見尽くし、この国の何処を探しても希望の無いことを確認して、そして友人と同じホテルの一室でドアノブに首をかけて一人で死のうと思っていた。

 それが2年前のことだ。

 

 *

 

 出発の日、冬季用の装備もままらなないままバイクに飛び乗った。東京の12月、その中でも特別寒い日でさすがに躊躇した。敢えてこんなに寒い日を選ぶ理由は何だ? そう問いかける私に、「もう時間が残されていないからだろ。」と答える私がいた。

 この人生に希望は残されていない。生きて呼吸をしているだけで火の粉を吸わされるような苦痛を覚えていた。

 このまま部屋でまんじりともせずいようものなら春までは生きてはいられない。今すぐ死ぬ理由も、旅に出ない理由もいくらでもあった。そういうものを振り切るのに、ちゃんとした準備をすることは出来なかった。

 

 家を出る前、腹を膨らませる為に牛乳を飲んだ。まだ中身は相当余っていた。しかし牛乳の消費期限を気にするような者は、ここから先の人生を少なくとも当面生きて行こうとする者だ。私はそうではない。自分に言い聞かせるように牛乳パックを冷蔵庫にしまった。全てが些細でどうでも良いことだった。

 

 東京から一旦新潟に出て、冬の日本海を南下し、九州を一周し、沖縄へ行った。

 

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 雪解けを待って東北を抜け、北海道を反時計回りに一周し、小樽のフェリーに乗って新潟に戻り、東京へ帰って来た。

 大雨の日も雪の日も、風の日も氷点下の日も、宿が見付からない日もあった。凍った道も崩壊した険道も通ってきた。スリップして転ぶことも凍傷で手足が紫に腫れる日も、腱鞘炎や捻挫で痛みに堪えて走った日もあった。だが、東京で死んだように生きるよりずっとマシだった。とにかく前に進み、少しでも多くの景色を見て、希望が無いことを確認しようとした。不幸中の幸いなことに、破産してから特に散財していなかったお陰で手元にはいくばくかのカネが貯まっていた。コロナ禍のお陰でホテルも安かった。

 

 そうして全ての都道府県を見て回り、日本を一周し終わったのは2021年の春頃だ。

 数か月にわたる旅の間、SNSにその模様を呟いていると、当地に住むフォロワーの人たちが声をかけてくれて物資を提供してくれたり、ご飯を奢ってくれたり、宿をとってくれたりした。

 

 本当に有難いことだったが、それでも今後に希望を見出すようなことは無かった。

 多くの人は「生きて欲しい」と言ってくれたけれど、だからといって彼らが私の人生に責任を負うこともなければ、依然として私は孤独だった。私は罪を背負っていて、債務があって、仕事はない。

 日本中を探し回っても希望が落ちていなかったように、今後そういう類のものが現れることは無いだろう。それを確認し尽くした、と思った。

 旅の間見たどんな絶景も私の心を埋めることはなかった。景色は、しょせん景色でしかなかった。

 

自分のことを正当化する理由がどうしても要るんだ。この世かあの世かわかんないけどさ、いつか引っ張り出されて、理由を答えろって責められるような気がするんだ。自分のしたことにちゃんとした申し開きをしてみろ、いつなんどきそう言われるかもしれないじゃないか。(ポール・ウィルス ハマータウンの野郎ども)

 

 それ見たことか。本を読んで人生が変わるだと。旅に出て人生が変わるだと。全て世迷言だ。その証拠に、どうだ。この人生を見てみろ。何一つ解決していない。寧ろ状況は悪化した。ここからどう希望を持てというのか教えられるものなら教えてみろ。

 

 旅から帰って来て、再び何編かの小説を書いた。今しばらく生き延び、この世に私たちの死生観を問うてみたかった。

 そうすることに一体どれだけの価値があるだろう。ブログに私とH子との経緯を書いてから、「救われました。」というメッセージを何通か貰った。反対に、「やはり私の人生は救われないと思いました。」という人もいた。誰かを救いたいわけでも、人の生死を後押ししたいわけでもない。

 ただきっと、世の人が私たちを「どうしたら救えたのか」、話をしているのを見て、笑いたかったのだ。バカらしいことだ。一人の人を救うのには人生を擲たなければならない。人生の袋小路に入った人を片手間に救えるはずがない。私たちのこの世界を包括する現世のルールは完璧ではない。そこを逸脱した人は誰にも救えない。ならば放っておいてくれ。私たちが自ら死を選ぶことに口出ししないでくれ。手出ししないでくれ。私たちの命は「私たちだけのもの。」だ。

 私が言いたかったのはそれだけだ。それを手を替え品を替え表現し続けた。その結果は、相変わらず箸にも棒にもかからなかった。生涯、陽の目を浴びない書き手は掃いて捨てるほどいる。だから年末まででいい。年末まで耐えたら、地獄の鬼を目の前にして申し開きをしてやろうと思っていた。

 

 *

 

 ある日、近所に住んでいるというフォロワーの女性から連絡をもらい、会うことにした。これまで何度か日程の提案を受けていたが、気が乗らず断っていた。その日、私が彼女の誘いに乗ったのは、単に気の迷いだったからという他ない。

 しかし会ってみると、これまで会って来たどんな女よりもひときわ美しい人だった。彼女の顔に見覚えがあった。人前に立つ仕事をしていたからだ。

 彼女は、「あなたのファンです。」と言った。ブログも、Twitterも、配信も、全部追っていて、そして旅が終わる頃になって私の生活を追えなくなるのがイヤになってしまったのだという。そして彼女は、「私は、あなたの人生に責任を負う覚悟があります。」と言った。

 そんなことはあり得ないことだと思っていたが、しかし既に騙されても殺されても失うものの何一つない私は、彼女に言われるがままデートを重ねた。そうして数か月経った頃、気付いたときには結婚していた。

 彼女のような聡明で美しい女が、私のようなこの世の宿痾を煮凝りにしたような男を好くはずがない。あり得ないことが起こったのだと思った。同時に、安寧を棄て、働きもせず無能で希死念慮に取り憑かれた男を選ぶ彼女のことを、一体なんて業の深い狂った女なのだと思った。この業を背負うに到る道程を思うと悲しくなった。私と同棲した日、あれは妻が自殺した日なのだと今でも思うことがある。

 結婚する前、妻は「もしあなたが働かなくても、私が仕事を増やせば大丈夫。」と言っていた。そういう言葉に増長してヒモとなる男は数多いるはずだ。狙って言える言葉ではない。翻ってその誠実に応える為、私は社会復帰することになった。

 働くことそのもののブランクもあり、今までやったこともない経理の仕事を1から覚えるのは、記憶力の弱い私には少々荷が勝った。いずれにしても相変わらず私は無能者のままだった。ダメな男には何をさせてもダメなのだと改めて思った。

 妻は私に、「あなたは美しく死ぬタイミングを逃したんだから、恥ずかしくてみっともなくても泥臭く生きないとダサイよ。」と言っていた。妻にはそれを言う資格があった。

 新人賞には懲りずに4本送った。いずれも箸にも棒にもかからなかった。社労士試験にも、宅建士試験にも落ちた。同棲してしばらくしても、私たちには子どもが出来なかった。不妊治療の保険適用に合わせて、クリニックでの検査を行った。結果、私の高度乏精子症を原因とする不妊だった。

 人生は、依然私にとって大変な難事業だった。

 

 幸いなことに不妊治療の結果はすぐに現れた。それは私たちの色んな事情を加味すると本当に僅少な確率だった。そこから、ただ粛々と子どもを受け入れる準備を進めた。

 私たちが妊娠の報告をした人は多くない。直前になってもなお、「これは私の人生だから、何かが起こって悪い結果になってもおかしくない。」と思っていたからだ。

 友人たちからベビー用品を譲り受け、もしものときの為に車を買った。何かを受け入れる度、手渡す人たちは「おめでとう。」と無邪気に口にした。これらが転じて大きな呪いになることがある。私はその一つ一つを冷え物と見做し思い入れを抱かないように努めた。

 結婚したところで何かが大きく変わったわけではない。希死念慮だって今でも傍らに抱えている。私はここ十年の諸々を経てもなお、何一つ成長も更改もすることなく、ただ望外の幸運のみによって報われてしまった憂いがある。

 映画でも小説でも、物語には「魔法」が存在する。普通ではありえないような奇跡が起き、それが人前で語るに足りる物語になる。しかし魔法を使った者は、何かしらの代償を支払わなければいけない。

 私の人生は出来合いの物語ではない。確かにそうだが、私はいつか身分不相応の幸運に恵まれたその代償を支払わなければいけない日がやって来るのではないか、と身構えていた。何が原因となって瓦解してもおかしくないと思い、冷え物を抱えて日々を経ていた。

 

 そして、あっという間に十月十日の月日が流れた。

 私はずっと、「誰かの特別になりたい。」と思っていた。自分のことを特別にして求めてくれる誰かに愛され生きることは、思っていた以上に私を楽にしてくれた。それは妻も同じだったようだ。

 中国の陰陽五行によると、人生には季節があるという。生まれてから10代後半くらいまでが「玄冬」、そこから30代前半で「青春」が終わり、50代前半までが「朱夏」、70歳前半くらいまでが「白秋」、そして70歳後半以後が再び「玄冬」と遷り変るのだという。それにどれほどの意味があるのかは知らない。

 ただ結婚してしばらく経ったある日、「誰かの特別になりたかった私」が死んだ。という実感があった。そして何となく、「青春が終わったんだ。朱夏がやってきたんだな。」と思った。きっと過ぎ去った季節のことを考えるのは意味がないことだと思えるようになっていた。

 最終的に子どもが出来ても出来なくても、私たちにとってそれはどちらでも良いことだ。ただいつかこの先、数十年先の未来で、「あのとき、私たちは一緒に不妊治療も妊娠期間も頑張ったんだよね。頑張った結果だったら、仕方ないね。」と受け容れるための通過儀礼だと思うようになった。

 そして予定日の三週間も早く妻が産気づいたその夜、私は空に双子座流星群の火球を見て、我が子は「星の下」に生まれるのだと思った。翌早朝、病院から連絡があり駆けつけると、私は父親になっていた。寒い夜の翌朝は晴れるものだ。産院の窓から眩しいくらいの朝日が差し込んでいた。

 

 生まれたばかりの我が子の小さい手を握ると、軽く握り返してくるのを感じた。新しい命だ。妻に似て大きい目をしていて、鼻は私、口は妻、耳は私、そして二人に似て色白で、紛うことなく私たちの子だ。

 新しい物語が始まるのを覚えずにはいられなかった。そして、私の物語が終わっていくのだということも。私も妻も、もうこの物語の主人公ではない。

 私はずっと、「一体、何のために生きているんだろう?」という気持ちに苛まれて生きてきた。考えても栓の無い問いだ。考えても考えても、振り返って結果を見なければ人生の形を捉えることは出来ない。ミネルヴァの梟は、迫りくる黄昏に向けて飛び立つのだ。

 朝焼けとともにやってきた我が子は、私たちの放った梟を何とか捕まえるだろう。しかしきっと、彼もまた自分の実存について同じ問いに苛まれる。旧時代を生きる私たちが得た答えをそのまま教えても、もはや陳腐化していて、新しい時代を生きる彼にとって役立つことは決して多くないからだ。

 しかしそれでいい。小さなヒントを手掛かりにして、これから彼は彼自身の物語を作り上げていくんだろう。だからきっと私の想像もつかない話になる。それが楽しみで仕方ない。

 

 悩んで悩んで、愛しい我が子に名前を授けた。朝焼けを意味する言葉だ。

 妻が私にとって、私が妻にとって太陽であるように、そして私たちがかつて誰かの太陽だった日があるように、この子の存在もまた誰かの闇夜を明かす希望の光であって欲しい。人の心を温かく照らすような子に成って欲しい。我が子の名前にそういう願いを込めた。

 私は自分の名前が好きだ。私と親との関係は、正直あまり上手くいったとはいえない。ただ、自分が望まれて生まれてきたのだと目に見える形で信じるのに、ちゃんと由来のある名前は充分だったと思う。この子も自分の名前を好きになってくれたら良い。

 

 *

 

 この世界のどこかに、ある映画があった。

 それはとても魅力的で、ハッピーエンドの素敵なストーリーだ。登場するのは魅力的な主人公。気のいい仲間に恵まれていて、カッコイイのか悪いのか、賢いのか少し抜けているのか、フィジカルが強いのか弱いのか、そういうことは判らない。だけど観客はみんな彼のことが大好きだった。

 セカンドシーズンの公開はまだまだ先だ。だけど観客はもっとこの魅力的なストーリーの世界に触れたい、主人公を作り上げたバックグラウンドを知りたいと願った。

 そこで発表されたのが、主人公の父親の青年時代にスポットライトを当てた短編のスピンオフだ。本編に少しだけ登場して主人公にちょっと示唆のあることを呟くだけの、少し太っていて何処にでもいるような冴えない雰囲気の中年オヤジだ。だけど観客はみんな知りたい。どうしてあのオヤジにはこんなに美しく優しい妻がいて、こんなに魅力的な子がいるんだろう? 本編で主人公に言ったあの示唆には一体どういう意味があったんだろう。

 そして満を持して公開されたエピソードゼロだったが、評判は最悪だ。

 不必要に悲哀に満ちててガッカリ、下らない言い訳ばかりのダメオヤジに失望。こんな悲惨な話をわざわざ見せるな、完全に蛇足。私たちは一体何を見せられてるの? あのオヤジはラストで死んどいた方がキレイだった。そういう☆1の散々なレビューで溢れている。

 

 だけど、そんな話にも☆5をつけてくれる人たちがいた。妻や、そして何年にも亘って、有名人でも何でもない私のブログを読んでくれた人たちだ。

 そういう人たちが有形無形に垂らしてくれた糸を手繰り寄せ、私は生き長らえてしまった。後悔した日がないとは言わない。ただ、今は感謝したい。無邪気に「これはハッピーエンドだ。」と言うには憚られる哀しみがある。だけど私たちの過ごした日々は決して無駄ではなかったのだと今では信じられる。

 

 これが他の誰にも語り得ない私の過ごした青春だ。こんな話を、今まで読んできてくれてありがとう。