家へ帰ったことに免じて

 深夜、満身創痍の身体を引きずって家の扉を開くと、暗い廊下の奥で干してある洗濯物が人の姿に見えることがある。

 首を吊って、風もなくギシギシと音を立て揺れる自分自身の亡霊だ。

 壁の電気を点けると亡霊は消え、いつもの何もない部屋がある。


 部屋には大型犬用のリードがあって、容易に首を入れる輪をつくることができる。洗濯物をどかして、その代わりに自分を吊るせば、それでこの人生もしまいだ。
 随分長く歩いた気がする。出来の悪い茶番劇だった。

 

 だからもう、ここまででいい。

 

 この人生はもはや詰んでいて、代わり映えなんてしない。ここから先にあるのは真綿で首を絞められるような緩慢な死だと思う。
 居心地の悪い1LDKにもこの世界にも、自分の居場所なんてない。早く砂になって、ここではない何処かへ消えてしまいたい。本当はこんな家に帰りたくなんてない。
 そうなことを思う日ばかりだ。

 

 フローリングに布団をしいて、横になって天井を眺め、目を閉じて物思いに耽る。


 それは、刺激的な出来事について。

 先物で数百万円の含み損を抱えたときや、ヤクザや半グレの暴力を目の当たりにして死をちらつかされたとき、監禁されたとき、人によってはもしかしたら死んでしまうかもしれないような、そういう状況を眼前に突き付けられたときのことだ。


 そういうとき、不思議と考えることは死によってもたらされる安寧への期待ではない。

 

「家に帰りたい」

 

 時間を戻して欲しい。
 あのただ飯を食って寝るだけの埃っぽくて、そして麻薬的に温かな布団の中に戻って、少しで良いから寝かせて欲しい。


 なんでこんな所へ来てしまったのだろう。代り映えのしない日々に一体なんの不満があってこんなことに首を突っ込んでしまったんだろう。
 お願いだから、あの閉塞感だけの日々に戻りたい。

 

 やり直したい。

 以前おれは、過去にどういう道筋を採ってもここに辿り着いただろうと書いたことがある。だから、普段これまでのことについて後悔することはそんなにない。
 だけどこの感情は明らかに後悔そのものであって、まるで後少しでいいから生きていたいという見苦しく不合理で、自然な、動物的な情動だ。

 

 

 ここ最近、本当に刺激的な出来事の連続だった。お陰で死にたい理性とは別に、いまも本能があと少し、あと少しを求めている。バカらしくて、滑稽で、思わず笑えてくる。


 だから明日も刺激的な一日でありますように。誰かに話したくなるようなとんでもない出来事が起こって、その顛末を話したい。そして、この部屋に帰りたいと思わせてくれるように。


 今夜も、部屋へ帰ってくることができた。

 そういうことに免じて今日のところは、首を吊るのを止めにした。

夜明けの西成・泥棒市場

 まだ陽の昇らない時間帯、空気は肌を刺すように凍てついている。
 紆余曲折あって数年ぶりに大阪は西成区のあいりん地区にいた。

 

 朝の5時くらいになると、労働福祉センターの周りにはホームレス崩れの日雇い労働者を現場まで連れて行く為のバンがちらほら現れる。
 バンに乗るため参集した日雇い労働者達や近所の貧しい身なりをした老人達が、そこここで道路に座り込むホームレスたちの周りに集まっていた。

 

 ここには「ドロ市(泥棒市場)」というものが存在している。盗品を販売しているのだ。
 ホームレスたちはブルーシートを敷いて、その上に雑然と商品を並べている。飽くまで品物を並べているだけなのであって、売っているわけではないというのが建前だ。
 その様子をケツモチと思しきヤクザが車から遠目に伺っている。
 売られている商品が実際に盗品かどうか知る由もないけれど、要するに出自不明の中古品であることに変わりはない。

 


 賞味期限が切れ本来コンビニが廃棄するはずだったお弁当やおにぎり、海賊版のアダルトDVD、偽ブランドの財布等々、平気で路上に並べて売られている。

 東京の山谷(台東区)にもドロ市は存在しているけれど、そちらのメインはアダルトDVDやエロ本で、どちらかというとネットにアクセスする能力のない老人の性的福祉を担っている印象だった。


 ここあいりん地区での主力商品は処方薬、とりわけ精神薬だ。

 


 生活保護者は、制度上医療費がかからない。必要以上に医者に処方を申請してホームレスに卸せば、そのまま行政に足のつかない遊興費となる。

 レイプドラッグ、処方量では足りない依存患者、西成には指名手配となり病院にかかれない人間もいる。そもそも健康保険なんて支払っている方が少数派だろう。薬の需要ならいくらでもある。



 道に胡坐をかいてブルーシートに座る男に話しかけた。

「シャブ(覚醒剤)ないんですか?」
「その前にお兄ちゃん、手に持ったケータイうらっ返しにしてくれる?」

 スマホを表にして画面を見せた。何も映ってない。
「なんやなんや、いやごめんねぇ、ほら動画とか撮る人いるでしょ、それでね」

 男は相好を崩して釈明した。本当は写真を撮っていた。咄嗟に電源を落としたのが間に合った。肝を冷やした。
「シャブは数年前までは扱ってたんや。でも、今は眠剤くらいまでで頑張らしてもろてるんですわ」

 

 別のブルーシートに移り、試しに薬(デパス)を購入することにした。ワンシート1,200円だという。少し頭の弱そうな60代くらいのホームレス風の男が
「今、値上げしてる、これ安い、あっち(のブルーシートでは)2,000円、ここ1,200円」
 などと言う。1,200円は実際に処方される倍以上高い価格設定だけど、それでも売れるということだろう。千円札1枚と5百円硬貨1枚を渡すと、頭の弱そうな男は困惑した表情になった。
 暫く「あー」とか「うー」とか言った後、思いついたような顔になりヤクザの乗った車に向けて「親方、親方ー!」と叫び始めた。釣銭の計算ができないのだ。
 こんなところでヤクザなんかと関わって面倒ごとに巻き込まれたくはないので、「お釣りとっといてよ」と言って立ち去った。

 ドロ市は犯罪なので、当然のことながら何度も規制されてきた過去がある。だけどどんなにルールで規制したって、日の当たる世界で生きられない人間もいる。

 

 前日、串焼き屋の若い店員に「泥棒市って知ってる?」と尋ねた。
「なにそれ、知らんなぁ。大阪人やってもな、西成には近づいたらあかんって言われんの。あの辺は絶対行ったらあかんって」
 彼らは目立たないことで社会から透明人間として扱われ、こうして警察や行政と折り合いをつけながら黙認されている。

 


 労働センターの中に入ると日雇いの求人が張り出されていて、2階は解放されてホームレスが風雨から逃れる場所になっている。打ちっぱなしのコンクリートは冷たいけれど、それでも外よりはマシなのだろう。皆、毛布にくるまって震えていた。

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 その中の一つの毛布がビタンビタンと飛び跳ねていた。形容しがたい呪詛のような言葉をくぐもった声で呟いている。毛布がめくれると、男が下に何も履いていないのが見えた。

 

「アアア、アアア、アアア、アアア、アアア、アアア!」

 

 よく耳を傾けると、どうもそれは女の名らしいと判った。アイコかアヤコか、そういう類の名前を虚無に向かって叫んでいる。

 明らかに正気を失い、人の姿をした何かとなってしまったが、この男にもおれと同じように誰かを愛そうとした青年時代がいつかあったのだろうか。

 だとすればあるいは、これは来るべきおれの未来の姿なんじゃないのか。そうじゃないだなんて、誰も保証なんてできないだろう。 

 今日も大阪の夜が明ける。
 街にスーツを着た通勤するサラリーマンの姿が増えるのに合わせて、彼らはどこかへと消えて行った。

サンフランシスコの韓国人


 10年前、サンフランシスコに短期留学をしていた。
 そのとき撮った写真を見返していたら、一人の韓国人の女の子のことを思い出した。

 

 名前を彗林(hye lim yoon)といった。
 韓国人らしい顔つきの美人で、いつもヒョウ柄や妙な色味のちょっとどこかエキセントリックな服を着ていた。
 彼女とは同じ語学学校に通っていた。語学学校はペーパーテストの実力別に何段階かのクラスに分かれていたが、彼女はかなり下の方の講座を受けており、おれとは別のクラスだった。

 

 ある日、語学学校の主催するパーティか何かのイベントがあって、隅で一人大人しくしている彼女におれが話しかけたのがきっかけで仲良くなった。
 彼女はかなりの人見知りで英語を話すことはできなかったが、どういう経緯か中国語を話すことができた。
 おれも当時少しだけれど中国語の基本は抑えていたので、中国語での交流だった。
 彼女の首筋には雑な★形のタトゥーが彫られていた。昔付き合っていた男にされたと言っていた。どうもそれが中国の人だったらしい。

 

 彼女は高校を中退していた。
 その後いくつかの職を転々としていたらしいけれど、韓国にいたたまれなくなるような事情があってサンフランシスコに流れてきたのだという。
 手首には傷がいくつもついていた。

 ある日、おれが一人で帰ろうとすると、「ついてっていい?」といって一緒に食事をした。それ以来、何度か一緒に食事をするくらいには仲良くなった。

 

 語学留学なので、もちろん食事が終わったら一緒に英語の勉強をした。
 彼女は中国語を話せたので、「中国語を英単語に置き換えるだけで、ひとまず通じるようになるよ」と教えると、眼から鱗が落ちたようだった。日本から持ってきた新品の単語ノートを一冊あげると、すごく喜んでくれた。
 文法はめちゃくちゃだったけれど、徐々に単語を見ながらであれば英語で意思疎通が取れるようになってきた。

 

 数週間たったある日、「来週おれサンフランシスコを去るんだよね。大連に行くんだ」と言うと、彼女は形容しづらい表情になった。それが妙に記憶に焼き付いている。
 次の日、語学学校でエレベータで一緒になると「だっちゃん、イナイ、サミシイ」と何処で覚えたのか日本語を口にした。

 

 彼女はこれから語学学校に通いながら、アメリカで働くのだといった。日本料理店で働くらしい。ビザのことはよくわからないけど、多分誤魔化してるような気がする。おれが優しかったから、日本人を優しいと思ったと言ってくれた。

 サンフランシスコを去っても、おれのことを支えにして生活している人がいる。そういうことが凄く情緒的で、嬉しかった。
「自分を大事にしてね、Facebookでいつでも連絡して!」と言うと、頬にキスをしてくれた。
 大連を経由して日本に帰国した後も、何度か「i miss you」と連絡が来た。

 

 

 それから1年くらいしたある日、Facebookの友達一覧に彼女の名前がないことに気付いた。
 でも彼女としていたFacebook Messengerのスレッドをクリックすると、彼女の個人ページはまだあった。
 つまり、Facebookの友達から外されてたのだ。
 えぇ~、なんでだろう?!と思ったけれど、TLには彼女の今の生活が映っていた。

 

 そこにはおれの知っている内気で友達のいない彼女はいなかった。
 いかにもアジアンガール然な化粧をして、アメリカナイズされ白人のボーイフレンドとデートする彼女の姿だった。沢山の異国の友達もできたらしい。
 何故かフラれたような、もやもやするような、複雑な気持ちになってしまった。

 

 ただ彼女がサンフランシスコで逞しくやっていることと、多分彼女の中でおれの存在が要らなくなったんだろうってことは嬉しかった。もしよかったら、こうしてこれまで歩んできたストーリーを誰かに語るときに少しだけ「アメリカで最初にできた友達は親切な日本人でね、」みたいに登場させてくれたら、嬉しいと思う。 

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何億年も前につけた傷跡なら残って

 目を覚ますと、いつもの天井だった。
 カーテンから白い光が差し込んで、塵の浮いた部屋の空気を照らしている。
 嫌な汗をかいている。思わずため息をついた。

 また、いつもの夢を見た。



 中学の頃、ネットでは中高生の間で「前略プロフィール」というサイトが流行っていた。
 それは簡単な質問に幾つか応えるだけで自己紹介ページを作成することができるというもので、SNSの存在しなかった当時としては画期的な交流の場となっていた。
 「前略」には、掲示板が付属している。
 自分と気の合いそうな「前略」を見つけたら掲示板に書き込みをして、気が合えばチャットルームに誘導したりhotmailメッセンジャーというLINEのようなサービスで関係を深め、ときにはオフ会をしたりする。
 それがある界隈では一連の流れとなっていた時代があったのだ。

 中学生2年生のおれは、当時もこうしてネットに文章を書いていた。
 ブログではなくいわゆる「テキストサイト」という自分でHTMLを組んで作成するHPで、そのデキはといえば黒歴史としかいいようがない。だけど恐らく同じ方向に中二病を爆発させたと思しき固定の閲覧者が何人かついてくれていた。
 HPの中には「前略」が設置してあって、見てくれた人が感想を書き込んでくれる。おれもその人のサイトに行って、感想を言い合う。
 その中の一人が、マリだった。

「素敵な文章だと思います!」
「今日はオチが弱かったですね。笑」

 そういうコメントを毎日書き込んでくれていた。
 彼女も同い年で、似たような感性を持った者同士で仲良くなって、実際会おうという話になるのに時間はかからなかった。
 彼女は千葉の下房総に住んでいた。

 おれの住む神奈川の町からは、片道2時間半ほどの道程だ。
 電車とバスを乗り継ぎフェリーに乗り、田舎の1時間に1本しか来ない電車を待ってやっと彼女の住む町に到着する。
 それは、中学生のおれにとって大冒険だった。

 初めて会ったマリは、身長が高くて、可愛らしい女の子だった。
 思春期大爆発で顔面がニキビでめちゃくちゃになっているおれを見て彼女がどう思うか不安だったけど、彼女は気にするそぶりもなくおれを受け入れてくれた。
 彼女の住む町をただ歩き回るだけのデートをして、付き合うことになった。

 マリは初めてのカノジョではなかったけど、初めてのカラオケデートも東京観光も、キスもそしてセックスも、全部彼女だった。
 毎日電話とメールをして、月に2回くらい会いに出かけた。遠い町に住んでいたけど、出かけるのは苦にならなかった。色んな話をした。好きな小説の話、勉強の話、公立中学校の粗野な同級生に馴染めない話。
 おれたちは同類で、彼女のことが好きだった。




 月日が流れ、高校二年生になった。
 ある日、軽音楽部の友達がライブをするというので誘われて、住宅街の真ん中にある小さいライブハウスの前で友達と話していると、彼女から電話がかかってきた。

「はいはい、どうした?」

 電話を取ると無言のまま、マリは何も言わなかった。泣いているようだった。

「なに、どうしたの?」

 暫く言葉にならない呻きで泣いた後、彼女が言った。

「D君、わたし、レイプされた」

 その一言で周囲は音を失った。
 住宅街の真ん中を通って東京湾へと繋がる用水路の向こうに、大きな赤い夕陽が静かに落ちていった。覚えているのはその光景だけで、自分が何と応えたのかよく覚えていない。
 だけどおれはそのまま友人のライブに参加したし、フェリーに乗って彼女のもとに駆け付けようともしなかった。

 その日から彼女は人が違ったようになって、手首を切っては写メを送ってくるようになった。
 会う度に狂ったようにセックスを求めるようになった彼女に、心が醒めていくのを感じていた。
 結局、都合5年付き合って関係は終わった。最期は彼女の浮気だった。

 自分は、いざとなったら何でもできる男だと思っていた。
 相手の男は彼女の高校の学生で、居所だって判っていたはずなのにおれは後日復讐の為に殴り込みに行こうとさえしなかったのである。

 こんな思いをしたのだから、それを何かに役立てなければ割に合わない。もしこの世界に神様か何かがいるなら、おれにそう命じてるじゃないのか。そう思わなければ、とても苦痛を受け入れられなかった。
 そして法律の勉強を始めた。法学部に進学し、法科大学院にも進んだ。検察官になろうとした。

 力が欲しい。大事な人を傷つけられないような権力が欲しいと思った。そんなものは存在しはしないんだけど。
 だけどおれの学生時代の半分は、半グレのようなことをして社会に反逆したつもりになってお茶を濁していたのだから、それはやはり歪んだ正義感というか権力志向だったんだろうと思う。
 結局、おれは法律家にはなれなかった。

 こんな何億年も前の話は、いまとなっては思い出して辛くなることさえない。
 レイプされたのは自分自身じゃないし、あれからもっと酷い話は他にいくらだって見聞きした。単に若くて幼い心には、少しだけ耐えきれなかったというだけの話だ。

 けれど未だにレイプモノのAVは吐き気がして観ることができないし、今でも彼女が無理やり犯される悪夢を見る。見たはずのない光景だ。
 その度に、傷跡が消えていないことを確認するのである。


 23歳のある日、彼女と再会してカフェで食事をした。
 司法試験に受かる能力がなくて、法科大学院を辞めることになった。

「ごめん、おれ大学院辞めたんだ。検察官になれなかった」

 そう告げると、彼女は

「D君、あんなの全部ウソだよ。信じてたの、損したね」と嗤った。

 マリは垢抜けていて、美しい女に成長していた。

「もう自分の人生を生きて、幸せになって。」

死にたい。いつからか、そう思うようになった。

 死にたい。いつからか、そう思うようになった。

 自分が恵まれてないなんて思わない。
 そりゃ上を見たらキリがないけど、やりたいように生きてきたと思う。その割には多くの人に愛して貰った。
 そして世の中にはおれよりバカでブサイクで、どうしようもない人間だって沢山いることも知っている。けれど、他人と自分の気持ちには何も関係はない。

 死にたい理由なんていくらでも思いつく。だけど、内面化された苦しみの理由を探して解消してもさほど意味はないのだと思う。
 「生きてることにはきっと意味がある」、「これから必ず良いことがある」みたいに励ましてくれる人もいる。
 だけど、楽観的にはなれない。
 根拠がないからだ。実績がないことを期待するのは欺瞞なのだと知っている。奇跡が起こらないことを知っている。
 30年、生きて判ったことは、どこに行ったところで人間関係に悩み、無能に悩み、明日の食べるものに悩み、大して楽しいことなんてありはしないということだけだ。

 生きていると、色んな面倒ごとがある。
 空気を読んだり、誰も教えてくれなくても確定申告をして、ネットや水道光熱費、明日やらなければいけないタスクについて思考を割かなければ生きてはいけない。
 マウンティングをしなければ尊厳まで奪われ、やられたら報復しなければ次がある。
 その果てに与えられるのが無限の退屈なのだとすれば、別に生きていたいだなんて思わない。生きるインセンティブが無い。

 その上で、幸せとは、愛すべき誰かと気持ちを分け合うことだと思う。だけど現実問題これからの人生は日に日に孤独なものになるだろう。
 老いゆく身体で孤独と怨嗟を抱いて不穏に死ぬのと、健康な身体と魂で自分の人生に「まあこんなものだな」とある程度納得して自死するのでは、後者の方が遥かに人間的で豊かな最期ではないかと思う。死ぬインセンティブならあるのだ。

 それを安易に悟った、甘ったれたナルシストの戯言だというのも解る。
 ただそれはそれとして、毎日寝て、食事をし、歩き、呼吸することが苦しい。
 内面化された無意味なものだとしても、この苦しみは、現実そのものだ。

 きっと一過性なのだと思い込もうとして、薬を飲んでも効果はない。骨の髄まで退廃が身に染みているのだろう。

 「死んだら他人に迷惑がかかる」「死んだら悲しむ人がいる」という話も、後か先か、大か小かの違いとしか思わない。人が一人死んだくらいで世の中が大して変わりはしないことくらい知っている。
 いや、本当のことをいうと、誰かに迷惑をかけたり悲しませたりしても申し訳ないとか、そういう感情が起こる機構が組み込まれてない。本来申し訳なく思うべきなんだろうな、ということは判る。

 人としてどこか大事な部分が欠落しているんだと常々思う。
 だから自分の置かれた状況を考えると、生まれた時点でこの人生の底へ帰結することが決まっていたと思うのだ。
 過去どんな選択肢を採ったとしても、早晩この場所に到達していただろう。そしておれのことを説得することは誰にもできなかったし、救えなかったはずだ。

 人が人を救うことなんて出来はしない。
 人を救うことができるのは、いや自分を救うことができるのは、運命と僥倖だけなのだと知っている。

祖父の友人の話

 

 1950年代の終わり、東京の新橋。
 男は友人から流行らないバーを買い受け、経営を始めた。
 それは後から考えてみれば半分酔狂のような雑な経営で、当然バーが赤字から回復することはなかった。

 男には投機癖があった。
 焦った男は、バーの経営を補填したい一心で先物相場に手を出した。だが、結局のところ逆に借金を大きくする結果になった。
 それは到底返せない金額になっていた。

 当時は民事再生等の債務整理の法整備も進んでいなかった。
 といって男に会社勤めができるわけもなく、付き合っていた女と夜逃げすることにしたのである。


 とある漁港の小さい町、そこは女の出身地だった。
 女はそこで中学校の教師をしていた。そのツテもあって、男は英語の非常勤の職にありついた。
 確かに相場や経営のように派手で贅沢な暮らしはできなかったが、教師二人の暮らしは安定していたし、港町は平和だった。そうして安穏とした日々を送るうち、男の野心も次第にナリを潜めていった。

 ところでその頃おれの祖父は港町で商売をしていたのだが、人生にやりきれないイチモツを抱えていて政治活動に精を出すようになっていた。
 その中で祖父と男は出会うことになる。
 女の父親は港町で市議会議員(のち県議会議員)をしていたのだが、男も色々と世話になっている手前、政治活動にかり出されていたのである。


 そんなとき、ある編集者が男の投稿した「しかかり」の小説に目を付けていた。
 東京にいた頃、男は物語を書くのが好きで、雑誌に投稿するようなことをよくしていたのだった。
 「これは売れる」と確信した編集者は、わざわざ男を探し出し、東京から港町に通って男に小説の続きを書くよう説得した。それは官能小説だった。
 教師という聖職者でありながらそんなものを書くことに躊躇がないこともなかったが、結局男は教師をしながら小説を書いた。

 その小説は、爆発的に売れたのである。

 男は小説を書き続け、売れに売れた。
 一躍売れっ子作家となったことで男の萎れていた野心は爆発し、港町も女も捨て、東京に舞い戻ることになる。

 東京は目黒に豪邸を構えた。再婚もした。
 投機癖も治らず相場は張り続けていたが、それを補って余りある原稿料が入っていたのである。
 だが小説を書き続けるのは体力勝負のようなところがあり、少し嫌気がさして来ていた。

 そこで、有り金をはたいて知り合いの出版会社を購入したのである。
 小説も断筆宣言し、後は安穏と経営者としての暮らしを満喫しようと考えていた。
 だが、結局男に経営は務まらなかった。

 会社は倒産し、男は借金を背負い、財産のことごとくを手放すことになった。
 そしてボロ屋で失意の晩年を過ごすことになり、その生涯を終えた。

 男の名前は団鬼六という。


「お前は、団鬼六に似てるところがあるなぁ」

 きっと見ていて性格的に近いものがあったのだろう、祖父がしみじみとそんなことを言うと、祖母が血相を変えて
「あんたは子供になんてこというの!」と怒っていた。
 なるほど団鬼六はSM小説の大家なのである。

 そして祖父の言うとおり、おれは起業にも先物にも失敗し住む家を追われることになった。
 だけど同時に、おれにも文章を書く趣味があるのである。

 こうしてここにやる方ない思いを書き出すようになって、文章を褒められることが増えた。その度に、新橋から逃げ出した団鬼六のことを思い出す。
 あのとき鬼六は30歳、そしておれも30歳なのである。
 未熟だということはわかってはいるけれど、書き続けていれば誰かが自分のことを見つけてくれるかもしれないと思うようになった。
 何者かになるチャンスが巡ってくるかもしれない。
 
 そんなことを少し、ほんの少しだけど、期待してしまう。

 

見捨てられた町で。

 神奈川県川崎市の海辺の工場地帯に、その集落はある。

 第二次世界大戦中、日本第二位の鉄鋼業JFEスチール(旧日本鋼管)は、急増した武器需要に対応するため労働人夫として半島から朝鮮人を大量に採用し、日本に連れてきた。
 いわゆる、徴用工である。
 JFEは徴用工に工場のある敷地の一角を与え、彼らはそこにバラックを建て、寄り集まって生活を始めることになった。

 そして大戦が終わり、朝鮮人徴用工の労働力がもはや必要ないと判断したJFEは、彼らを敷地から追い出そうとした。
 だが、彼らが出て行くことは無かった。ほかに行き場がなかったのである。
 元々川崎の工業地帯は「部落」のある土地で、稲川会系のヤクザの根城となっている。徴用工の中には暴力団の構成員となった者も少なくない。JFEや自治体が法律を盾にとっても、抵抗は激しかった。
 こうして、彼らの不法占拠が始まった。

 そして未だに問題は解決しておらず、今もJFEの敷地の中にその集落は存在している。

 池上町。 

 この町のことを知ったのは昨年のことだ。
 とにかくお金が無くて、もう家賃を払うこともしんどかった。
 だけど関東圏から逃げ出すわけにもいかず、土日は相場が無いので知り合いから現金手渡しで受注した事務作業や軽作業を手伝って飯代の足しにするありさまだった。
 そんな折、軽作業で一緒になった男から安く住めるドヤがあるという話を聞きつけ、下見にいくことにしたのである。
 とはいえ本気で住もうと考えていたわけではない。

 ただ、人生の終着駅を見てみたいと思った。
 自分の人生は十中八九行き倒れなのだろうけど、その行きつく先を見てみたいと思ったのである。 

 町に到着すると、独特の張りつめた空気が漂っていた。海辺なのに静けさに包まれていて、空気が乾いているのが不思議な感じがする。
 ただ大阪の西成や尼崎とは違い巡回のパトカーはいないし、ひと気もほとんど無い。

 ただ、暗い室内には誰かがいる気配はある。
 建築基準法の防火水準なんてお構いなしの細い路地には、洗濯物がよく干してあって、そこからときおりヌッと手が出てきては、何枚かはぎとると窓がピシャリと閉まる。
 独特の古い建物、バラック、文化住宅。町にはゴミが散乱し、廃墟が立ち並ぶ。錆びてひしゃげた自転車がそこかしこに山積みにされていた。


 だが、古い建物はいずれ風化する。建物が倒れた後には、JFEがバリケードを作り新たな不法占拠を防いでいる。


 新しい建物もある。もちろん接道義務も完全に無視しているけれど、ここは行政の手の入らない町だ。そこには土地を時効取得した者の開き直りがある。
 ただそういう建物には必ず「防犯カメラ設置中」のシールが貼ってある。それだけ"出る"のだろう。

 町を歩いていると作業服を着た男がタバコをふかしながら黒塗りの高級車の横に立っていて、姿を見るなり

「お兄さん、気ィつけて」と言った。

 周辺には、ホルモン焼肉屋がいくつもあって、町には焦げた臭いが漂っている。
 ホルモンとは「放る物」、つまり元々ゴミとして捨てられていた部分のことだ。
 それを拾って持ち帰り、焼いて食うのはいかにも部落の文化だ。
 近隣には屠殺場があるので、きっと昔は調達にも困らなかっただろう。

 

 不法占拠の一方で、個人的には、彼らのことを責める気にはならない。
 上下水道や電気等インフラの整備も本来JFEの私有地なので完全ではない。工場地帯の常で空気は汚れているし、公害もあった。
 今でも近隣にはコンビニさえ無い。生きて行くのに、快適というにはほど遠い場所だと思う。

 母国を離れ差別を受け、男はヤクザになり女は「ちょんの間」に通い、しかしそれでもこの土地にしがみつかなければならない彼らの生き方を思うと、それは相当しんどかったろう。
 おれならきっと、どこかで生きることを諦めてしまっていたと思う。

 

 司馬遷の「史記」に、こんな話がある。
 中国秦代の宰相李斯が若かりし頃、便所のネズミが常に人や犬におびえ、汚物を食らっているのを見た。その後、兵糧庫のネズミが粟をたらふく食べ、人や犬を心配せず暮らしているのを見た。
 そして李斯は「人の才不才などネズミと同じで、場所が全てだ」と悟り、後者になろうと決心したという話だ。

 徴用工の子どもたちの多くは、もう池上町を離れて暮らしている。残っている人の多くは「どうにもならなかった人たち」で、この町はいずれ消える運命にある。

 

 おれみたいなスカタンが生きていられるのは、兵糧庫に生まれたからに他ならない。

 だけど、ただ都会で漫然と食って生きてることに価値を見出せない欲深なネズミは一体どこへ行ったら良いのだろう。

 

 見捨てられた町で、所在なく闇の中に立っていた。 

ここじゃない何処かの国に、希望なんてあるんだろうか。

 先日、某企業から招聘を受けて上海に行ってきた。

 上海に到着する飛行機から外を眺めていると、夕日で真っ赤に染まった海に点々と風力発電のタービンが突き刺さっていて、まるでエヴァンゲリオンのLCLの海に刺さった十字架のようで、幻想的な光景だった。

 空港から出ているバスに乗り込むと、上海の街並みが車窓を流れて行った。ビルの光がキラキラしていて、寧ろ東京よりも都会然としているように見える。
 他都市と違って上海は空気も澄んでいる。

 中国人は上昇志向が強いから、当然農村等経済的にビハインドの社会に生まれた者は巻き返しを図るべく都市へ向かおうとする。
 だけど中国人の居住移転の自由は制限されているので、生まれが農村だと中々貧困から脱することができず、経済状況が連鎖する。日本も金持ちの家庭に生まれるか貧乏な家庭に生まれるかで与えられる状況には雲泥の差があるけれど、命までは取られない。中国では取られる。そういう差があるのだという。
 だから農村生まれの中国人の友人は、上海で働くことを「全中国人の夢だ」と言った。
 その気になればおれはそんな夢の土地で働くことができる。日本という国に生まれた自分の幸福を思う。

 今後、日本が国家として中国を打ち倒すことは無いと思う。
 高齢者や障碍者みたいな弱者を容易く棄民するだけのダイナミズムがあるからだ。
 だけどそれは個人としての勝利とはまた別の話なのだと思う。

 勿論、長期的にはそれさえどうなるかわからないけれど。

 

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 これからどんどん膨張していくことが見込まれる国の中心都市だけあって、街には色んな国の人たちが色んな国の言葉で話して、色んな国の料理を食べながら歩いている。
 先進的なのに、一方ではジャンクパーツや海賊版みたいな違法すれすれの商品を取り扱う電気城がそこかしこに点在していて本当に魅力的な街だと思う。
 東京で暮らすのと変わらないくらい便利だ。

 だけど、それじゃあ東京で働くのと一体何が違うんだよ。
 東京より低い給料で働いて、東京より劣る暮らしをして、だけど衰退国の日本人であることで仕事上の優位性も無く、言語だって当然不自由で、それでその後何がどうなるっていうんだろう。

 東京での暮らしは心を擦り減らす。正直もう嫌だ、限界だと何度も思ってきた。だけど他の国に行ったって希望なんてあるんだろうか。
 数年中国で、ほかの国で生き永らえて、その後契約を切られて日本に逃げ帰ってきたとして、そこに待ってる生活は今よりもっと酷いんじゃないだろうか。そのときには若ささえ失っている。
 結局、おれが悪いんだろうか。日本でさえ生きられないような人間は、由来この世界に向いてないんじゃないんだろうか。

 ただ見えない明日へ踏み出すのが恐ろしい。何も持っていないくせに、死んでもいいと思っているくせに、失うものの大きさに尻込みして、その日も目の前にあったかもしれないチャンスを見送った。

 

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宗教勧誘についていった

「君、だっちゃんだろ?」

 大学の図書館の前で携帯を弄っていると、男に話しかけられた。長身で爽やかで、清潔な身なりをした如何にも好青年という出で立ちで、知らない顔だった。
 どちらさまでしょうか、と応える前に男が続けた。

「わかんないか。S法律研究室の上田っていうんだけど、上級生のことは流石に知らないよね」

 男はおれの所属している研究室の名前を口にした。先輩付き合いのある方ではなかったので、なるほど顔を知らなくても当然だと思った。

「あ、お疲れ様です。」

 別段忙しいわけでもなかったので、差し障りのない会話に付き合った。教授のこと、授業のこと、試験のこと。
 それ自体は上辺を滑るような会話の内容ではあったけれど、上田君が真面目に勉強してきた4回生であり、魅力的な容姿と喋り方をする先輩であることは十分伝わった。
 上田君は、卒業後就職ではなく法科大学院へ進学をするらしい。それはつまり弁護士になりたいということだ。既に法科大学院には合格していて、時間を持て余してるのだと言った。

「前から君と話したいと思ってたんだよね。今度飯行こうよ、明日の夜とか空いてないかな?」

 院進はおれも進路として考えていたので、彼の話には興味があった。
 折角気のよさそうな先輩が誘ってくれてるのだし、良い情報収集の機会だと思って応じることにした。
 ガラケーの赤外線通信で連絡先を交換し、その日は別れた。

 翌日、待ち合わせの時間に図書館の前に行くと上田君が「よ!」と手をあげた。先に待っててくれたらしい。

「お待たせしちゃった感じですか?」
「いや、そんなことないよ。じゃあ、これ乗って」

 彼は図書館の前に停めてある軽自動車を指さした。
 大学は都心にあるので、飯を食う場所なんて徒歩圏内にいくらでもある。それに、車に乗って何処かへいくなんて話は聞いてない。

「え、車乗るんですか?」

 と訊くと

「そうだけど、嫌?」

 とさも何でもないことのように聞き返す。
「申し訳ないんですけど、今日は帰らして貰いますわ」と言おうと思って、少し考えた。
 普通なら、事前に断りもなく車に招き入れるような誘いには乗るべきではない。悪い話なんていくらでもあるのだ。それはわかる。
 だけど、大学にはちょっと考え方のおかしな善人なんていくらでもいるし、仮にトラブルだったとして自分に失うものがあるのかといえば精々歯の一、二本程度のものだろう。
 いずれにしても、どうやらこれは面白いことになりそうだと思った。
 そう思ったのなら、そちらを選ぶべきだ。若かったので、そういう無謀さがあったのである。

「いや、何でもないです。行きましょう。ぼくはお酒飲んでもいいですよね」

「うん、じゃあ荷物、後ろに載せなよ」

 そのときおれは参考書の詰まった大きめのカバンを持っていたのだけど、何となく申し出は断り、荷物は後部座席に置かずに胸に抱えて車に乗ることにした。後でその判断に救われることになる。

 車が走り出し、夜の東京が横目に通り過ぎて行った。

 他愛ない話をしながら数十分車を走らせると、上田君は板橋本町にあるガストの駐車場に車を停めた。
 ガストなんてどこにでもあるのに、なんでここにしたんだろうと思った。
 適当に料理を頼みつつ上田君と話をしていると、

「実はさ、見て貰いたいものがあるんだよね」

 と新聞を広げ始めた。そらきた、と思った。機関紙のような体裁の新聞の一面には、「顕正新聞」とあった。

「ああ、はいはい、宗教勧誘ですか?」

 直球で訊くと、「いや、違うんだわ」と言う。あらそうなのか、じゃあ何の話なんだろうと思っていると、上田君はキラキラした目でおれの目をしっかり見据え、

「宗教だとか、そんなレベルの話じゃないんだ。これは世界の法則の話なんだ!」

 と言ってのけた。もっと悪いじゃないか!あたかもこれは秘密の話なんだけど、という口調で喋るのにイライラした。

「まず聞きたいんだけどさ、君は幸せになりたいと思う?」

「ええ、そりゃ、まあ」

「うん、無理だね!」

 いきなり何を言うんだ、コイツ頭におがくずでも詰まってるのか。それでも変わらず彼の眼は輝きを失ってない。コイツ、マジだ。これはマジの目だ。

「簡単に説明するとね、ぼくらを取り囲むこの大いなる宇宙からは幸せ光線が、あっ、これは波動って言ってもいいんだけどね、そういうのが下りてきてるんだよね。」

「......。 あ、ハンバーグ食べていいですか?」

「いいよいいよ、食べながら聞いてくれる?だけど君の頭の上にはこう、わかるかな、ブラインドが乗ってるんだよね、これがね、君の邪念なんだよね。勘違いしないでほしいんだけど、それは別に君が特別悪いってことじゃないんだ、それが普通なんだよ?でもさ、君がハンニャシンキョウを唱えるとね、これが開くんだよ。パーって。するとね、幸せ光線が下りて来るんだよ!」

「もう帰って良いですか?」

「え、なんで?この辺駅ないよ。送ってくよ。何か質問ない?」

「それで、上田君は幸せ光線が下りてきてなんか良いことあったんですか?」

 上田君の目がキラッと光り、よくぞ聞いてくれましたという表情になった。

「俺、小学生の頃、身体が凄く弱くてさ、イジメられてたんだよ。親父は事業に失敗して借金するし、母親は病気するし、本当に災難だったんだよ。そしてそんなときにね、顕正会に出会ったんだ...」

 そこからは、彼はいじめっ子を成敗するし、父親の事業は持ち返すし、母親の病気は快癒するし、幸せ光線は正に万能の効能を発揮することになる。雑誌の胡散臭い広告みたいな話だな、と思った。あんまり真剣に聞いてなかったけど、彼は自分の半生に関する長い演説を終え、涙ぐみながら言った。

「つまりさ、まあこんなところで話してるよりも本部を一度見て貰った方が話が早いと思うんだよ。どう?まだ時間ありそうだし、チラっと見に来なよ」

 本部に来いだと。それは悪の枢軸に乗り込みにいくようなものじゃないか。確かに当初の目論見通り面白いことにはなったけど、流石にアジトに乗り込むのはまずいんじゃないのか。
 だけどここでやはり考え直した。こんな機会はそうそう無い。もうちょっと見てみたい。この世界を覗いてみたいと思った。ヤバくなったら逃げればいいのだ。

「うーん、まあちょっとだけなら良いかなって感じです」

「よし、じゃあ善は急げだね」

 上田君は荷物をまとめ始めた。おれはもう食べきっていたけど、上田君は料理に殆ど手をつけてない。

「食べなくていいんですか?」

「ん?うん。いいのいいの、本当はお腹いっぱいだったんだよね。君が食べる?」

「いや...」

 上田君はレジの会計をしながらこちらを振り向いて言った。

「君の分、700円だってよ」

 奢ってくれないのかよ!とんだケチな仏もいたものである。
 おれ達は車に乗って、再び夜の街を走っていった。

 上田君は慣れた運転で軽快に夜の街を軽自動車で飛ばしていった。

「運転よくするんですか?」

「ん?ああ」

 助手席から適当に話しかけても、上田君の返事が芳しくない。何事かに気を奪われているのがわかる。気が急いてるのだろうか。
 信号で車がとまると、上田君が口を開いた。

「そうそう、そういえばさ、ダッシュボードの下に用紙入ってるでしょ、それに記入して欲しいんだよね」

 上田君が手を伸ばしておれの足元のダッシュボードを開けると、何枚綴りかの用紙がバインダーと一緒に入っていた。
 上の数枚の用紙は内側に織り込まれていて、最後の一枚の下方にだけ名前と住所の記入欄があった。車内が暗くて良く見えなかったけど、2枚目の文字が透けていて、「申請書」と書いてあるのが判った。
 間違いなく名前を書いてはいけない類いの書類だと思った。

「今日は見学いくだけなんで大丈夫です」
「いや、大丈夫じゃないんだよね。あと学生証だけ預からせてくれないかな?」

 おれの行っていた大学の学生証には、住所の記入欄がある。当時おれは一人暮らしをしてはいたけれど、そこには実家の住所を書いていた。そんなもの流石に預からせるわけにはいかない。

「それはまあ無理ですよね」
「いや、無理って言うかさ。無理じゃないよね。俺もこれから仏間に君のことを入れるわけだけど、それはやっぱり神聖な場所なんだよ。そんな所にどこの馬の骨ともわからない人を入れるわけにはいかないじゃない」
「でも上田君、おれ後輩ですよね。」
「それはそうだけど別に学生証確認したとかそういうわけじゃないじゃん、万が一ってこともあるよ。もし悪意を持った人を入れたら、それは大変なことなんだ」
「いや、無理ですね」
「いやいやもうダメだよ、だってもう着くもん、ダメダメ」

 そういうやりとりをしていると、車が信号で止まった。
 もうここが潮時なんだろう。ドアに手をかけて開こうとすると、ガチャン!と音がして上田君が運転席側のカギを閉めたのが判った。だけど、おれがドアを開く方が一瞬早かった。すぐにシートベルトを剥がして外に出た。
 車外に転がるように脱出すると、グイ!と強く引っ張られた。振り向くと、上田君が運転席から手を伸ばして、おれの服の袖を掴んでいた。

「てめえドコ行くんだよ!!」

 もう、さっきまで会話していた優しい先輩の顔はなかった。
 鬼の形相をした狂信者がそこにはいた。

 手を振り払い、住宅街を走った。
 大きな荷物が邪魔をして早く走れない。だけどこれを置いて行ったら上田君に拾われて個人情報を知られてしまうから、置いて行くわけにはいかなかった。
 後ろを振り返ると、上田君が車から降りてこちらを見ているのが判った。追ってくる様子はなかった。

 近くにいたタクシーを捕まえ、「最寄り駅にお願いします」と伝えた。タクシーの後ろを何度も確認したけど、上田君の車が追ってきているのかどうかは判らなかった。

 最寄り駅のときわ台に到着すると上田君から電話がかかって来たけど、電話は取らずに着信拒否にした。まもなく「今どこいるの?」とメールが入ったけど、そちらも着信拒否にした。

 駅のホームに電車が入って来て乗り込んだ。ひと気のない電車が妙に寒々しくて、居心地が悪かった。

 そしてそれ以来、上田君と会うことは二度となかった。
 学内の色んな人に確認したところ、彼に勧誘された人はおれの他にも沢山いるらしいということが判った。

 後日、「こんなことがあってさ~」と創価学会に入信している友人にことの経緯を話すと、

「それは災難な目に遭ったねぇ。顕正会の連中は正直評判悪くてさ、おれ達と出会うとラップバトルになるんだよ」
「ラップバトル?!」
「そうそう、どっちの教義が正しいかバトルになるんだよね。だからあいつらには関わらないのが吉だよ!」
「そうなんだ...」
「でもさ、波動の話とか聞いてたら、俺達と教義的には同じなんだね~」
「そうなんだ...」

 そうなんだ...。

「いやうん、まあ別にいいんだけど友達を勧誘するのだけはやめてね?」

「え~!なんでだよ~」

「なんでだよ~、じゃね~だろ!!」

 あれから10年経った。
 ふと思い出して彼の名前で検索すると、上田君は弁護士になっていた。

 「弱い立場に立たされた方の味方になりたい」と笑顔で語る彼を見て、あの日の寒々しい気持ちが蘇ってきた。

出会い系のサクラだった

 10年前、紆余曲折あって金欠になった。
 知り合いのツテで仕事を紹介して貰えることになり、代官山駅近くにあるビルに出向いた。
 三度もインターフォンと監視カメラのついた扉を経て、地下の一室に通された。
 カーペット張りの床に、長机と椅子が幾つか置いてあるだけの無機質な部屋だった。暫く待っているとよれたスーツの男が現れ、全身を見据えて言った。

「A社が人足りないっていうからそこのお手伝い頼むよ」

 そして集合場所と日時だけ口にして部屋から追い出された。

「バックレるときは先に連絡くれよ」

 背中から聞こえ、ドアが閉まった。問答するのに、2,3分もかからなかった。
 当日、集合場所に指定された渋谷駅前のモヤイ像で待っていると、定刻より15分ほど遅れて代官山にいたスーツの男が現れた。「会社の住所だけ知られても困るべ?」と男は笑い、肩をすくめて見せた。
「早速一人バックれちゃったみたいなんだよ」

 駅から数分のところにある、桜丘町のボロい雑居ビルに連れていかれた。ビルの横看板やエレベータ横に掲示されている会社名は白塗りされていて、一見入居がないように見える。「なるほど、こうやってカモフラージュしているんだな」という、妙な納得感があった。

 A社は当時、雨後の筍のように増えていた出会い系サイトのひとつだった。渋谷はまだ再開発前で、宮下公園にはホームレスのブルーシートの屋根を張った段ボールハウスが軒を連ねていたし、どういう経緯か知らないけれど、桜丘町界隈の雑居ビルにはそういうアンダーグラウンドなビジネスを生業にする業者が集まっていて、町全体が素人には近付きがたい雰囲気を残していた。

 雑居ビルの会議室に通されると、「所長」が出てきた。
 30代前半で、一見ホストのようだがバックには偉い人がついていて、相応の修羅場をくぐってきているのだと聞いた。

「君はヤクザの事務所に来たと思ってるんだろうし、そう見られて仕方ないと思ってる。やってることは頭がおかしい人間相手のカスな銭拾いだし、働いてる奴はチンピラばっかで他に行き場なんてない。でも出会い系はIT系の広告屋家業だ。クリーンなビジネスにしていけると思ってる。いずれ新卒も取りたい。君はそのテスターだな。まあ、わからないことがあったら何でも聞いてくれ」

 A社の運営するサイトの使い方は、いわゆる出会いアプリと変わらない。
 メールアドレスと電話番号で無料会員登録をし、自分の写真とニックネームをアップロードし、プロフィールを書く。すると登録している女の子の一覧がズラッと出てきて、気になる女の子に話しかける。女の子が応じたらそこからサイト(アプリ)上で会話が始まり実際の待ち合わせをする。
 登録すると「ポイント」が与えられ、女の子に話しかけたりメッセージを交換する度にポイントは減っていく。ポイントが0になっても女の子と話したいときは、クレジットカードやコンビニのプリペイドカード等でポイントを購入(課金)することができる。

 当時は今のように出会い系サイトや出会いアプリに寛容なイメージはなく、登録者の男女非対称は8:2程度と尋常ではなかった。
 だけどそれをそのままにしておいては、大半の男性登録者が誰とも会話できずに終わってしまう。
 そこで魅力的な女性を演じ、「もっと話したい」と思わせるような存在、すなわちサクラが必要になる。

 所長に担当部署に案内され、課長以下の先輩に挨拶した。
「おう、よろしくな!」と手をあげた若い男の太い腕に、トライバル柄のタトゥーが見えた。

 そして、サクラとしての日々が始まった。

 出会い系のサクラは基本的に4つの部署に分かれている。①新規課金、②継続課金、③重課金対応、④女性客対応だ。

 ①新規課金は、魅力的な女性を演じて男性にサイト上で話しかけ、彼らのポイントを消耗させ、初回の課金(数千円~)に持ち込む。
 ②初回の課金をした段階で、彼らは継続課金の部署に回される。
 一度でも課金をした男性は、サンクコストが働くのか2回目以降も課金をする確率が高い。継続課金は、ゴネたり甘えたりして可能な限り男からお金を搾り取ろうとする。一人数万、十数万とれれば十分だ。
 因みにこの部署は元キャバ嬢、元AV嬢等といった実際にも甘え上手の本物の美人が担当することが多い。
 ③そして女に金を絞られていくうちに、大抵の男は何かに気付いて出会い系サイトを引退していく。
 しかし、その中には段々金を払うことそのものに快楽を覚え、狂ってくる男たちがいる。彼らはときに借金し、子供の養育費に手を付け、人生を破滅させても一度も出会ったことのない魅力的な女に課金しようとする。
 一人頭数百~数千万円取れることもあり、①②の部署は③の客を探す為のスクリーニングの為に存在しているといってもいい。
 そして④女性客対応。
 女性は男性と異なり課金へのガードが固く基本的に課金しようとしないのだが、一度課金をしたら最後、かなりの確率で③まで成長し、正気では考えられない額を投じるようになる。
 ただ母数が余りにも小さいため、①~③の全行程を丁寧に行うプロパー部署が設けられているのである。

 同じビルのひとつ下のフロアには、同じ経営母体でいわゆるオレオレ詐欺のようなことをしている連中がいると聞いたことがあるけれど、実際に会ったことはない。
 ふたつ下のフロアには小中学生向けの超進学校向けの学習塾が入居していた。とんでもない学習環境だ。
 畑ばかりの田舎から上京して間もなかったおれは、都市というのはそういう光と闇が同居しているのが通常なのだ、と寧ろすんなりそういう状況を受け入れていた。

 おれが配属されたのは、①新規課金だった。

 教育係としてついたのは、高尾マンコという女の先輩だった。
 高尾が名字、マンコは芸名みたいなものだ。おマンコさんと呼ばれていた。

 マンコさんの手には、むかし彫師志望の男に彫られたという不細工な顔のキューピッドが弓を弾いていた。
「やっぱ、ちゃんとプロにやって貰わなきゃダメだわな!」
 あっけらかんと笑っていた。今思えば22、23歳の、少女といっていい年齢だったはずだ。当時のおれには随分大人に見えた。

 勤務は夜21~翌9時と12時間の長丁場だったから、ときどきときに大学の授業と両立しきれずウトウトすることもあった。するとマンコさんはおれの股間をマッキーでペシペシ叩いて、「何しとるんか!!」と怒鳴るのだった。
 逆に仕事で成果を上げると、「お前、よくやったなぁ」などと言っておれの股間を撫でた。

「おマンコさん、それ頭じゃないんですよね、亀頭なんですよ。頭こっち、ほら顔ついてるでしょ!」

「うわ本当、なんこれブッサ!!」

 そういうコントみたいなやりとりをするのがいつものことだった。職場で最年少だったからか、可愛がって貰っていた。あまりチームや組織で動く経験をしてこなかったおれには、そういう年上の人達とのやりとり一つ一つがくすぐったかった。

 ある日、「だっちゃんって弁護士目指してるって本当なのか?」とマンコさんが尋ねた。
 訊くとマンコさんの妹が、バイト先で客に殴られ腕を骨折したのだという。殴った男の客は逃げてしまった。
 妹さんが上司に「警察を呼びたい」というと、「客が逃げた以上現行犯ではないし、警察呼んだらクビだよ」と言われて泣き寝入りしたのだという。

「まあ、どうにもならんか、どうにもならんよな」

 彼女は諦めることが当然みたいに呟いた。

 マンコさんや妹さんのように、警察みたいな公的な権威そのものに不信を抱くような人生を送り、自分の存在が違法なのかどうかさえ直視することを避けて暮らしているような人たちは、いざというときに誰にも助けを求めることができない。

 理不尽な扱いを受けても、「ところでお前は他人を訴追していい人間なのか?」と問われてしまったら、負い目のある人間に返す言葉はないからだ。
 誰も手放しで味方になんてなってはくれない。
 所長の言っていた「どこにも行き場がない」とは、そういうことなのだと知った。

 もちろん良い関係ばかりではなかった。
 働いているのは半グレばかりだし、当時のおれは常に勝ち気だったから、ほんの些細なことで言い合いになることは少なくなかった。特に、腕にトライバルのタトゥが入った先輩・高木さんとはよく争った。

 高木さんは地元の暴走族を引退した後、大学を卒業し高校教諭を目指しているという経歴の人だった。卒業した高校の社会科の教諭を目指し、腕の刺青を消す資金を貯める為にバイトをしていた。要するに面倒なメンタルの持ち主なのだ。

 ある日、何がきっかけとなったのかはもう忘れてしまったけれど

「なんだテメエその態度ナメてんのかコラ!」

「は?ナメてねえよ、クソ。何なんスか?あんたの言ってること全然意味わかんねえよ」

 そういう応酬を事務所で演じてしまった。
 高木さんはおれの首根を掴み、「てめえブッ殺すぞ!」と怒鳴るや、顔面をフルスイングでぶん殴った。

 自分より一回りも体躯のある巨漢に顔を殴られたのは流石に効いて、床に膝をついた。けれど当時のおれもさるものだった。
 高木さんにタックルをかまし、床に押し倒して馬乗りになった。そして手に掴んだボールペンを高木さんの首に突き付け叫んだ

「てめえ、二度とカタギに戻れない顔にしてやるからな!」

 絞りだした迫力の無い怒鳴り声だったが、職場は水を打ったように鎮まり返った。高木さんも反撃されると思ってなかったようで当惑した顔をしていたけれど、どちらかというと「あ、こいつやっちまった」に近い空気だった。

 気付くと天地が引っ繰り返っていた。
 やりとりを見ていた別の先輩が、おれの顔面目掛けて蹴りをかましたのだ。

 そこからはリンチだった。数人の先輩に暫く蹴りを入れられ続けた。目の端で、高木さんが激昂して何か喚きながら他の先輩に抑えられてるのが見えた。

 蹴りが止み、隙を見て立ち上がろうとする度に蹴りを腹に入れられ続けた。和柄のくるぶしまである刺青で、その足が昨朝仕事終わりに酒を一緒に飲んだ先輩のものだと判った。
 痛みで全身が麻痺して動けなくなった頃、解放され会議室にひきずられていった。
 勿論、そこからは課長からの大説教である。

「あのね、本当こういうの勘弁してくれや。暴力とかダメでしょ?」

 先に高木さんが、と思ったけれどそれを口にする体力は残っていなかった。

「まあいいや。もう今日は帰って良いよ。でもちゃんと明日も来いよ」

 自分の荷物を渡され、会社から追い出された。

「あとね、カタギうんぬんって言ってたでしょ。ああいうの本当やめて。君はこれから先があるのかもしれないけど、おれ達はここで頑張るしかないんだからさ」

 課長の表情を見て、本当に自分の言葉を後悔した。
 退社して暗い気持ちで駅まで歩いた。季節は夏だったけど、イヤに寒かった。酷いことを言ってしまった。明日出社したら謝ろう。
 重い体を引きずり、当時まだ工事中だった地下鉄の入り口まで辿り着くと、シャッターが閉まっていた。
 時刻は2時頃、当然終電なんて無くなっていた。

「あのクソ課長、職場の奴ら、やりやがった!」

 頭に血が上り、当時住んでいた表参道方面に歩いて帰った。コンビニのゴミ箱を見つける度、蹴りを入れ、クソが!等と喚いてみた。

 当時のおれに知性もクソもありはしない。ただ若さと体力だけが無限にあった。

 翌日出社すると、みんな普通に接してくれた。そういうもめごとには慣れている様子だった。当然、それも異常なことだった。

 サクラは常に数人の「キャラ」を操る。キャラにはそれぞれ細かい設定が用意されている。例えば、女子大生20歳・非処女・元カレがDV男で男性不信気味・実家が太い・身長160cmといった具合だ。
 完璧ではなくどこか欠陥のある設定が「おれにもイケるのかもしれない」と思わせる魅力的な誘因となり、人気を獲得する。

 キャラはリアリティのため、数週間単位で「入れ替え」が行われる。当時、おれも何体か作成した。
 写真は適当な個人ブログから拝借して、反転くらいの簡単な加工をするだけだし、細かい設定も知り合いの実在する女の子のことを思い出して似たようなストーリーにしたてれば良いだけ、創造力なんて必要ない。

 出会いを求める人間の会話のパターンなんてそうは変わらない。
 基本的にサクラは定型文、テンプレートのコピー&ペーストをメインにやりとりをする。テンプレはキャラごとに状況に応じたものが数種類用意されている。例えば、一通目のメールはこんな感じだ。

「初めまして?? メールOKしてくれてありがとうございます!是非お話して、仲良くしてくれたら嬉しいです。ユカっていいます!(ユーザ)さんのことは、何さんと呼んだらいいですか?★」

 単に名前を変更するだけのテンプレなので、ラリーを重ねる度に会話にズレや不自然な点が生じてくる。だけど出会いを求める男たちは必死なので、勝手に脳内で補完してくれる。そもそも異性との会話を違和感なく継続できないような男だから出会い系なんてやってるのであって、まともに女に相手にして貰えること自体、彼らにとっては異常事態なのだ。
 そういうテンプレの中でも、どういう会話にでも使え、しかも思わず男が返信したくなるようなものを「殺し文句」と呼んだ。

 それを上から順番にポンポン放り投げていけば、男の「ポイント」が減っていって、やがて課金しなくては会話ができない状態となる。
 その後は一定時間ごとに「どうして返事してくれないんですか?私には(ユーザ)さんしかいないんです!」という内容のメールで追い込んでいけばある程度の確度で課金となる(この作業を追い掘りという)。

 当然、殺し文句は相手のポイントがある程度減った状態でなくては効果を発揮しない。
 相手のポイントが大量に余っているようなときは、複数のキャラクターで誘い込みポイントを十分減らした後で本命と思しきキャラの殺し文句で課金に持ち込む。

 逆に言えば一人のキャラにしか目移りしなかったり、あまりにも場違いなことを発言するような相手には、その場でメールを手打ちしなければいけない。大抵の男は色んな女に目移りするから、そういう状況になるようなことはあまりないけれど。

 ある日いつものように数人のキャラでテンプレを男達に送り付けていると、一人の客に違和感を感じた。
 その客・川島は、「アイ」にしか返事を返していなかったのだ。
 アイは、おれが作ったキャラだ。鳥取から上京してきた22歳、ふつうのOL。会社に馴染めず、友達もいないし、彼氏ができても遊ばれて終わる、ネクラでオタクで細身で、料理はうまい。
 写真が可愛かったので人気のキャラではあったけど、決してエースとなる設定ではなかった。

 それでも川島は、他のどんな魅力的なキャラにも靡かなかった。未だ登録したばかりとみえ、ポイントも大量に残っていた。この状況で殺し文句を使い切る訳にはいかない。以後の会話を全て手打ちに切り替えた。
 ラリーを続け見えてきたのは、川島の寂しい普段の生活だった。
 28歳で、おそらく仲間と撮った楽しそうな表情の写真もないんだろう、証明写真のような顔はいかにも冴えないサラリーマンという感じだった。
 田舎から上京し、渋谷界隈で一人暮らしをしていた。理系の大学を卒業したが出世競争からは外れ、といって趣味も無く、ただただ、淡々と日々を送っていた。
 こうしてまだ会いもしない女に心を許し「出世競争から外れた」ようなことを容易く打ち明けてしまうところがいかにもモテない感じだ。
 彼は普通に知性のある文面でやりとりができるし、別に顔だってまあ良くはないけれど、悪すぎるというようなことはないように思えた。きっと悲しいくらい真面目で、誠実で、それゆえ一人に耐えきれないのだろう。そして「アイ」の設定に共感し、好きになってしまったのだ。

「おい、だっちゃんよ」

 課長がおれを見た。

「アイのとこにいる川島、これ絶対イケるだろ」

「はい。もうそろそろ待ち合わせ設定するとこです」

 課長が腕を組んで言った。

「なあコイツ、渋谷に住んでるんだろう、アポ取れよ。道玄坂に呼び出して、明日観に行こう」

 高尾マンコさんは「私めんどいからパス」と言ったけど、高木さんは「久々に遠足?!良いね~!」と乗り気だった。
 どうやらこうして数か月に一回くらい、客が待ち合わせに右往左往して課金する様子を皆で観察しに行くイベントが発生するらしかった。
 他部署の仲の良い先輩らも、「俺達もその日は暇そうだし付き合って良い?」と乗ってきた。男6人の大所帯となり、川島とアイは道玄坂にあるコンビニで待ち合わせした。

 22歳の男慣れしない女の子が、ホテル街ど真ん中の道玄坂に待ち合わせなんてしないことくらい少し考えれば判りそうなものだ。けれど、そういうことが分からないから、川島はずっと孤独なのだ。

 当日、夜21時半頃。
 道玄坂のネオンの中、皆で座り込んだりタバコを吸ったりして時間を潰していると川島が現れた。
 よれたスーツに冴えない髪型、覇気のない立ち姿、リュック。写真どおり、いかにも非モテがそこにいた。
 周囲を見回しアイの姿を探している様子だ。けれどアイが来ることはない。
 事務所にいる高尾マンコさんに「メールを送って欲しい」と電話をかけて伝えた。アイから川島に、「もう待ち合わせ場所には来てるんです!どこですか?お返事くれませんか?」とか、そういう不安を煽る文面が届いている手筈になっていた。

 まもなく、川島がコンビニに駆け込むのが見えた。あっさり陥落した。
 一刻も早く返事をしなくては、せっかく初めてこんなに仲良く話せる女の子ができたのに!表情からそういう思いが透けて見えた。なんの感慨もない。
 先輩たちが「プククク!」と声を抑えて笑い始めた。

「だっちゃんこれ時給アップだわ、流石、できる男!」

「やめて下さいよ!いや、楽勝っす、楽勝!」

「なに数千円の売り上げで調子のってンの?いやでもお手柄お手柄!」

 何人かがおれにハイタッチを求めた。

 川島は大卒だ。私大文系のおれが早々に放棄した難しい数学の問題を解いて、都心の有名大学に合格し、そしておれや先輩たちとは違って、品行方正を積み重ねて生きてきたのだ。投げ出したくなるような日を、淡々と耐え忍んで生きてきた人間だ。
 まじめに生きても報われないんだな。当たり前のことだけど。

 「できない」と思った。おれにはきっと、そういう生き方はできないだろうな、と。
 あるいはあれが自分の未来の姿になると判っていたからなのだろうか。ぜんぜん笑えなかった。


 その後川島は継続課金の部署に回され、そこで何度も課金することになる。

 それからしばらく日が経ち川島の存在を忘れかけていた頃、新規登録のキャラに

「あなたもサクラなんですか?」
「もう全部どうでもいいんです」
「誰でも良いです、会って下さい」

 そんなことを手当たり次第に話しかけている川島を見つけた。だけど同じユーザが無課金で何度も初回登録特典のポイントを受け取るのは規約違反だ。
 ブラックリストに入れ、IPを出禁にした。

 当時、職場にはマニュアルみたいなものは存在しなかった。「なんとなく」だけで仕事が回っていて、覚えの悪い新人はそれで先輩に詰められ、根を上げてやめてしまうことが少なくなかった。一発で仕事を覚えることができない新人に先輩たちは中々優しく接してあげることができなかった。
 おれは記憶力がそんなに良い方ではなかったので、少しずつ色々なことを明文化して自分用のマニュアルを作った。それを上司に出したら時給が上がった。
 元々真面目な方なので、自分なりにテンプレートを工夫したりキャラの細かい設定を作り込んでいったから、課金件数も悪くなかった。最終的には、月給45万くらいもらっていた。

 およそ1年、渋谷の掃きだめで過ごした。
 頭の狂った人間に会ったことも一度や二度ではない。職場の近くで同僚が二度も女に刺され病院送りになったときは「さすがに多いな」と思った。
 職場の先輩は、基本的には優しかった。花見や飲み会、初めて一緒に秋葉原のメイド喫茶へ行ったりした。

 ある夜、何百年ぶりかのナンタラカンタラ流星群を観ることができる日があった。
 それは勤務時間中だったんだけど、一人の職員が「所長!星、観に行きましょうよ~お願いしますよ~!」と叫んだ。
 所長も「お、そうだな!皆で星観るか。皆、一旦仕事やめろ~」と応じ、皆で喫煙室の小さい窓から空を見上げた。

「なんも見えないんですけど」

というと、

「いや、多分あれだ!」
「あ、わかった、あれだ!」

 先輩たちが年甲斐もなく口々に言った。
 そのうち誰かが当時流行ったsupercellの「君の知らない物語」をかけた。
https://www.youtube.com/watch?v=Ac1cv_55FCM

 元ホストの先輩がおれをみて、「こういうのも悪くないだろ」と笑って見せた。その言葉は言外に、大学生と言う身分で紆余曲折を経てこんな仕事をしなければならなくなったおれのことを慰めていたし、「こんな仕事」だと思っていることを見透かされていた。

 色んな事情を抱えてサクラになっていた。借金、バクチ、就職氷河期、風俗あがり、いろいろだ。
 「ぼくらはもう抜けられないけど、だっちゃんは自分の人生を間違わないでね」みたいなことを日常的に言う人もいた。彼らの学歴は結構有名な大学だったりして、本来こんなところにいるべきではないような人も少なくなかった。
 ただ少し性格にクセがあったり、就職先が数回連続で合わなかったり、ほんの少し人生のボタンを掛け違えてしまっただけだ。

 しかしやはり他人の心に付け込む仕事は、よほど稼がない限りそれ自体が自分を支えてくれるようなことはない。
 週6日、ほぼ毎日12時間拘束され、その上で法律の勉強もしなければならないとなるとどうしても睡眠時間を削らざるを得なかった。
 2日3日寝ないことも常態化して、徐々に体調を壊していった。

 血便が出、尿も濃い色しかでなくなった頃になって、流石にまずいと思って仕事を辞めることにした。手元には数百万円残っていた。
 所長に「辞めます」と伝えると、「わかった、おつかれ」とあっさり引き継ぎのシフトが組まれ退職の運びとなった。
 
 最後の日、会社から出ようとすると背中から高尾マンコ先輩が呼び掛けた。

「おーい、だっちゃん!もうこんなところに戻って来るんじゃねーぞ!!」

 月日が経って、社会人となった。
 ふと思い立って桜ヶ丘に行くと、多くの競合の出会い系サイトのオフィスは空になっていて、入居者募集の広告が窓に貼られていた。

 おれの働いていた会社に行ってみると、白看板のオフィスには煌々と電気が点いていて、様子を伺うとメンツは変わっているようだけど未だに刺青だらけの若者が働いていた。
 老朽化したビル、臭くて不潔なトイレ、タバコの臭い。今でも何もかもあのときのままだ。
 おれも先輩たちのようにまともに生きることができなかった。だから、クソみたいな仕事だったけど、居心地が良かった。
 いまのおれには居場所がない。

 一体、先輩たちは何処へ行ってしまったんだろう。みんな今ごろ30代後半から40代になっているはずだ。どこかで幸せに生きているなら、自分みたいな人間にどういう幸せがあるのか教えてほしい。
 自分に優しくしてくれた人たちだから、どこかで強く生きていてほしい思うこともある。だけど他人から何かを奪うようなことをしていた人たちだから、最後は不幸でいて欲しいとも思う。
 きっとそのときは、おれも同じ地獄に落ちるのだ。

できれば、何も食わずに暮らしたい。

 生産的な活動なんてしていなくとも、生きてるだけで腹は減る。
 今ではすっかり信用を失った政府・総務省の家計調査によると、単身世帯の食費は直近(2018/7~9)で43千円/月となっており、単純計算で一食当たり1,424円と、人は生きてるだけで中々の金額を消耗している。

 自分についていえば、現在は人付き合いも極端に減ったし酒もさほど飲まないので流石にここまで食費はかからない。

 けれど現実として金はないし、食にもさしあたり興味はない。そもそも、生きる気力も湧かず死なば死ぬまでの捨て身なのだ。
 もうあとは食べずに過ごそう、と思い飲食を絶ってみたことは何度かある。

 終末期医療の現場で安楽死が許されない場合に患者が採りがちな代償行動として飲食拒絶=VSED(Voluntarily stopping eating and drinking)がある。
 しかしVSEDには前提として絶食を上回る病の苦痛があり、それゆえそもそも食が細っているという条件がある。それでも成功率は高くなく、大抵の人は挫折してしまうのだという。

 先般、自分で3日ほど絶食してみて痛感したことが、とにかく時間をうっちゃれない。
 人が一食にありつくのには、買い出し、食事の準備、実際の食事、片付けと、実に四行程もアクションがあって、三食たべないと一日辺り3時間近く余裕が生まれることになる。
 これが忙しいビジネスマンであれば勉強やら何やら生産的な行動に回せそうだけど、おれは現実として忙しくないので1日3時間まるまる浮いた分、空腹と向き合う時間になる。
 空腹の苦痛から目を逸らせば、当然そこにはいつもの人生の苦痛が鎮座している。
 気を逸らそうと本や映像に逃げ込もうとするけれど、読書にも映画鑑賞にも、勿論こうしてブログを書くことにも、実は膨大なカロリーを必要としていたことを知る。
 目に入るものの何一つ頭に入ってこないし、書いた文章はまとまりを失い、次第に重い倦怠感が身体を支配するようになった。何より、腹が減って、イライラする。

 それでもVSEDで意識のシャットダウンは中々やってきてはくれない。
 「空腹がある程度を越えたら空腹の不快感がなくなる」とネットで読んだことがあったけれど、おれの場合3日程度ではそのゾーンに到達することはなかった。きっと余計な肉が多いんだろう。
 結局、食事の面倒を受け入れる方が、面倒を回避して冗長な空腹の苦痛に耐えるより余程楽なのだと、こんなことはもう余りにも当然過ぎて試す必要なんてどこにもないような結論だけ得た。

 そして数日ぶりに、カロリーメイトを紅茶で流し込んだ。
 カロリーメイトのビスケットの隙間に熱い紅茶が流れ込み、糖を溶かして内臓に浸透してゆく。シワシワに萎れた細胞がパンパンに張りを取り戻し、全身が熱を帯び、皮膚に薄く汗がのるのが分かる。

 早く消えてなくなりたいと思う主観に相反して、肉体は生を渇望している。
 美しくもなく恵まれた体躯でもないが、馬力が出ていざというときに無理の利く肉体ではある。おれなんかじゃなくもっと高潔な魂の器だったのなら、きっともっと多くの人に愛され、自然、自分自身にも大事に扱われたのだろう。
 我がごとながら勿体ない。両親からの受肉に、申し訳ない。

ブラック研修体験記

 「内定です、おめでとうございます!」

 第一志望の企業から連絡を貰ったときは、本当に嬉しかった。某大手旅行代理店だった。
 旅行業界を志望したのは、海外旅行に良い思い出しかなかったからだ。旅を企画するワクワク感に囲まれて働くのは、きっと楽しいことだと思った。実力次第で海外転勤や昇進、年収1千万円が夢ではないというところも、一度夢破れて大学院を中退しようとしている自分が次に目指す目標としては悪くないように思えた。

 大学生の志望度ランキングで常に上位の企業で、総合職の倍率は600倍以上とのことだった。
 SPI対策、IR分析、株価もニュースも調べ上げ、支店には客の振りをして見学して改善点をチェックし、正に万全を期して挑んだ。
 参加必須の説明会も含めれば5度も本社ビルに通ってやっと勝ち取った内定だった。
 その分喜びも大きい。一番最初に履歴書を提出した第一志望の企業が真っ先に内定をくれたのだ。縁を感じずにはおれなかった。

 他にも何社か最終選考は残っていたけど、内定の電話を貰ったその場で全て断りの電話を入れた。

 内定式の為に本社に出向いた。
 本社は西新宿の真ん中にある超高層ビルで、二度も高速エレベータを乗り継がなければオフィスに辿り着けない。
 中層階には展望台があって、東京の街並みを一望することができた。
 ここで働くんだ。エリートになったんだ、と思った。
 オフィスに到着するとわずか3人の同期がいて、お互いの健闘を讃え合った。

 それから間もなく内定者バイトに入る。これは内定者全員、実質的に参加が必須のもので、最低賃金並みの時給でなるべく多くバイトに入ることを求められる。これ自体は、まあ勿論仕事なので厳しいけれど、大してキツイものではない。
 今から考えれば、内定者を拘束して就活を終えさせる目的のものだと思う。
 その後、3日間の「本採用前研修」を受け、採用となる。これも考えてみればおかしな話だけれど、研修中は無給である。
 研修会場は代々木にある国立オリンピック記念青少年総合センター。
 当時おれは近所に住んでいたのでかなり時間に余裕をもって会場入りしたのだが、1時間前には既に内定者は全員集まっていた。

 開場となり、指定された会議室に入ると、長机が演壇に向けて整列していた。
 皆和気藹々としていて、隣の人と自己紹介をしたりしていた。女子率6割以上、外国人も3割くらいいた。関東支社採用の者もいれば関西支社採用の者もおり、おれのように総合職やエリア総合職内定の者もいたけど、殆どが契約社員としての採用だった。

 時間が来ると、演壇に面接官だった人事課の中間管理職らしき人が上がり、スゥ、と息を吸い込んだかと思うとマイク越しに怒鳴りつけた。

「てめえら、うるせえぞこの野郎!!」

 会場は水をうったように静かになった。
「いつまで学生気分でいるんだ、全員出てけ!てめえら内定取り消しにするからな、もっかい入場からやりなおせ!」

 一旦全員会議室の外へ出て、再度粛々と入室した。
 そして長机の席の前に立ち、「着席!」の合図で同時に座る。
 だけどこれが中々綺麗に揃わない。3、4度やったところで面接官が言った。

「もういい、もうこれで終わりだ!どうやら今年の採用は失敗だったみてえだな。クソ、こんなダメな内定者見たことねえよ」
「〇〇!何処いるんだ出てこい!」

 恐らく人事課の一番下っ端と思しき社員が演壇の下に呼ばれた。
「てめえが今年は良いっていうから期待してたのに、結局これじゃねえかこの野郎、何考えてるんだオラ!」
「申し訳ございませんでした!!」
 下っ端が勢いよく頭を下げる。
「てめえおれに謝ってどうすんだこの野郎、こんなクソみてえな連中に付き合わされる先輩方に対してはどうなんだ、オイ!」
「諸先輩方、申し訳ございませんでした!」
 会議室の壁際に控えた数名の人事課職員らしき先輩たちに、下っ端は頭を下げた。
「もういい、下がれ」
「オイ!てめえらが不甲斐ないせいで〇〇が恥かいただろうが!採用して貰った恩はねえのか、しっかりやれ!」
 依然会議室は静まり返っている。
「返事!」
 怒声に反応し、全員が「ハイ!」と応じる。
「たりねえよ、返事!」「ハイ!」「返事!」「ハイ!」「返事!」「ハイ!!」
 何度か応酬があった後、
「オッシ、しっかりやれよ」
 と言い残し面接官は演壇を降りた。代わりに若い女性職員が上がり、嫌味たらしく言った。
「本当、こんなに出来の悪い内定者は正直いって初めて見ました、本当に酷い。今まで何をやっていたのか教えて欲しいくらいです。」
 そして、これからのタイムスケジュールを説明された。

「ではこの中でチームを作って貰います。」
 内定者は座席ごとに8チームくらいに割り当てられ、夫々にABCDのアルファベットが割り当てられた。総合職、契約、外国人がバランスよく配分されるようになっているようだった。
 おれのチームは、おれの他に高卒、元たこ焼き屋、元教師、中国人女子というメンバーだった。
 チーム内での話し合いで、おれがチームリーダーとなった。
 スタートが5人編成のチームの長だなんて、正に伍長だ。ここから大将軍を目指すんだなぁ、と下らないことを考えた。

 そこから研修が始まり、座学やマナー講座等をするのだが、当然ミスをすると怒号が飛んだ。
 極力メンバーがミスを犯さないよう、立ち振る舞いや態度を見張り、彼らを鼓舞した。

 運が悪いと名指しで演壇に上げられ、ある状況下でどういう行動をとるか等といったシミュレーションをさせられることになる。場合によっては「なぜそう行動したのか」について釈明も求められる。
 そしてそれが外国人だったときには、当然日本語も未だビジネスレベルではないのでたどたどしく答えることになるのだが、
「てめえ何いってっか全然わかんねえよ!こういうことなることくらいわかってただろ、勉強してから来日してこいこの野郎!」
 などと怒鳴られることになる。これには同情した。自分も就活するにあたって海外で働くことは選択肢にあったので、もし自分が別の国で就職していたらこんな屈辱に遭っていたのだろうか、と思った。

 座学ではテストもある。問題は各国の主要空港に割り当てられた三桁のコードを回答するというものだった。
 例えば成田ならNRT、羽田ならHNDと判り易いが、深圳宝安はSZXのように世界の空港には名前と関係ないもの数多くある。これは内定式のときに貰う参考資料の中に入っている「コード一覧」というペーパーを暗記していれば書いてあるのだけど、何の脈絡もない単純な暗記なので満点をとるのは中々難しい。
 満点を採れなかった者は全員起立させられ、怒鳴られた。勿論、元添乗員の中途採用の1名を除いて全員が起立した。
「てめえ70点ってことは30人のお客様が目的地まで辿り着けなかったってことじゃねえか!30人も目的地に辿り着けなかったら会社潰れちゃうよ!てめえうちを潰してえのかこの野郎!」
 別にそういうことにはならないと思うのだけど、とにかく隙を見せたら怒鳴られる。
「満点取れなかった奴は翌日追試!」

 だけどおれは思った。膨大な空港コードを暗記させるなんて、こんな試験はありえない。これはNARUTOの中忍試験の筆記と同じだ、「うまく危機を乗り越える」知恵が試されてると思った。

 そこでメンバーにカンニングペーパーの製作と(採点は隣の人が採点するというシステムなので)回答者が間違った回答をしてたら〇をつけつつ正解を書き込むよう指示した。
 当然、翌日の試験では我がチームは全員満点を取った。同じくメンバー全員が満点を取ったチームとともに褒められた。
 だけど当然、正攻法で挑んで玉砕するチームもいる。
 その中で最低点を取ったのは、中国人女子のTさんだった。

「てめえナメてんのかこの野郎!」
 皆の前でつるし上げられ、怒鳴られる。
「てめえを採用した現地の社員からはな、てめえが海南島(中国の地名)で一番優秀だっていうから採ったんだぞ!それがこんなレベルじゃ、もう二度と日本企業が海南島から採用することはねえ、いいか、てめえのせいで島から採用がなくなるんだよ!」
 すると今まで項垂れ歯を食いしばって耐えていたTさんがハッと顔を上げて言った。
「悪いのはワタシです、海南島悪くない、ワタシがバカだったダケです!海南島見捨てないデください、ワタシをクビにして下さい、海南島は悪くない、海南島は悪くない」
 Tさんは恥も外聞もない様子で、号泣しながら膝を床について面接官の足にすがった。土下座だ。
 中国人は人前で叱られることを嫌うプライドの高い民族だ。それがこんなに屈辱を受けて、それでもなおその相手に追いすがることがどういうことなのか解るだろうか。
 面接官もTさんの様子に動揺したようで、「もういい、戻れ!」と言い残し、バトンタッチした別の職員が次の授業に移っていった。
 Tさんは他のメンバーに支えられるように席に戻っていった。
 一回りも二回りも年の違う外国人の少女に、こんな仕打ちをしなければ成立しない仕事ってなんなんだろう。
 心の中に、冷たい物が流れ込んでくるのがわかった。

 一日の研修が終わり夜になると、宿泊施設へ移動をする。
 ずっと緊張状態にあったから、解放されたという安堵はあったけど、皆口数は少なかった。どこに見張りの社員がいるか判らないからだ。

 そして、脱走者が出た。
 場所も代々木なので、逃げるのはそんなに難しいことではない。
 残った者は、脱走者の不甲斐なさを口々に言い合い団結を高めた。

 食事を済ませ風呂に入った後も、眠ることは許されない。
 前のエントリに書いたとおり筆記試験の対策もしなければいけなかったし、授業では課題を出され、後日プレゼンをするよう指示されていたからだ。それもすぐにこなせる分量ではない。
 それでもうちのチームは一人が与えられたMacを使ってプレゼン資料の作成、他のメンバーはアイデア出しと喋る内容を考える等、うまいこと仕事を分け合いチームワークを発揮していた。
 アイデアだしも煮詰まり残るは事務作業のみというタイミングで、ローテーションを組んでメンバーに一人2時間くらいの就寝を指示した。

 だけど緊張状態から寝ろといっても、それは簡単なことではない。

 翌朝、施設の前に集まって朝礼をすることになっていたが全員グロッキー状態だった。中には体調不良を訴え施設から出て来れない者もいた。

 ストレッチをし、代々木公園を2kmくらいランニングをする。
 ところがうちの班の中国人の女子が、どうやら貧血になったらしく途中で嗚咽をして倒れそうになっていた。ちゃんと眠れていないのだから当然のことだ。
 他のメンバーに先に行くよう伝え、おれはその子を背負った。
 コースは2km程度だけど、公園の中は入り組んだ道になっていたので、社員の目が届かないと判断したところで落ち葉や土の地面の舗装されてないところへ入りうまくショートカットしつつゴールした。それでも人を一人背負って何百mも走るのは重労働で、目の端には星が飛び、隠れて嘔吐した。
 中国人の女子が
「Dさん、これは中国の軍役よりキビシですネ」
「だから日本は発展したデスネ」
 というのに、
「うーん、多分うちの会社だけなんじゃないかな?!」
 と応じるのが精一杯だった。おれだってうちの会社以外のことなんて知らないのだ。

 とにかく正気を失わないことをメンバーに呼び掛けた。疲労しても後ほんの数十時間、感情に飲まれなければ何とかなる。

 だけどやっぱり、それは向こうが上手だったと思う。 
 途中、体育館で声出しを行った。
「いらっしゃいませ!」
「ありがとうございます!」
 お客様には勿論のこと、今まで自分を育ててくれた親への感謝の気持ちも叫んだ。声が小さいと当然目を付けられるから、喉から血が出るほど何度も叫んだ。
 この頃になると、酸欠や疲労で一種の陶酔状態になる者が出始めた。別に何ら脈絡のないところで泣きじゃくりながら
「おれはこの会社で世界の一番になります!」
 等と社員に叫び出したり、意識の低いメンバーを発見すると怒鳴り散らす官憲のような人間が現れ、カーストが生まれた。
 メンバーが他のチームに攻撃を受ければ、
「てめえこの野郎だれのメンバーに手出してんだコラ」と怒鳴りに行く。そうしておれもまた、カーストでの座布団を上げていった。

 3日目、最終日になった。

 午前中、授業で別の班のリーダーの女子が忘れ物を3回連続でしたことで女性職員に教室の外に引っ張り出され、廊下から「ギエエエエエェェェェ!!」という叫び声が聞こえてくるという微笑ましい一幕はあったものの、基本的には内定者の立ち振る舞いも適応しあんまり怒られることもなくなっていた。

 3日間ほぼ不眠不休の中、全員グロッキー状態で行ったプレゼンは何とか成功し、これ以上ないくらい褒められた。
 研修を通じてチームとしてのフィードバックも発表されるのだけど、評価も全体で2位と好成績で終えることが出来た。
 
 壇上には社長が現れ、「今年の採用は優秀だったと聞いてる」「お前ら(人事課)、また厳しくやったんだな?」「みんな、よく頑張ったな」と健闘を讃えてくれた。社員も今日はニコニコしていた。
 初日から比較すると、えらい変わりようである。

「じゃあ、最後にビデオを見ます。」
 会場が暗転し、旅行業の良さを訴える映像を見せられた。
 それは新卒で入社した社員が、初めて女子大生のお客様の卒業旅行を案内することになり、それを機に贔屓にして下さるようになり、次は新婚旅行の案内、次は赤ちゃんを連れての初めての家族旅行を案内することになる、という内容だった。お客様の人生の節目に関われる喜びが旅行業にはあります!というメッセージが最期に社名とともに現れ、感動のフィナーレとなった。
 開場が明転すると、全員泣いていた。
 なんか、色々あったけど研修頑張って良かったな!そういう空気が開場を支配していた。

 そしてあと少しで閉会の挨拶というとき、面接官が現れた。
「てめえら、ちっと静かにしろ!!」
 会場が静まり返る。
「オイ!今から呼ぶ3人、前に出て来い!」
 内定者から3人名指しされ、演壇に上げられた。3人とも何か重大なことをしでかしてしまったのではないかと思って顔面蒼白になっている。

「お前ら、やっと後少しで終わるって言うときにどういうつもりだ!!」
 怒鳴りつける。
「てめえ、どうして呼ばれたかわかるか?」
 一人に問うと、
「わわわわわ、わからないです!」
 と唇を震わせ答えていた。足も震えているのが、遠目にも判った。

「なんだとこの野郎...。本当にわからねえんだなァ?」
「じゃあな、教えてやるよ」
「お前ら、今月、誕生日だろうが!」

 パッと会場が暗転したかと思うと、巨大な誕生日ケーキが3個運ばれてきて、社員一同が「ハッピバースデートゥーユー!」と合唱した。勿論、おれ達もあわせて手拍子と歌をうたった。
 3人は緊張が解けたのか、ヘナヘナと床に崩れ落ちて泣いていた。

「お前ら、これが感動だ、感動を売るのが俺達の仕事だ!」

 面接官が叫ぶと、内定者全員が
「ウオオオオオオ!!!!」
 と快哉を叫んだのである。
 全員目がイッていた。ああ、おれたちは洗脳されたんだ、と思った。

 そして閉会となり、帰宅して泥のように眠った後、おれは内定辞退の電話をかけた。

 募集要項の月給は20万円とあったけど、それはみなし残業代40時間分を見込んだ金額で、実際の基本給は16万円程度にしかならない。その安月給でこれでは、全く割に合わないと思った。

「仁義とおす為に一回本社に来い」
 と言われ本社に行き、対応してくれた職員に
「なんか、宗教染みてて気持ち悪いなって思ったので辞めます」
 と伝えた。社員も

「何言ってるかわかってるのか?!」

 と応酬したが、こちらももう利害は無いので

「あ?なんだよ」と返すと、あっさり内定辞退となった。 
 こうして、おれの旅行業への希望は終わったのである。

老後のことを考えると、本当に辛くなる。

 数年の社会人経験を経て、自分が組織に絶対的に向いてないことが判った。
 といって、自分で稼ぐことができるようにもならなかった。目ぼしい資格を持っているわけでもない。
 ならば我慢をしなければならないのだけど、正直、この苦行を後35年できるかと問われると相当難しい。

 人生が向いていないのだと、つくづく思う。といってみたところで、人生は続く。
 そして、この先のありうべき日々のことを考えると、本当に辛くなる。

 何とか囚人のような時代を耐え、定年を迎えたとしよう。
 順当に生きていたとしても、今の給与水準で出来る貯金なんてたかが知れている(ましてや、おれは貯金なんて口にすることさえおこがましい状況にある)。
 必ず足りなくなる。
 生活保護費さえ引き下げられている中、年金だって本当に出るかどうか疑問だ。少なくとも、支給年限は引き上げられ、支給額は引き下げられるだろう。まともに暮らすような金は期待できない。

 金がないなら、なお仕事を探して働くしかない。
 若く健康な精神と肉体を持っていてさえ罵倒され、仕事を覚えるのに四苦八苦している人間が、老いたらどういう目に遭うかは想像するだに悲惨だ。
 仕事だって、いつまであるか知れない。

 そこを乗り越えて、遂に心と体が擦り切れてしまった後にさえ、待ってる生活は恐ろしい。
 老人ホームへ行って、お歌をうたい、リハビリし、TVを見て、薄味のまずい食事をする。
 ここまで至ると、自分で死ぬことさえ許されない。勝手に外を出歩けば徘徊や脱走と言われ、食事をしなければ点滴をぶち込まれることになる。
 発狂しない方がおかしい。

 今、自分は自分だと、間違ってることは間違ってるのだと強硬に主張できる根拠は、誰にも依存しない心身に依存している。
 衣食住その全てを誰かに依存して、それでもなお強気でいられる自信は、正直ない。

 まかり間違って重篤な病になろうものなら、チューブで生かされる。
 そうなったとき、果たして自我がどうなっているかについては、想像したくない。

 忌々しい老いを背負って、地獄の業火に焼かれてなお少しでも生き永らえようとする理由は、2つしかない。愛と信仰だ。
 誰にも望まれず、自分さえ自分を愛さず、信仰さえ持たない人間は、一体何が悲しくて生きていなければならないのだろう。

 老後について不安がる記事はネットには数多あるけれど、大抵「難しい時代だ」とか「各々が自分で考えることがまたれる」とか「起業し自分で仕事を作り出す能力の獲得を」とかいった曖昧だったりできもしない言葉で締められていて、要領を得ない。

 要するに、どこかで死ななければならないのだろう。
 社会が安楽死を許そうが許すまいが、どこかで自分の命を絶たなければいけない。

 そんなことを考えなくてはいけない社会や時代が間違っているとは思わない。寧ろ耐用年数を超えてもなお生きることを許され、死さえ自らの手に委ねられるくらい自由の時代になったと考えるべきだと思う。

 自殺は、人に許された最後の愚行権だ。

 人はどうしたって老いる。老いを受け入れず生に執着する有様は、始皇帝が不老不死を求めるような傲慢さに等しい。
 いや、始皇帝であればきっと、生き永らえれば何かを成し遂げただろう。

 だけど、おれは違う。

ストラテラとコンサータ

 起きると、処方薬が切れていた。病院へ行くことにした。
 その日は気温も高く、何とか外出くらいならできそうだった。

 薬は効かないけれど、気休めにはなる。それに、1錠でも多く睡眠薬を補充しておくのは首吊りの確実性に貢献する。それは悪いことではない。

 通院している医者との折り合いがうまく行ってなかったので、少し遠くのクリニックで、年始からやっているところに行くことにした。電話をかけると、今空いてるということだった。
 首都圏で簡単に予約の取れる精神科は多くない。案の定、ネットでの評価も高くなかった。

 診察を受けるとテストのようなものを受けさせられ、「コンサータ」が出た。強力な薬なので滅多に出ないし、医者も出したがらないもの、らしい。

 処方されて、その場ですぐに飲み込んだ。
 暫く歩いていると強烈な頭痛がした。多分副作用なのだろう、ロキソニンを飲んでバスのベンチに座り込んだ。
 一息ついて、また少し移動する。頭痛が出そうになって、その場で休む。
 そうして健常な身体なら30分で済む岐路を3時間近くかけて帰り、帰宅する頃には風呂に入る気力も歯を磨く気力もなく、コートのまま布団に倒れ込んだ。
 ただ、肉体は満身創痍だったものの、意識は「寝ることはできるけど、起きていようと思えばずっと起きていられる」という独特の状態となっていた。

 翌朝起きると、頭痛は収まっていた。再度コンサータを飲んで、気付いた。
 身体が動く。

 数日じっとして過ごしていたからか身体は節々が痛むし、倦怠も未だ残っている。
 けれど、食欲も性欲も戻ってきているようだった。筋肉にもしっかり力が入る。
 これまで処方されてきたストラテラのような精神の揺さぶりや、強烈な吐き気もない。

 コンサータは、覚醒剤に含まれるアンフェタミンと同効のメチルフェニデートという成分が含まれていて、要するに合法的な覚醒剤だ。コンサータは薬効が徐々に出て来る構造らしく、いわゆる「キマる」ことは無いと言われている。
 だけど、それでも効果はヒロポンよろしく疲労がポンという感じだ。
 じゃあ、違法覚醒剤に手を出そうとしていたおれの判断は間違ってなかったわけだ。医者を替えてなければ、今ごろ...などと、せんもないことを考える。

 そして後日「丈夫な縄」が届いて、考えた。
 手元にはまだ資金が残っている。精神はともかく、まともに動く身体が戻って来て日常生活が支障なく送れるのなら、ひとまず生存だけはしてやってもいい、と。
 だから今こうして、ことの経緯を書いている。

 新しく届いた縄は、耐久実験にも耐えた。
 もう天井に縄をかけることに躊躇もない。今まで机上の空論のように漠然としていた死への道のりが、この手にある。


 一度はっきりとした輪郭をもって現れた希死念慮は実体を持ち、夜になるとやってきて、甘い言葉をささめき彼岸に引きずり込もうとする。
 嵐がやってくる。縄はまだ捨てられない。

ドラッグあんぎゃ

 経年劣化の為なのか、安物だったからなのか、そもそも縄が細すぎたのか。いずれにしても縄は切れた。
 ひとまず丈夫そうな縄をネットで注文した。
 年始の繁忙期で、届くのに数日はかかりそうだった。

 この数日を乗り越えねばならない。
 例え幻想によるものであろうとも、この今まさにここにある心の痛みと身体の倦怠は本物の苦しみだ。

 薬は効かない。ドラッグが必要だった。タバコや大麻みたいなダウナー系ではない、アッパー系の違法薬物が必要だと思った。
 ただ、ツテが無かった。

 ネットであったかいのつめたいのと言ってる連中に声をかける気にはなれない。あれでは足が付き過ぎる。
 しかし西成の闇市でも山谷でも、そしてクラブでも、ラリった人間ならいくらでもいるけれど、覚醒剤そのものにお目にかかったことはない。

 昔、ヤク中で口の中がボロボロに溶け切ったソープ嬢に聞いた手段がいくつかある。
 深夜、新宿駅の近くで立ちんぼをしていると、黒人がやってきて後ろに立ち、耳元で幾つか質問をする。それに応えて金を渡すと、手にビニール袋を握らせてくる。
 中野の路地にある自販機の前で地べたに座り込むと売人がやってきて、金を渡すと売人はジュースを買う。そいつが去ると、釣銭を入れるところにビニール袋が入っている。

 本物のヤク中の言葉自体の真偽は勿論だけど、どうにも確実とは思えなかった。
 おれは見た目がちゃんとし過ぎている。売人だって相手を選ぶんじゃないだろうか。
 それにそれは数年前の作法で、今どうなってるかは判らない。

 手元には100万円ある。
 何度も熔かした金だけど、100万円は大金だ。これだけあれば世界中どこへでも行くことができる。

 ネットで見たLSDの体験談では、イスラエルのテルアビブで手に入れたと書いてあった。
 イスラエルには行ったことが無いけれど、テルアビブがジャンキーにとって有名な土地だということは知識として知っていた。
 LSDで宇宙を見て、覚醒剤を打ち、死海を抜けたところにある砂漠に歩いて入る。いずれ体力がなくなり、戻ることはできなくなるだろう。中東の太陽が照らして、じきにおれも砂になる。
 岡田徹のPVを思い出した(https://www.youtube.com/watch?v=-WzFnFrlYAs)。
 「入砂」とでも呼ぶべき美しい死にざまには憧れさえ覚える。

 だけど、テルアビブまで行って手に入れられなければどうする。
 いや、もっと確実な方法があった。マドリッドには、おれのことを誘ってくれるスペイン人の友人がいるのだった。彼の力を借りればいい。
 コーディネータを雇い、金を渡せば確実にドラッグを手に入れる方法がマドリッドにはある。

 エクスペディアで航空券とホテルを調べたところ、どちらにしても数日10万程度で行くことができる。


 と、そこまで調べてそれがかなりの長い道のりとなることが判った。今のおれに、片道24時間を超える長い旅路を耐えきる体力があるのだろうか。尻込みする。

 既に一日の活動限界を迎えており、この日は一旦保留にして寝ることにした。