海原の月になりたい

 クラゲを見たいと思った。

 先日、池袋サンシャイン水族館に行くとコロナウイルスの影響で休館となっており、5年前に引き続きまたしても入館し損ねてしまった。本当についてない。せっかく会社を休んだことも無駄になってしまった。

 といって行く当てもなく、薄暗い水族館の入口のスペースを歩いた。普段はチケットを買い求める人波に埋まっているはずの場所に人がいない。違う知らない世界に迷い込んでしまったような、不思議な感覚がした。BGMもアナウンスも騒めきもない冷たい静寂のなか、どこか遠くを駆け回る子どもの笑う声が施設に反響して聞こえてきた。それがまるでこの世の者ではないように思え、隙間から入り込む春風がかえって薄ら寒く感じた。

 私はいつも大事なことを間違える。タイミングも言葉も行動も、正しいと確信したことも、後からどうしても迷ってしまう。それがこと、取り返しのつかないことに限って。

 だから大抵において、私は歓迎されない客なんだ。そんな判り切ったことをいまさら思い知ったように感じ、心の底がツンと痛むのを感じた。

 

 H子と知り合って間もないとき、私たちは千葉県にある鴨川シーワールドへデートに出かけることにした。そのときは未だ、異性として関係を築こうとしていた。

 当時、H子の住んでいた埼玉県・戸田公園駅近くのレンタカー屋で手頃な普通車を借り、彼女を拾い高速に乗った。

 都心住みとはいえ、頻繁に運転するわけではないし、ましてや高速の構造なんてよく分かっていない。中央環状線の複雑な分岐を慎重に選び取っていく、針の穴に糸を通すような運転だ。H子に無能な男だと思われるわけにはいかない。

 そんなことを知ってか知らずか、助手席でH子がその週あったことをのべつまくなく延々と喋りかけて来る。

 コイツ、おれの相槌が生返事なのに気付かないのか?今けっこう複雑な道を走っているのが分からないのか?と思いイラつき始めたところで、例によって道を間違えた。

「んああ!!」

「え、なに、どうしたの?!」

「どうやら道を間違えてしまったらしい、ごめん」

 あーあ、さぞ失望したような表情をするだろう、と思ったけれど、H子は

「あっ、そうなんだ。でね、それから後輩ちゃんがさ~、」と、話の続きをし始めた。

 この女...!と思ったけれど、H子の寛大さというか、マイペースさに救われた。

 そうして渋滞に巻き込まれたりしながら何とかアクアラインをとおり、昼過ぎには目的地に辿り着くことができた。

 鴨川シーワールドは、アクセスがよくない代わりに敷地の広い水族館で、比較的施設が充実している。

 シロイルカやシロクマ、ペンギンみたいな動物が、北極や南極を模したオブジェの中に大きく展示されている。そういう主役的な展示と展示の間を、深海の中をイメージした薄暗い通路が繋いでいる。

 通路の途中にはオマケのように小さい窓がいくつかついていて、覗き込むとエビやカニ・雑魚のような生き物が申し訳程度に陳列されている。

 他の動物とは違って、単体では注目されることのない、水族館っぽさ・海っぽさを演出するための、インテリアとしての展示だ。

 そういう人によっては目に止めないような、景色に過ぎないような水槽の一角に、クラゲの展示がある。

 H子は足を止め、クラゲを眺めていた。

「きれいだね。」と私が言うと、

「わたしのこと?」と彼女がおどけて言った。

「クラゲね!おかしいでしょ、こんなところで急に褒め始めたら。」

 二人で笑うと、H子は

「わたしねぇ、クラゲになりたいな。」

 とつぶやき水槽に両手を着いた。私も片手を伸ばし、水槽のガラスにひたりと触れた。ガラスのひんやりした冷たさが手のひらから伝わって来た。

 水族館の水槽のガラスは水圧を調整する関係で特殊な構造になっていて、見た目よりも遥かに分厚いみたいだ。手のひらのずっと向こうをゆらゆら幻想的に漂うクラゲとの距離で、こちらとあちらの世界には彼我の差があることを知る。

 決して主役になることのない、目も耳も鼻もなく、私たちと何ら互換性のない決定的に違う何か。クラゲなんて、こんなものになってしまったら、それこそ死んだも同然ではないか、と当時の私は思っていた。けれど、彼女が言いたかった言葉はまさに死にたい気持ちを換言していたのだった。

「まあ、何も考えないで良いっていうのはあるかもね。」

「うん、楽だよ、きっと。」

 彼女が私と出会う少し前にうつになり、自殺未遂をしていたことを知るのはずいぶんあとになってからだ。

 H子を戸田公園駅に送り届けると、彼女は私にお酒の瓶を手渡した。

「これ、今日連れて行ってくれたお礼ね。お酒好きだって言っていたでしょ」

 H子は律儀な性格をしていた。何かを与えられれば、何かを返す。私にそうしてくれたように、彼女もまた自分のしたことについて、何らかの形で報われることを望んでいた。

 だが、大抵の物事は与えるばかりで報われないものだ。だけどH子は、いや私たちはそういう当然の事象さえ受け入れることを拒んだ。この世界に土台向いていなかったのだ。

 誰かから何かを受け取ることも久しくなかった私は、嬉しくてそのお酒は飲まずにとっておいた。その酒瓶は、今はもうどこかに失くしてしまった。

 

 私は漁村にある、小さい民宿で育った。

 夏の時期になると、釣り人やサーファー、海水浴客や旅行者、多くの人が訪れ民宿は賑わう。

 海に来ると大らかな気持ちになるんだろうか、気の良いお客さんが殆どだった。

 都会からやってきた学生さん、日に焼けたヤンキー、酔っぱらった中年オヤジ、宴会に呼ばれたコンパニオンのお姉さん、その他諸々。酒の席には似つかわしくない小さい子供がいるというだけで、私はよく可愛がってもらった。家族連れのお客さんの子どもたちと仲良くなることもしばしばあることだった。

 しかしどんなに優しくしてくれたお客さんも、やがて「じゃあね」といって去っていく。私の知らない日常へ。そして大抵において、もう二度と会うことはない。

 忙しい夏場が終わり、やがて秋が来て、民宿は連日閑古鳥が鳴く。誰もいない客間で横になり、窓から海風が入るのを感じて、とても寂しい気持ちになったのを覚えている。

 大人になったら、私は去る側の人になりたいと思った。誰かに惜しまれる人になりたい、とその頃から願っていた。

 

 自分の人生のオチについて考えるとき、私のこれからは孤独だろうな、とつくづく思う。

 金もなく、といって人生を陽気にすることもない男のもとに、今さら人生をともに歩むような相手が現れるとは到底思えない。

 このままサラリーマンを続け、貧困の日々を淡々と送り続けたすえに、定年退職するんだろう。

 再就職は決して楽ではないけれど、何か適当な仕事に就いて、数年で身体をこわし、使い物にならなくなる。そして年金を貰って、ある日動かなくなる。そのとき私には頼るような家族はいない。

 きっと住んでいる部屋は今より貧しいもので、私は今よりもっと遥かに偏狭な人間性を獲得していて、今いる友人たちと連絡をとることもないのだろう。

 そのまま私は溶け、畳の染みになる。徹頭徹尾、疎まれるだけの人生だった、愛されない人生だった、とそのことだけを思いながら消えてゆく姿が見える。

 ああだから、今死んでも明日死んでも変わらないこの私こそは、誰より先にこの世界を去ってやろうと思っていた。周囲の親しい人たちの中で、きっと私は真っ先にこの世を去ることになるだろう、と確信していた。

 だけど、どうやらそうはなれなかったらしい。そして私のもとから大事な人が去っていくことに、こんなにも不慣れな自分を思い知った。

 ジジイババアになるまで一緒にいようと話していたH子は、もういない。

 二年前、私たちは寂しさのあまり結婚しようか、と話していた時期があった。

 異性としての愛情なんてなくたって、分かちがたいパートナーとして、仲間として支え合っていくのは、それはそれで悪いことではないのではないか、と思った。

 けれど、当時の私は子どもが欲しかった。H子とはその点でどうしても折り合わず、その話は無かったことになった。

 しかしH子は死ぬ間際になって、私と結婚したかった、と言った。

 子どもなんて要らないから、H子に戻って来て欲しい、また一緒にいて欲しい、と思う。それでも、もう時間は元に戻らない。

 二年前、あのときから既に、私は選択を間違えていた。

 

 昨夜、私は東京湾の埠頭にいた。

 海原には、月も星も浮かんでいなかった。ただただどこまでも深い暗闇が水平線の彼方まで続いていた。

 海辺で育った私には、夜の冷たい海風も波音も故郷のように心地良くて、恐怖は無い。水面を覗き込むと私を呼んでいるようで、気を許すと思わず闇に身を委ねてしまいたくなる。

 

 H子は、その遺灰について海に撒いて欲しいという遺書をのこしていた。

 今ごろ火葬され、彼女はクラゲのように漂っているのだろうか。

 私は近所の持ち帰り可能なカツ丼屋で、一杯テイクアウトして持ってきていた。糖質を憎んでいたH子の為に、ご飯は少なめにしておいた。

 H子が亡くなる日、彼女に

「最期くらい、何か好きなもの食べようよ。」と言うと、

「カツ丼が食べたいなぁ。好きだったんだよね、もう何年も食べてないんだけどさぁ」

 と言っていた。

「でもね、内臓がずっと悪くて、もうダメなんだ。胃が荒れて眠れないくらいだから、あんなの食べたらきっと吐いちゃうよ。」

 

 結局、H子が最期に口にしたのはその辺のスーパーで買った半額シールのついたお惣菜だった。

 最後の晩餐くらい、どうして神さまは自由にしてあげなかったんだろう。彼女が何か罪を犯しただろうか、と思ったけれど、ああそうか、神も仏もこの世にはいなかったのだった。

 

 カツ丼の入ったビニール袋を勢いに任せ、見えない月のある方へ放った。水面にわずかにしぶきがあがり、ビニール袋は海中に吸い込まれていった。

 せめてあの世では好きなもの食べなよ、と思い、手を合わせた。

 

* 

 埠頭からの帰り、近くにあった銭湯に立ち寄った。

 湯船に浸かると、海風で冷えた身体に湯が染みてほっとする。それで、緊張のネジが緩んでしまった。そして同時に、醒めた気持ちが頭をもたげてきた。

 

 あの海に、H子がいるはずなんてないじゃないか。神も仏も彼女に手を差し伸べなかったように、あの世も霊魂もありはしない。

 こんな儀式じみたことをしたって彼女の魂が救われるはずはない。

 お前がお前を救う為にしてるんだ、ごっこ遊びだ、H子に何かしてやった気にでもなったのか?死んだ彼女に償うことなんてできるはずもない、お前の罪が軽くなるわけではないんだ!とあげつらい、ののしる、私自身だ。

 あまりに情けない。情けなくて、情けなくて、涙が込み上げて、止まらなかった。

 彼女の命を奪ったも同然のこの私が、その不在を身に沁みて泣くことになるなんて、そんなのは間違っている。H子のことを大事に思いながら何もできなかった遺族や友人たちの前に、こんな顔を晒すことはできない。毅然として振る舞わなければならないのに。

 自殺幇助か、嘱託殺人か、実刑を食らうことになれば仕事を失うことになるだろう。判り切っている。でも絶対後悔なんてしない。彼女がくれた宝石のような日々に比べたら、彼女が少しでも望んだかたちで苦痛から解き放たれたのなら、世間の誹りも何もかも、痛くもかゆくもない。

 そうまでして喪失を強く覚悟していたはずなのに、泣かないと何度も心に誓ったのに。

 

 だけど、ああ、彼女といた時間は……、本当に楽しかったなぁ……。

 老人ばかりの銭湯に、いい歳をした男のしゃくりあげる声が響いて止まらなかった。

 醜く無様でふがいない私に、声をかける者は誰もいなかった。

 

私たちの望むものは

 一

 

「もう、殺して。」

 とそういうことを彼女に言われたのは、一度や二度のことではない。私はその度、

「そのときが来たら、オレがやってやるよ。」

 と返すのだった。

「約束だからね。」

 と言う彼女に、

「約束するから、勝手に死なないでね。」

 と返していた。

 私たちは何がなくとも「死にたい、死にたい。」などと年がら年じゅう口にして、「もう疲れたよね。」などと言いあっては互いを慰め合う関係だった。

 死ねば現在の苦しみから解放される、最後の手段がある、というそのこと自体が救いだった。けれど、もうそんな段階はとうに過ぎてしまっていた。私たちの日常には、いつも傍らに死があった。

 H子とは5年前、婚活していたときに知り合った。学年は私のひとつ上で、3月17日生まれ。誕生日は日にちが私と同じだったから、すぐに覚えることができた。

 LINEを交換したあと何度かデートを重ねたものの、お互い失恋したてで未練たらたらだったこともあり、付き合うことはなかった。その後おのおの別の異性と付き合うことになり、私たちは気心の知れた相談相手となった。

 170cm近い長身に長髪をなびかせ、タイトな服とミニスカートをいつも好んで身に着けていた。一見して派手な服装と絵に描いたようなナイスバディだったので、一緒に歩いているとナンパされることも少なくなかった。

 東北にある田舎村落の母子家庭出身で高校中退という、金銭的にも環境的にも決して恵まれた出自とはいえない。にも関わらず、独学で高卒認定試験を受け、偏差値70近い私立大学の理系学部を現役ストレートで卒業した。

 就活のためTOEICを始めたと思えば間を置かずに800点台を叩きだし、簿記を始めたと思えばふた月足らずで2級に合格した。

 就職氷河期に巻き込まれブラック企業や非正規職を転々としていたけれど、西新宿にある都市銀行の契約から正規雇用に登用される狭き門を通り、正社員として働いていた。

 彼女は美しく、聡明な努力家だった。だが、その自負が彼女自身を苦しめることになる。

 かつて彼女には目指した夢があり、深く愛した人がいたらしい。しかしそのどちらも叶うことはなかった。

 私たちはよく似ていた。真面目な割に要領が悪くて、卑屈で報われない人生を送っていること、いつも愛されたい人に愛されないこと、その結果、うつうつとした人間性を獲得してしまったこと等々、根本の部分において。

 だから話がよく合った。

 知り合ってから5年の間、ささいなことから重大なことまで毎日のようにLINEをした。やりとりをした文章は、きっと数万通ではきかない。

 やがて互いに信頼し合うようになり、私たちは親友になった。親しくなってからも名前を「さん付け」で呼び合うクセは抜けなかった。

 私たちは旅行くらいが唯一の趣味だったから、休みが合う度、一緒に海外旅行へ出かけた。

 どちらからともなくネットで旅券を調べ、「5日間で8万円って、安くない?!」などと言い出して、貧乏旅行をした。フランス、台湾、韓国、その他国内、それは彼女が結婚するまで続いた。

 いつも大して広くもない小汚いツインの一室で過ごした。同じ部屋に寝泊まりしても、私たちに肉体関係はなかった。お互い何かを匂わせるようなこともなかったし、プラトニックでいることがずっと一緒にいる術なのだと理解していた。

 友人同士でいたから過度に期待し合わず、丁度良い距離感でいられた。語学力や異国を歩き回る体力、好奇心や急場の対応力が同じくらいだったから、絶妙のコンビネーションで補い合い、毎回思うままの旅をすることができた。旅先で揉めたことはほとんどない。

 旅をしている間だけは、日本で自分の身にふりかかったこと、或いはこれからふりかかるであろうあれこれを忘れることができた。

 けれど結局、それは一時的な現実逃避に過ぎない。どの国に何日一緒に行ったとしても、私たちの人生が根治されるようなことはなかった。

 私たちは気持ちをちゃんと言葉にして伝えることの大事さを知っていた。お互いが大事な存在であり、報われない人生ではあるけれど、少なくとも得難い友人を得たというただその一点については間違いなく恵まれているんだと、しつこいくらい言葉にしていたし、彼女も言葉にしてくれた。

「死にたい、死にたい。」とは言い合うものの、それはさておき私はあなたが死んだら辛いし悲しいし、寂しいんだということを伝え合った。それはまるでこの世に魂をつなぎ止めるもやいのようなものだ。

 けれど私たちが本当に欲しいものは、お互いに満たし合うことがどうしてもできないものだった。

 

 二

 

 私たちは婚活仲間でもあったから、どちらかがフリーになったタイミングで知り合いの異性を紹介し合うようなこともしていた。

 あるとき私はH子に、八木という三十路半ばの友人を紹介した。街コンで知り合って以来、飲み友だちとして付き合っていた男だ。一流国立大学の出で、一流企業に就職しており、高収入で、経歴に一点の曇りもない。年下の私にも気さくでユーモアもあって、H子が付き合うのに中々悪くないと思った。

 私を含めた三人で食事をしふたりを引き合わせると、思惑どおり彼らは上手くゆき付き合うことになった。

 しかし彼女は、いや私たちは、とことんツキに見放されていた。

 彼らの関係がまだ浅いうちに、H子は八木の子どもを妊娠してしまったのだ。二人とも未だ子どもを持つ覚悟ができておらず、結句、話し合いのすえ堕ろすことになった。

 手術の日、いつものように私は仕事の片手間にH子とLINEをし続けていたが、正午辺りになってラリーが途絶えた。それで、きっと今ごろ手術を受けているのだろうと思った。

 中絶の方法は、中学生の頃に見た性教育の図解で覚えていた。膣に金属製の器具を入れて搔き回し、胎児を液状にして母体から吸い出す。それは想像を絶する苛酷さだと思った。だから、さすがにその日は入院するものだと思っていた。けれどH子は、「日帰りで出来るくらいの手術らしいから、あんまり心配しないで。」と言うのだった。

 東北の片田舎から夢を描いて上京した無垢の少女が、ある日どこの馬の骨とも分からぬ男とできた子どもを中絶する未来なんて一体どうして想像できただろう。H子の屈託のない笑顔に到底似つかわしくない不幸に頭を抱えた。

 せめて独りにしたくないと思い、職場を早退し、H子を迎えに新宿の産婦人科へ行くことにした。きっと強がっているはずの彼女が寄りかかれるよう、強い男として振る舞わなければならないと思った。しかし私という男は、手術の仔細を想像し職場のトイレに駆け込むと、昼に食べたものを嘔吐した。

 夕刻、病院に到着するとH子の手術が終わったばかりだった。担当の女医や看護婦の視線が痛かった。

「来てくれたの。」

 H子は力なく笑った。意識の朦朧としているH子の肩を支えてタクシーに乗せ、当時彼女が住んでいた埼玉県・戸田公園駅近くの家まで送り届けた。

「明日は仕事休みなよ。」

 と伝えたけれど、しかしまるでこんなことは何でもないことなんだと誇示するように、H子は翌日もいつもどおりに出社した。

 後日、私は八木と二人で酒を飲んだ。

 H子が中絶する日の早朝、八木はH子と新宿のカフェで会い25万円を手渡していた。

「最低限の責任は取れたと思えるようにした。」

 八木はそう言って酒をあおった。その物言いがトサカに来た。勿論、今回の妊娠中絶で悪いのは八木だけじゃない。だから彼だけを責めるのはお門違いだと解っていた。解っていたが、それでも、どうしても言葉が刺々しくなった。

「中絶費用は安くないですけど、痛みを味わわないだけ男は十分お得です。25万くらい、大したことじゃありませんよ。」

「わかってる、しばらく自重するよ。」

「しばらくとは何だ、こんなことが何度もあって堪るか!」と怒鳴りたかったが、しかし口にはしなかった。そして一息ついて八木は言った。

「彼女、イイ人過ぎるね。めちゃくちゃ罵ってくれたら、その方が俺も救われたのに、何も言われなかった。逆に謝られちゃったよ。」

「八木さん、救われたいなんて思ったらダメですよ。これから背負っていって下さい。」

 その日、八木は珍しくしたたかに泥酔し、路傍に安くない酒と肴をぶちまけていた。

 中絶をする理由は世の中に数多あるから、その承諾書に男の名前はかならずしも必要ではないらしい。そんなことで八木はH子の手術には付き合わず、その日の朝も会社へと出勤した。

 他人の関係性に感情移入することは僭越なのだと理解はしている。けれど、H子より仕事を優先する八木の振る舞いを私は非道のように思った。

 そして結局、それで二人の関係は終わった。

 手術によって傷ついた身体を引きずりながらフルタイムで勤務していたH子だったけれど、悪いことは重なる。

 その時期、職場の上司が異動で代わりH子はパワハラを受けるようになっていた。

 働いていた都市銀行で、H子は窓口業務を担当していたが、しかし口下手なH子の営業成績は決して芳しいものではなかった。目標とされた営業ノルマが未達であれば、担当として扱う保険やらの商品を自分で購入しノルマに充当しなければならない。いわゆる自爆営業を求められた。勿論その分が会社から補填されることはなく、単に可処分所得が目減りした。

 それでもなおノルマが未達であれば、もはや人間扱いは望めない。ほんの些細なミスを摘示されては責め上げられ、貶されることになる。その分窓口業務に出られる時間が少なくなり、また次のノルマも未達に終わるという負のループに入ってしまっていた。

 産婦人科に通うため何度も会社を早退しなくてはいけなくなったこと、手術のために仕事を休んだことをプレッシャーに負けてサボったのだろうと指弾され、肉体の痛みを抱えて動きが緩慢になっているところを邪魔だと押しのけられた。

 けれど、信用していない職場の人間に中絶のような弱みを釈明するわけにはいかなかった。

 人には誰しも語らない不幸がある。そんなことは当然誰もが知ることなのに、しかし他人が抱えてしまったかもしれない不幸の存在には、誰もがお構いなしなのだ。

 そんな日々を送っているうちに、H子は次第に心を持ち崩し弱っていった。しかしそれを案ずるようなお人好しは職場にはいなかった。

 ただ、彼女が心を壊してもう使い物にならないかもしれないから、新しく派遣さんを採用しなければならないんじゃないか、という酷薄でただならない噂が流れただけだった。

 H子は結局、それからしばらくして仕事を辞めた。

 

 三

 

 後日、私とH子は有楽町のカフェで落ち合った。

 私がコーヒーを頼むと、H子は、

「何も要らない、水でいい。」

 といって何も選ばなかった。とはいえ人数分は注文しなければならず、私は自分用にコーヒーを二杯頼んだ。

「職場の居場所も、健康な心と身体もなくなっちゃった。本当は子どもが生める身体だったのに、もう無理かもしれない。」

「手術の前、看護婦さんに『誰も迎えは来ない。』って言ったら、看護婦さん、哀れなものを見るような顔をしてたの、忘れない。惨めだった。」

 H子は始終その悲しみを口にし続けていた。

「だからね、あなたが待合室にいたの、泣きそうになった。助かった。」

 そもそも八木を紹介したのは私なのだ。因果を辿れば、私がいなければこんなことにならなかった。そのことに思い至らないH子ではないはずだ。しかし私に恨み辛みが向けられることはなく、そのことを居心地悪く思った。

「エコーなんてさぁ、こんなもの貰ったんだけど、どうしたらいいの?」

 捨てるのも持っているのも辛い、と言ってH子は胎児の写ったエコーの写真をピラピラさせて見せるのだった。

「良かったらオレがしばらく預かるよ。預かるから、早く仕舞いな。」

 それは埋め合わせでもあったけれど、H子は呆れたような声で言った。

「あのねぇ、止めなよ。水子の怨念が籠ってるんだからね。」

「自分でそんなこと言うなよ。怨念なんかオレには効かないよ。」

「あなたって本当に不思議な人。普通、そんな面倒臭いこと引き受けないよ。」

 H子は笑った。

「最近、よく考えるんだ。あなたが私の前に現れたのには、何か意味があるんじゃないかって。だからあの子が私に降りて来てくれたのにも、きっと意味があるんだって。」

 H子は日頃から子どもは嫌いだ、要らないと口にしていた。

 しかし実際に妊娠を経験してからは、子どもの目線で物を語ることが増え、「降りて来てくれた。」だなんて言うようにもなった。女というのはそういうものなのだろうか。少なくとも私には、彼女が自分で言うほど「母親になれるような器じゃない。」とは到底思えなかった。

「ずっと自暴自棄に生きて来たからかな。私のことを戒めるために降りて来てくれたのかな。」

 結局、私はエコーを預かることにした。 

 仕事を辞めたH子は転職活動を始めた。

 手術以来体調を崩し、職も失い、H子の置かれた状況は楽ではなかった。そういうものから目を背けるように、H子は転職活動に没頭していたが、しかしアガリ症な彼女の転職は中々上手くゆかなかった。

 見かねた私は、彼女のエントリーシート作成や面接の模擬練習に付き合うようになった。毎週末、朝から晩までカラオケに籠り面接する企業の対策に七転八倒した。

 二人で一通エントリーシートを書き上げる度に、私たちは大袈裟に喜んだ。少しでも不幸を忘れられるように。

 面接の練習で試験官役の私がふざけた質問をして、H子が思わず吹き出す。私もふざけるのに必死だった。そうして彼女が笑う度に息が吹き込まれ、少しずつ生き返っていくように感じていた。

 しばらく抜け殻のようだったH子も、数週間も経つと元気を取り戻しているように見えた。

「あなたはどうして弊社を志望したんですか、だって。うるせ~、お金に決まってるじゃんね。」

 私が疲れてそういうことをこぼすと、

「ちょっと静かにして!いま名案が思いつきそうなの!」 

 などといって怒られるようにもなった。

「わたしね、色々考えたんだけど、あなたと一緒に働きたいの。」 

 そんな日々を送ってしばらく経った頃、H子が思い切ったように切り出した。私の勤める政府系金融機関の求人募集を私に見せ、

「やっぱ、ダメかな?」

 とはにかむH子に、私はかぶりを振った。

「勿論ダメじゃないよ。挑戦してみよう。」

 私の職場も志望倍率は百数十倍を下らない。けれど、現に私はそれをくぐり抜けて働いているのだから勘所は判る。現実的な目標だと思った。

 私の職場に狙いを定めてから、H子は一層真面目に対策に打ち込んだ。そしてしばらく経ったある日、H子から電話が掛かって来た。

「実はね、発表があります!何と書類選考と一次面接に通ったのです!次は役員面接だって!」

「おお!おめでとう!」

 役員面接まで残ることができるのは、ほんの数人しかいない。ここまでくれば倍率は2倍以下だった。

「あなたのお陰だね。」

「いいや、H子の実力だよ。」

 うん。といってH子は笑った。

「これでさ、本当に受かっちゃったら笑うよね。そんなこと、あるのかな。そうなったら良いな。」

「ここまで来たら全然あるよね。」

「あなたがいなかったら、わたし独りだった。中絶のことだって、親にも言えないことだから。いつもずっと一緒にいてくれてありがとう。」

 H子が電話口で泣き始めた。あんなことがあっても、今日まで一度も泣いた顔を見せていなかった。 やっと、やってきたことが結果として出つつあった。私たちは、これでやっと次のフェーズに進めると思っていた。

「オレ、東北ほとんど行ったことないんだ。故郷には実家のお墓あるんでしょ?案内してよ。そのときエコーも供養しよう。」

「さすがにあんな田舎まで来て貰ったら悪いよ。」

「そんなことはない。温泉にも入れるし、良い骨休めになりそうな気がする。」

 H子は笑った。

「そうだね、悪くない。一緒に見て回ろう。まずは花巻温泉かなあ。」

 でも結局、H子は私の職場には受からなかった。そして私たちがその話題を口にすることはもう二度となかった。

 ある日エコーについて、「もう要らないから、捨てるか返してくれればいいよ。」と言われたけれど、私は捨ても返しもしなかった。

 

 四

 

 その後、非正規の仕事を転々としているうちに、H子は自分が会社のような組織につくづく向いていない人間なのだと確信するようになり、そのうち働こうという意欲もなくなってしまった。

 しばらく貯金を切り崩しながら一人で国内を旅していたH子だったけれど、あるとき知り合いに紹介された男性と結婚し、専業主婦となった。

 それは「結婚すれば何かが変わるかもしれない。」という、どちらかといえば消極的な結婚だった。年齢も三十路前となり焦っていた側面は否めない。しかし妥協的であったとしても、少なくとも結婚に値する男と結ばれたのだ。最低限、食い扶持に苛まれることはない。だから私は、それはそれで目出度いことなのではないかと呑気にも思っていた。

 しかし夫婦仲はあまり上手くはゆかなかった。旦那さんにもH子にも、何か特別悪いところがあったというわけではない。

 ただ二人とも少しマジメすぎたから、日常の数多ある些細な軋轢を無視することができなかった。次第に旦那さんはH子の一挙手一投足に怯えるようになり、H子もまた、自分の態度が旦那さんを追い詰めてしまうことを気に病むようになっていった。

 ところで私はといえば相変わらず独り身で、事業を興し損ねた挙句、先物に手を出し数千万円という多額の借財を重ねていた。日々口に糊することさえままならない有り様と成り果て、私の周りからは友人も女も蜘蛛の子を散らすように離れてゆくのだった。

 そんなことを私はH子に伝えたことはなかった。けれどある日、言外に私の窮地を察した彼女が山のように食糧を送ってくれたことがあり、私を心配してくれる他人がこの世にいることの有難さを思った。

 それでしばらく凌いでいるうち、まんまと会社員として再び働き始めるようになった。爪に火を灯すようなものではあったけれど、徐々に生活は回るようになっていった。

 その後、旦那さんの転勤に合わせてH子が地方住みとなってから、私たちが直接会う機会は少なくなっていた。けれど日々LINEで連絡をとるような関係は続けていた。

 専業主婦となり外界との関りがなくなったためか、H子の「どうなっても構わない。」然としてやさぐれた言動は、婚前より拍車がかかっていった。

 といって改めて働きに出たり、何かサークルのようなものに嵩じる場所も地方の田舎ゆえに転勤先にはなかった。元々そういう退屈さを嫌って上京したH子にとって、田舎暮らしは苦痛以外の何ものでもなかった。そうして、H子が結婚してから2年の月日が流れた。

 ある日、用事があるといって東京に来たH子から連絡が来て、食事をした。

 平日の昼間、人影もまばらな有楽町のファミレスで、H子はドリンクバーも頼まずお冷やだけでしばいていた。久しぶりに会ったH子はやつれた顔をしていて、随分な寝不足であることが伺われた。

「何か、悩んでるんだね。」

 と訊くと、また子どもを妊娠中絶したことを知らされた。それは旦那さんとの子どもだった。

「つわりが酷くてね。わたしイカれてるでしょ。」

「男のオレにつわりのことはよく分らないから、何とも言えないよ。」

「つわりが酷くて、何も出来なかったの。それで横になってたら、旦那に酷いこと言われて。彼は私が妊娠していることにも気づいてなかった。それで、ああ、この人のもとで子どもを育てるのは無理だって思ったの。あなたには、この話はしておこうと思ってね。」

 彼女の精神からミシミシと軋む音がしているのは判っていた。けれど、私にできることは何もなかった。そのことが歯がゆい、と伝えると、

「そんなの、あなたの周りの人もみんなあなたにそう思ってるんだよ。」

 と言われ、返す言葉がなかった。

 

 五

 

 今年になり新年早々、H子から「もう限界なんだ。」と告白された。

 一昨年、無一文になった頃、私はH子の預かり知らないところで自殺を幾度か図り、いずれも失敗していた。けれど彼女もまた同様にして私の預かり知らないところで未遂を経験していたらしい。だからH子は私の窮状を察し、手を差し伸べることができたのかもしれない。 

 かつて私たちは、理想の死に方について語り合ったことがある。

 それは、睡眠薬と酒を飲み昏睡状態になったH子を私が絞殺し、私はその勢いで同じく睡眠薬と酒を飲み首を吊る、というものだ。H子は苦も無く美しい体のまま確実に死ぬことができ、私は死ぬのに足りない勇気を得ることができる。

 とはいえ飽くまで机上の空論であって、話が現実みを帯びてくるといずれ他の話題に移り実行はお流れになるのが大抵のことだった。

 けれど、今回はそうならなかった。

 長年苦痛に耐えてきたけれど、もう耐えきれない。あの方法で私を殺して欲しい、一緒に死んで欲しい、と言われ私は、「わかった。」と応えた。

 3月17日に迎える誕生日で、H子は31歳になる。その前には死にたい、と言った。それは「30歳いっぱいまで頑張って生きたけれど、それでも生きる気にならなかった。」ということを確認し、納得するためなのだと言った。

「ところで、付き合って欲しいことがある。」

 と言われ、後日私たちは神奈川県・あざみ野駅で待ち合わせをした。

 あざみ野は横浜の住宅エリアで、目的もなく行くような場所ではない。先導して歩いてゆくH子についていった。周囲を見回しスマホで地図を確認しながら背中を丸め、とぼとぼ歩いてゆくその後ろ姿は本来の長身を思わせないほどに小さく、弱々しく見えた。

 一月の凍てつく風に肌が痛み、家の間を吹きすさぶ音がときおりH子の声をかき消した。そのことに、私は苛立ちを覚えた。

「わたしね、腹違いの兄がいるの。それが、この辺に住んでいるらしいのよ。」

「会ってみたいっていうこと?」

「ううん、いいの。ちょっと様子が見たいだけ。」

 H子の父親は自殺で亡くなっていた。その第一発見者はH子だった。

 首を吊っていた父親を見て、幼いH子はよく状況を呑み込むことができずにいた。それで、通報するのが遅れたのかもしれない。父親の死はわたしのせいだったのかもしれない。そのことを、H子はずっと心に仕舞いこんでいた。

 私もまた家族を自殺で亡くしていた。だから気持ちはよく解る。身内の自殺はその血族に暗い影を落とすことになる。私たちは自殺で死ぬ「才能がある。」のかもしれない。そのことが、事ある毎に脳裏にちらつくことになる。H子の心には、いつも何処かに父親の存在が影を落としていた。

 ところでH子の父親はバツ1で、前妻との間に一男をもうけていた。H子は父親の影を追い、暇にあかせて戸籍を調べたりと色々と手を尽し、遂に兄の居場所を調べあげたのだった。

「ここみたい。」

 駅から徒歩十数分、社宅らしきアパートの前でH子は立ち止まった。郵便受けを確認すると、確かにH子の旧姓と同じ苗字があった。

「子どもがいるみたいだね。」

 金属製の無機質な郵便受けの蓋には、人気アニメキャラクターのステッカーが貼られていた。

「そう、幸せなのね。良かった。」

 努めて無感情そうに言うH子に、

「つまりH子は、お兄さんがオレと同じように独り身で打ちひしがれてるんじゃないかって心配していたんだな?」

 と訊くと、H子は破顔した。

「そういうことになるのかもしれないね、悪いけど。」

「全く……。とりあえず、家庭を作って立派にやってるっぽいよね。そりゃ、その中身までは知りようがないけど。」

「来て良かったよ。一応、これで我が一族のDNAは紡がれていくってことね。」

「そうかもしれないけど、それはH子と関係のないことだよ。」

「いいの、関係あるの。気になっていたから、すっきりした。これで心置きなく逝けるよ。」

 その後2月になり、H子は旦那さんとともに台湾へ一週間ほど旅行をすることにした。それは随分前から計画されている予定だった。

 暖かい国へ行けば、あわよくばそれでもう少し生きてみようかなという気持ちになるかもしれない。と私だけでなくH子自身も期待していた。

 しかし実際には、旅先でさえほんの僅かにも心躍らないことを発見し心が完全に「ダメになってしまった。」ことを確認しただけだった。もはや現実逃避の方法さえ失われていることに、彼女は寧ろ安堵を覚えた。この世に未練がないことを確信した、と言った。

 

 六

 

 2月末に帰国してから、H子はほとんど家に帰らず神奈川県・川崎駅近くにあるビジネスホテルに滞在していた。外出する場所もそうない田舎でうつうつとしているよりは、よく知らない街でひとり過ごす方が気楽だったのかもしれない。

 川崎駅は私の家に一番近い基幹駅だったから、仕事終わりに直接会って話すのに都合が良かった。といっても、いつものようにとりとめのないことを話すくらいだったけれど。

 そして3月になり、6日金曜、夜20時。H子から、

「そろそろ、ちゃんと話し合いをしよう。」

 と言われ、彼女の滞在するホテルで待ち合わせた。

 私たちはかつて海外で何度もそうしたように、ホテルの一室で一晩中話し合った。生きるべきか死ぬべきか、そもそもどうしてこんなことになったのか。

 それだけでは足りず、翌朝になっても川崎の町を延々散歩しながら、何時間も話をした。私たちの人生について、ともに過ごした時間について。

 話題がそんなにあるはずはない。これまで何度も話してきたような同じ話を何度も繰り返していた。

「私たち、頑張ったよね、必死に生きようとしたよね。」

 と確認する彼女に、

「ほんとにね。」

 と返す。何度も何度も、何度も何度も。ただただ離れ難かった。ここで別れたら、明日が来てしまう。明日が来たら、いずれその日が来てしまうんだ。

「痩せるために、ファストフードも甘いものも我慢していたのに、一体何の為にそんなことをしていたんだろう、どうせ死ぬのに。」

 昼頃になり、商店街のカフェのショーケースを遠目にH子は呟いた。

「食べて良いんだよ、食べようよ。一口だけ食べてみて、気に入らなかったらオレが食べるから。」

「もういいの。食べて良いと思ったら、逆に食べる気なくなっちゃった。」

 H子の横顔が影になり、その表情はこの世の何にも期待していないように見えた。私が彼女との約束を果たし、その命を奪うこと以外は。

「H子、オレと出会って良かった?オレと出会わなければ起こらなかった辛いことは沢山あったよね。今日、こうして死ぬ決意を固めることもなかったかもしれない。」

「出会って良かったに決まってるじゃない。あなたと会う前からずっと、わたしは死にたいと思っていたの。でもね、あなたと一緒にいる時間は、本当に楽しかったな。一緒に色んなところ行ったよね。だから明日はもっと楽しいことがあるかもしれないって期待しちゃった。だからこんなに長く生きられた。いや……生きちゃった、かな。」

 オレもだよ。と返す代わりに言った。

「H子、オレは君と一緒には死ねない。オレが死ぬのをきっかけにして欲しくない。オレも君の死を言い訳にして死にたくない。」

 私だって今すぐ消えてしまいたい。死んだ方がいっそ楽だと何度も思った。一人で死ぬのは寂しいし不安だから、誰かが一緒なら安心できる。それでも、どうしてもご免だと思った。

「そう。でも私もう耐えられないから、一人でもやるよ。」

「それは止められないけど……。」

 私たちには一般的な治療も精神薬も効かなかった。例えいっとき薬でしのいでも、結局まのびした苦しみによって真綿で締められるように日々を送るだけなのだと、私たちは知っている。

 希望があるとすれば違法薬物くらいのものかもしれない。しかしそれも試していないだけで、怪しいものだ。精神病棟に閉じ込められ自由を失うくらいなら、それこそ死んだ方がマシだと思った。

「そうだ、ねえ。もんじゃ食べに行こうよ。」

 とH子が言い出し、私たちはその辺にある適当な鉄板屋に入った。

 もんじゃ焼きを初めてだというH子に、私は丁寧にもんじゃのタネを刻み土手を整え焼きを入れていった。

 それを見ながら、「こんな大雑把な料理ある?」などと言っていたH子だったけれど、ひと口食べて「おお、これは中々悪くないですねえ。」と笑っていた。

「美味しいんだね、もんじゃって。糖質もそんなに無さそうだし、もう一個いきたい。」

「美味しいでしょ。また一緒に食べに行こうよ。」

 ふたつ目のもんじゃは、H子が見よう見まねで焼いてくれた。

「ううん。もう多分、これでお腹一杯だよ。」

 H子はコテでもんじゃの土手をハートの形に整えた。

 寂しいからって私たちは結婚しなくて良かった。お互い友人でいたから、丁度良い距離感で、無二の理解者でいられた。それは私たちの共通理解だった。

 私たちにとって、この世は苦界だ。

 治療は試した、趣味も作ろうとした、資格の勉強もした。だけど心が楽になることも、何かを楽しいと思う気持ちも、そして転職して再び働く勇気もわかなかった。

 ただ生きて呼吸しているだけのことが、火の粉を吸わされているような耐え難い苦痛で、それがこれからもずっと続いていく絶望ばかりがどうやっても消えてくれない。私はそのことをよく心得ていた。

 それでも、私にとって彼女は間違いなくゴミ溜めの中で見つけた宝石のような存在だ。彼女を失うことが耐えられない。けれど、生きて苦しみ悶える姿も見ていられない。矛盾した思いが渦を巻いていた。

 でも、もし彼女があんなに嫌った孤独の中ひとりで死んでいくのをただ見送るようなことになったら、私は自分を許せないと思った。

「H子、オレは死なない。その代わり最後まで一緒にいる。勿論気が変わるのを祈ってるけど、絶対ひとりにしない。」

 3月17日、31歳の誕生日を迎える前に実行するのだとH子は言っていた。あと10日残っていたけれど、H子はその具体的な実行の日について、「今日やる。」とか「じゃあ明日。」だとか言っていたが、「オレの心の準備がつかないから。」といって一週間だけ待って欲しいと告げ、その日は別れた。

 彼女と別れてから、思案を巡らせた。本当に解決策はないのか。

 辛いだけの5年間ではなかったはずだ。楽しいこともあった。彼女の置かれている現状は決して世界の相対的に超大の不幸とはいえないはずだ。

 ああでも……。

 でもきっと、人は他人からみたら「そんなこと。」で死ぬんだろう。「そんなこと。」が連続したり、タイミングが悪かったり、この世の自殺の大半がきっと、本当は「そんなこと。」なんだろう。「そんなこと。」なんて存在しない。犬に吼えられたり、急な雨に降られたり、どんな些細なきっかけでも人は絶望しうるし、死ぬときに死ぬんだろう。

 いや違う、違う違う!!

 自分が死ぬのを正当化するために考えた手製の矮小な屁理屈が思考の邪魔をする。どうして私はこんなことばかり考えてしまったんだろう。彼女を苦しませずに生かす方法を思いつかない。私では、彼女を救えない。何かないか、何かないか……。

 ネットで検索したり、SNSや職場の同僚に「死ぬのを思いとどまるくらい楽しい何か。」について訊いて回った。

 けれど、結局、諦めた。

 そんなものが存在しないなんてことは私自身がよく知っているし、それに私が彼女の最期に立ち会うことを許されるのは、私が彼女の絶望を理解できる数少ない人間だからなんだろう。彼女を救わない、救えないから、私は彼女の理解者で、味方でいられたのだ。

「最後くらい家族と話したら?」

 と提案したけれど、H子は拒んだ。血縁の家族が、私たちのことを理解するのは難しい。それは家族仲が良いとか悪いとか、優しいとか優しくないとかということとは全く別の問題だ。私が自分の最期を自覚していても、きっと家族とは話さないだろう。相手が絶対に理解できない、しようとしないことを説明するのは骨が折れる。それをする体力はもう彼女には残っていなかった。

 もう、彼女が救われるには遅すぎた。

 

 七

 

 それから一週間後の13日、その日はあっという間にやってきた。約束どおり私は会社を休み、昼間から彼女と会って話すことにした。

 いつものスーツにいつものカバン、いつものクツにいつもの通勤経路、違うのは私の嵐のような心の中だけだ。

 そしてそんな日に限って、春日和の優しい風が吹いていた。若葉や桜、つつじ、菜の花の色の鮮やかさがいやに目について不愉快だった。私の隣を保育園の園児たちが乗るオレンジ色の手押し車が通り過ぎてゆく。

「あ、ちょうちょ!」

 と誰かが叫び、保育士さんが何かを言うと、園児たちはきらきら笑っていた。

 この世界には希望がこんなに溢れてるじゃないか、それに比べてお前たちの態度は何なんだ、どうしてそんな卑屈な顔をして、一体これから何をするつもりなんだ?そう突き付けられているようだ。私は苦痛を感じた。

 時間通りH子と川崎駅近くのカフェで落ち合った。

 ジャケットとミニスカート、黒いストッキング、それは今まで海外旅行に着ていた服装だった。

「今日、13日の金曜日だって。呪われてて私たちらしいよね。」

 H子は笑った。

 彼女の意思は固かったし、私も一週間で彼女の死を受け入れる覚悟を決めていた。まるで1分1秒が、ゴルゴダの丘を登るように感じていた。

 しばらくすると近くの席に子連れの家族が座り、まだ5歳くらいの少女が「しゅいまちぇん。」などと舌たらずな声で店員を呼んだ。

 H子はそれを見て、顔を顰めた。

「わたし、子どもの声を聞くと吐き気するようになってね。」

「そうか。じゃあちょっと早いけど、もう行こう。」

 そして私たちは先週と同じ、駅近くのホテルにチェックインした。

 入室するとH子は荷物の中からエコバッグを取り出し、私の前に置いた。

「これ、私の遺品。遺書も入ってる。私が死んだら開けてね。申し訳ないけど、お願いしたいことも書いてあるから。」

「わかった。」

「ちょっとシャワー浴びてくるね。」

 ホテルの部屋で一人になり、無音に耐えられず備え付けのテレビで適当なニュース番組を見ていると、間もなくH子がバスルームから出てきた。バスタオルに身を包み、化粧と頭髪は乱れていなかった。

「見て。」

 H子はバスタオルを外すと、裸体を露わにした。その青白い身体は彫刻のようで、今日まで美しい体型を維持するのに気を遣って生活していたことが伺われた。

 しかしストッキングを脱いだ脚には、大腿まで赤紫色の網状皮斑が覆っていた。それはまるで地の底から闇が這い上がりH子を飲み込もうとしているようで、その痛々しさに思わず目を背けそうになったが、しかしH子の射るような眼差しの鋭さに、身じろぎひとつできなかった。

「わたしのこと、忘れないで。」

「忘れられるわけ、ないじゃん。」

「でも死ぬところは忘れた方がいいよ、トラウマになっちゃうからね。」

 真剣な表情のままそんなこと言うところが、本当にH子らしいと思った。

「今さらトラウマなんてどうでもいいよ。ちゃんと覚えてる。約束する。」

「お願いね。」

「もう記憶に刻み込んだから、そろそろ服着てくれる?」

 私が言うとH子は、うん。といって笑った。

 私たちはそれからしばらく酒をちびちびやりながら過ごした。H子は、本当にやるんだろうか。この期に及んでも私は、H子の決意が嘘であって欲しいと思っていた。が、日付が変わった頃になり、H子が、

「そろそろ頃合いだから、一度予行練習しよう。」

 と言い出し、数錠の睡眠薬を酒で流し込むとドアノブに持参したロープを結び、首を掛けて座り込んだ。

 それを傍で見ていた私だったが、みるみる内にH子の顔から表情が消え、ものの数秒で目を見開き別人のような容貌に変わった。

 見たことのないH子、H子の顔をした恐ろしい形相の何かが、両手足をバタバタ動かして脱力し、焦点の定まらない目で私を見詰めていた。

「うわああああああ!!」

 私は恐ろしくなり、H子を抱きかかえ首に掛かったロープを解きベッドに運んだ。そしてH子の名前を何度も叫び頬を叩いた。何度か揺り動かすと、H子は目を醒ました。

「え……?わたし、どうしたの?あれっ、どうして泣いてるの?」

 気付いたH子が呑気な声を出した。

「今、今……あっちに行きかけてたよ、あっちに行ってた……。」

 全身に戦慄が走り、震えが止まらなかった。H子の死を受け入れる覚悟なんて、ものの一瞬で吹き飛んでしまっていた。

「なんで、止めたの?そんなことしなくて良かったのに。どうして、どうして……わたし、死ぬことも許されないの?もう死なせてよ、お願い……。」

 泣き始めるH子に私は懇願した。

「死なないでよH子、死なないで欲しい。君のことが大事なんだ、こんなこと止めようよ、止めて欲しい。今止めてもH子の意思の強さは疑わない。明日になったら、会社なんてほっといて一緒に何処か他の国に逃げよう。一緒に行きたいところが沢山あるんだ、死んだら終わりなんだ。一緒にいて欲しい。君のことが大事なんだ、頼む、頼むよ。何でもするから、お願いだよ。」

 私はベッドの下に跪き、H子の手を握り締めた。目から涙が溢れて止まらなかった。

「もうダメなの。わたしもあなたのことが大事だよ。私の大切な人にこんな思いをさせて、ごめんって思ってる。でももう、許して。」

「だとしても今日に拘る必要なんてないじゃないか、3月14日なんて、何でもない日じゃないか。君の誕生日まであと何日かある。せめてそれだけ生きてくれよ。」

「意味はあるの、大事な日なの。3.14は円周率、あなたの心の中で私はずっと終わらないってこと。」

「何だよそれ、ギャグじゃないか。そんなこと、普通言う?」

 私は思わず笑ってしまった。

「わたしね、後悔してることがあるの。あなたと結婚してれば良かった。本当はね、あなたのことを愛してた。でも半端な気持ちであなたと結婚して、失うのが怖かったの。」

 

 そんなこと今さら言うの、ずるいよ。なんて自分勝手なんだ……。H子もベッドから降り、私を抱きしめた。

 火傷するように熱いH子の身体を抱き、失うものの大きさを思った。この先私は、もっと沢山のものを失うことになると思う。ずっと一人きりかもしれない。孤独の道の途中で立ち止まるとき、この熱の記憶だけが太陽かもしれないと思った。

 震えは止まっていた。そして徐々に、H子の身体から力が抜けていくのを感じた。さっき飲んだ睡眠薬が効いてきたらしい。

「お願い、身体が動かないの。今なら楽に死ねると思う。もう、殺して。」

「本当に後悔しない?」

 H子は力なく頷いた。私は力の抜けてしまったH子を抱きかかえ、再びドアノブにロープを結びつけると、H子の首に掛け、その身体をゆっくり下ろしていった。

「さよなら、ありがとう。」

 H子は消え入るような声で呟き、笑った。

「H子、ありがとう、さよなら。」

 私の声はもう、H子には届いていなかった。ほんの十数秒足らずで空気が抜けてしまったようにH子が小さくなっていくのを感じ、魂が抜けてゆくのだと思った。

 私はひたすら彼女の前で頭を床に擦り付けていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……。」

 

 

 永遠のように長い夜が明け、気がつくと、安からな顔をしたH子の魂の抜け殻がそこにあった。

 カーテンの隙間から、朝陽が差し込んでいた。

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死に至る病について


「おはよ」
 彼女が勢いよくカーテンを明けると、陽光が差し込んできた。部屋の空気を温かく照らし、さらさら流れているのがわかる。
「この部屋、眺め良いね」
「そう?うん、南向きだからかな」
 ベッドに寝そべり空を見あげると、白い雲が風に流され少しずつ動いていた。このままあの雲の行く末を見届けたいけれど、そうはいかない。会社へ行かなければならない。
 なんとか布団から抜け出してスーツに着替えながら、以前にもこんな景色を見たことを思い出していた。それは消してしまいたい、忌まわしい日々についての記憶だ。


 5年前、当時住んでいた下町の安アパートで洗濯機のすすぎ終了を知らせるアラートがけたたましく鳴っていた。急かされているようで腹立たしく無視してみる。が、「そろそろ止んでくれるだろう」と思った頃を過ぎてもアラートが止まらない。やがて根負けして、不機嫌な気持ちのままカゴを片手に洗い物を取り込み、ベランダに干していく。
 忌まわしいのはYシャツだった。皺をパッと払ってから、針金のハンガーにかけていく。これは月曜に着たもの、これは火曜、これは水、木、金、とその1枚1枚が、まるで「また今週も何の進捗もない無駄な人生だったよな」と突き付けてくるようで、苦痛を感じた。
 溜息つきつつ干し終わり、部屋の隅に積み上げた文庫本をとって万年床に横になる。そうしてベランダを見上げると、快晴の陽光が5枚のYシャツの白さを発色していて、風になびくさまがとても絵になるな、と思った。そのことがかえって私には、自分の心の暗澹さを際立たせるようで不愉快だった。
 あの部屋には2年もいたんだから、勿論雨や曇りの週末だってあったはずだ。それでも私が覚えているのはいつも薄暗い室内で、しかし外は快晴だった。


 就職し、間もなく婚活を始めた。合コンや街コンはあまり手ごたえが芳しくなく、そんな状況を嘆いていると当時親しかった女友達から出会いアプリpairsを紹介された。
 ものは試しと登録し、実際に何人か会ってみた。けれど、暫くは不発が続いた。そして数か月経った春頃、M咲と出会った。
 彼女は同い年で長身細身の色白な美人で、美大出身のデザイナーだった。
 優しく猫好きで、絵画だけでなく作曲にも造詣の深い彼女と、言葉や詞で表現することに関心のある私は話も合った。
 2回目のデートで気持ちを伝えるとすぐに付き合うことになった。料理も上手で、デートの度に手作りのお菓子を作ってくれた。
 いつも何かを諦めたような目をしていて、それでも彼女は私の良い所を目ざとく見つけては、優しく褒めてくれるのだった。人に褒められ慣れてない私が「きっとこの人しかいないんだ」と思うのに時間はかからなかった。


 しかし蜜月も長くは続かなかった。
 ある日、彼女から池袋サンシャイン水族館の入口にあるカフェに呼び出された。思い詰めた表情の彼女から聞かされたのは、要約するとこのようなことだった。
「私は過去の経験から男性恐怖症で、あなたが相手なら症状は起こらないと思っていた。しかし先日のデートでキスして以来、体調が悪化し日常生活にも支障が出るようになり、母からも別れを告げて来るよう言われた。あなたは私には勿体ない人だし、きっとすぐ良い人ができる。だから、私のことはどうか忘れて欲しい。」

 私は動揺して色々弁解の言葉を探したけれど取りつく島もなく、つい口を滑らせた。
「わかった、体調が悪いということだから取り合えず別れたことにして、距離をとってからまたやり直す方法を探ってみようよ」
 言い終わるが早いか、「では、別れるということで決まりですね。」と彼女は早足にその場を立ち去って行った。しばし呆然としたけれど、すぐに彼女のあとを追いかけた。
「また会えるよね?一応、友達ではいられるんだよね?」と問いかけると、
「いいえ、中途半端は良くないと思います。」ときっぱり断られてしまった。
 雑踏のなか立ちすくみ、彼女の背中を見送った。間もなくLINEもブロックされた。


 それから数か月、何とかM咲のことを忘れようと婚活を続けたけれど、女友達はできても恋人はできないでいた。その分、M咲への気持ちがどんどん強くなっていくのを感じていた。

 ある人肌恋しい夜があり、普段行かない下町のソープに出かけた。
 40代と思しきソープ嬢が現れ、私の表情を見るなり「悩みが深そうね」と言うのだった。M咲との経緯を話すと、女は「バカね」と言った。
「そんなの、彼女の職場の最寄駅で待ち伏せして、彼女を捕まえて土下座するの。「あなたのことが忘れられません、やり直して下さい」って頭下げるんだよ。少しでも情が残ってれば、連絡くらいは取れるようになる。でもそれはあなたのエゴだからね。相手にされなかったら、それきり忘れなさい。」
 ソープ嬢は、「今日は、話聞き代として500円だけ貰うわ。もしダメだったらまた来てね。」と優しく裏口から逃がしてくれた。


 しばらくして、私は乃木坂駅にいた。
 季節は秋に差し掛かり、コンクリート打ちっぱなしの地下鉄構内には、いつも電車の巻き起こす冷たい風が吹いている。ベンチで文庫本片手にその寒さに震え、ただただ惨めを身に染みていた。
 私には理由が必要だった。自分のしていることを正当化する理由だ、いつかは判らないけど、誰かに申し開きをしてみろと突き付けられたときの為に。
 ソープ嬢の言葉だけじゃない。理由を探せばM咲が話してくれた祖父母の話まで掘り出した。


 M咲の祖父は検察官だった。
 ある日、仕事で警察署を訪問しているときに盗難の被害届を出しに来た女性を見かけ、一目惚れした。彼は担当刑事から彼女の個人情報を強引に聞き出すと、連日彼女の家におしかけアプローチし、結果が実り結婚に至ったという、おおらかな時代の話だ。
「私、恋愛とか苦手だから、そういうのに憧れるんです。」と彼女が言っていたことを覚えていた。


 だからといって現代で実践するには許されるはずの無いストーカー行為について、私は「一目会うだけだから」と言い聞かせその醜さに目を瞑った。
 彼女の会社の最寄駅は複数あり、聞いていた彼女の退勤時間は深夜だった。赤坂駅、霞ヶ関駅、六本木駅、とにかく彼女の通りそうな駅に、時間を見つけては顔を出して、いつか彼女に会い、思いを伝えることを期待していた。
 そんな私に呆れた女友達の多くは私と縁を切り、残った女友達からも「私はだっちゃんの友達だから、だっちゃんが満足ならM咲ちゃんが不幸になっても関係ない。」などという温情によって辛うじて許されていた。


 季節は冬になり、年末のある日、M咲を見つけた。その驚きによって身体が硬直し、心臓が早鐘を打った。
 最後に別れた日から半年以上の月日が流れた。彼女は私を覚えているだろうか?急に話しかけられたらどう思うだろう?何度も反芻した筈の疑問が溢れてきた。だけど、これを逃したら次へ進めない。
「M咲さん!」
 意を決して声をかけると、最初「ん?」という表情をした彼女の目がみるみる開かれていった。決心したようにすぐ無表情になり立ち去ろうとする彼女の前に出て、頭を下げた。
「貴女のことを忘れられないんです。やり直して下さい、お願いします」


 あれから数年経ち、ふと思い立ってFBを見ると、ウェディングドレスに身を包み教会で家族から祝福を受けるM咲の姿があった。
 そうか、結婚したんだなあ、と思った。

 数年前のあの日、頭を下げる私にM咲は
「お付き合いしてる人がいるんです。もう、私の前に姿を見せないで下さい。」と告げ、雑踏の中に消えて行った。あれから、もう二度と会うことはなかった。
 男性恐怖症の話がウソか本当か、本当であったとしても乗り越えたのかもしれないけれど、いずれにしても私のしたことはただの異常行動で、彼女を怖がらせただけだった。
 私が誰からも愛されないことに苦しみ続けるのは理不尽なんかでは決してない。単に存在するだけで害悪の異常な人間だからなのだ、と確信した。
 その頃、かつて交際していた女を度重なるストーカー行為の果てに男が殺した事件が連日報道されていた。
 私は自分を恐ろしいと思った。あちら側の人間なのだと思った。
 ヤマアラシのジレンマのように、私が他人に好意を向けること、表現することそのものが害悪なのだと思った。受け入れられないこと、相手を傷つけること、どちらも恐ろしくてたまらない。


 先日投稿したエントリ「粗野に扱っていい人」は同様の経験をした方が少なくないようで、共感のリプライやDMを何件も頂戴した。その中に、余程わたしの有様が哀愁を誘ったということなのか
「今夜、うちに泊まりに来る?添い寝する?」
 とそういうDMを送ってくれる女性がいた。
 一も二もなく彼女のマンションの近所で待ち合わせ、まんまと闖入することにあいなったのである。
 好きな男がいると言う彼女と、布団で横になりながら朝の3時まで話した。暫くして彼女が寝息を立て眠りにつく。寝返りをうち、こちらを向いたその寝顔を見ていると、赤子のように無防備で、なんて可愛らしいのだろうと思った。
 彼女の上に手を載せると、体温や鼓動を感じ安心を覚えた。男が女と褥をともにすることの、生物としての自然さを思うた。

 まもなく朝が来て、スーツを羽織り彼女の部屋を去るとき、彼女が
「今日は、死なないでね」と優しく送り出してくれた。私は、寂しくてとても一人では生きてはゆけないと思った。
 それでも私は、自分が他人を愛する価値の無い人間だということを誰より深く知っている。
 こんな矛盾を抱え茫漠として過ごすには、なんて人生は長いんだろうと思った。

女しか使えない文字


 一昨年、中国の湖南省を旅しているときにある深山の古潭に数日ほど滞在していた。友人の結婚式に参加する為だ。
 中国で最も貧しい地域であり、外国人の訪問も滅多にないような場所であるだけに歓待され、私の拙い中国語にも拘わらず興味を以て話を聞いて貰い、また多くのことを教えて貰った。
https://datchang.hatenablog.com/entry/2019/02/05/095446

 そこに長老のような老婆がおり、日本の大男子主義(亭主関白、男尊女卑)の一方、中国には「女書」というものがあるんだよ、という話をしてくれた。
 女書とは、中国の湖南省を中心とした僅かな地域において女性のみが使用することのできた文字のことである。中国語の発声法においてはnvshuといい日本語にない発声をする為、便宜上「にょしょ」と読む。
 存在自体は少なく見積もっても数百年以前からあるとみられているものの、学問的には辛亥革命から数十年してやっとその存在が"発見され"、未だ研究対象として若い分野である。今では使用可能な者も少ないけれど、老婆は少し書くことができるのだという。目前でペンを走らせ何やら書いてくれたけれど、私には文字として認識できない形状をしていた。


 かつて中国では同姓同士の結婚は忌避されていた。中国人の姓は、基本的に土地と紐づいている。例えば一昨年私が訪問した龍漂鎮の元来の住民の姓は「呉」であり、呉姓を祀る霊廟さえ存在する。
 つまり同姓同士と結婚しないということは、別の村へ嫁ぐということである。
 中国はその広大な土地ゆえに、村と村の距離が基本的に遠い。今でこそ車で数時間の距離でも、舗装されない道を歩いていた時代には数日がかりだ。
 すると村民の人生は必然的に村の中で完結するのが基本となる。それが何世代も経ると、いわゆる「血が濃くなる」という現象が起こり、障碍児や虚弱児が生れやすくなる。
 そこで「同姓同士で結婚しない」(女は別の村の男の家に嫁ぐ)という知恵が生れた。血の近親相姦を避け次世代を守る為の仕組みだ。

 しかし他所の村へ嫁いだ女の運命は、決して明るいものではない。
 女は子供を産む為の道具であり、安くコキ使うことのできる労働力だ。親しい誰かに助けを求めることも、村外へ逃げることも基本的にはできはしない(纏足が推奨されていた時代でもある)。
 抵抗できない他人に対して、とことん残酷になることができるのが人である。 粗末な食事と苛酷な労働、そして日常的な心身への虐待、そんなことはザラだったという。それでも耐えなければ生きられない。

 そして女達の絶望が、女書を生んだ。
 言葉は感情を解体する。特に、悲しみや怒りといった負のものにおいて。
 紙という外部媒体に今日あった辛いことを書き出し一旦頭の中を空にすることで心の痛みを反芻せずに済む。
 女同士で書簡を交わし、庇い合い励まし合い、そして共感することでささやかな発散と抵抗を試みた日々があった。女書で気持ちを吐き出す時間だけが、希望のように女たちの心を満たしていた。

 それは今こうしてnoteを書く私と何ら変わらない。言葉は心を持った人間の希望の光だ。それでも女書は、女達にとって「思い出したくない悲しい歴史」を物語る。
 湖南省の伝統的な結婚式は、花嫁の実家に数日のあいだ泊り込み、血縁者だけでなく友人たちとも広義の家族としての絆を確認し合い、花嫁を花婿の家に送り出す。母は花嫁として嫁ぐ娘の行く末を知っている。だからあんなにも濃厚に絆を確認し合っていたのだ、と合点した。
 長沙の偉い学者が女書について聞きにわざわざ調べに来たけれど、老婆は協力を渋ったという。

「女書はもう要らないんだよ。良い時代だね。あの大男子主義の日本人の男が、はるばるこんな山奥にあの娘の祝福にやってくるなんて。きっと未来はもっともっと良くなるんだね」
 私は「そうですね」、と応えた。
 近所の子供と遊ぶ赤い伝統衣装を来た妊婦の花嫁が、笑顔で私を手招きしていた。

 

粗野に扱っていい人

 「粗野な人間がいるわけではない。粗野に扱って良い人間がいるだけだ。」

 とそんなことを言ったのは誰だっただろう。たまにこの言葉を思い出しては、それこそ正に自分のことだと思いいたる。

 先日デートをドタキャンしたあの女の子もきっと、大事な人が相手なら無断で約束を反故にするようなこともなかっただろう。
 けれどそれは異性の優越的な立場があってこそ成立するものなのであって、男だろうが女だろうが友人たちにとっての私はそうではない、と思っていた。だからこそ、少ないながら友人のことは私なりに大事にしてきたつもりだ。

 N子とは3年前、出会いアプリで知り合った。
 国際協力関係だっただろうか、それなりにインテリの仕事をしていた。結局付き合うことはなかったけれど、たまには合コンに誘ってくれることもあったし、職場が近かったから二人で飲むことも度々あった。
 出会ってから暫くして彼女が結婚したときには、N子の婚活卒業を二人で祝った。
 それ以来、疎遠になった。お互い基本的には夜しか空いていないから、既婚者となったN子と二人で会うことは憚られた。といって共通の友人がいるわけでもなく、また無理に会う理由もなかった。
 月日が流れ、LINEの通知に見覚えのあるアイコンが現れたのは先週のことだ。

「N子だよ、最近どうしてる?未だに独身なのかい?たまには話をしよう。」

 大枠ではそんなことで、流れのまま本日N子と再会することとなった。
 最後に会った日に飲んだ酒は美味しかった。何年も疎遠にしていたって、きっと時間が止まった関係性のまま楽しく話せるだろう。そして何より誰の特別にもなれない身のすさびには、友人が誰かと話したい夜に指名してくれることの有難さがある種の救いのように感ぜられた。

 錦糸町駅から徒歩数分のビル地下にあるおでん屋で待ち合わせ、再会したN子にタイの土産を手渡した。「相変わらずマメなのねぇ」と笑うN子は少し髪型が変わっていたくらいで3年前のままだった。

 梅酒で乾杯し、色んな話をした。彼女は仕事の現況、確定申告が面倒くさくて匙を投げていること。
 私は借金で首が回らなくなってしまったこと、ADHDだと判ったこと、タイでの事件や、婚活のアポを五連でドタキャンされたこと、せっかくホテルに連れ込んだ女の子に逃げられたこと、その他あれやこれや。促されるまま私が話している間、N子は手を叩いて笑っていた。

「何か、おれだけ喋ってない?」

 気付いてそう訊くと、「うーん」と唸ってN子は言った。

「実は私、離婚したんだ。姑との関係がうまく行かなくて」

 いかに元旦那が姑の肩を持ち自分をないがしろにしたのか、という話をN子がする間、いぶりがっこをつまみに酒を飲んだ。子供がいないから、さっさと次に進みたいと思って離婚を決断したんだという。

「まあまあ、私まだギリ20代だからさぁ~」

 そういって私のいぶりがっこを取り上げた。「あ、お前!」というと、

「だっちゃんが相変わらず不幸で何かほっとした。ごめんね。私、自分より不幸な人を見て安心したいって思っちゃったんだ。」

「自分の方がマシだと思ったでしょ」

「予想通りで笑ったよ。だっちゃんは本当に幸せにはなれないねえ」

「難しいね。一応アポは頑張って作ってるんだけどさ」

「諦めた方が良いよ。今日バレンタインのチョコもってこようかと思ったんだけどさ、勘違いされても困るし、やめた」

 そこから延々と私のいかに至らないかについて滔滔と語り始めるN子を見て、私は疲れて眠くなってきてしまった。

 N子から半額分の札を受け取りレジで会計している間、N子が斜め後ろから言った。

「ごめんね。付き合わせちゃって。」

「いいよ、そういう日もあるから。おれにもあるし。」

「私がだっちゃんなら、とっくに死んでるなって思ったわ。」

 そういう風に思われることには慣れてるよ、と言おうとして踏み止まった。目を合わせていなくて良かった。

「もう一軒いかない?」

「N子、自分の顔トイレでみた?真っ赤だよ。お開きにしよう、おれはまたいつでも付き合うから。」

「だっちゃんには彼女できないからね。借金あるし」

「うるさいんだよ、早く帰れ、酔っ払い。」

 彼女は酔ってはいたけれど、決して顔が赤くなんてなかった。ただもう、一緒にいるのがしんどくなってしまった。N子を改札に送り出してから、そのまま一人で立ち飲みのバーに入って電子書籍を暫く読んだけれど、あまり頭に入って来なかった。
 彼女にとって、かつて私は確かに友人だったんだろう。今夜のように私の不幸をいたずらにあげつらうことも、私の不幸を期待して話を聞きに来るようなことも無かった。
 今では感情を吐き捨てるだけのゴミ箱で、ああ自分の方がマシなんだと思う為の身近な物差しに過ぎない存在となってしまった。誰かに気持ちを吐き出したい、そして誰かの人生のいたらなさを責め上げたい日もあるかもしれない。けれど、失えない相手には言い留まるものだ。
 そして私を責め上げる思いつく限り全ての言葉を口にしたとき、きっとN子はこう思っていたはずだ。

 私がもうこれ以上友人を失いたくないと思っていること、だから何を言っても最低限謝れば許されること、そして最悪私との関係を失うことになったとしても、数年疎遠な男友達を一人くらい失ったって痛くも痒くもないということを。

 イライラしながらLINEの名簿をスクロールしたけれど、私には思うまま責め上げ感情を吐き出していい相手なんて、つまるところ私の方から失って良いと思う関係なんてないのだと判った。とそのようなことを相手に気取られてしまうから、今日のN子がしたように私はただ感情を吐き捨てるゴミ箱となるしかないんだろう。
 つまり誰の特別でもないとはそういうことだ。自分が誰かの特別な存在だという自負があるから、自分を粗野に扱う誰かを容易く切っても孤独にならないと確信していられるのだ。私はそうではない。


 スマホの通知を見ると、「また飲もうね!」とN子からLINEが来ていた。「早くお休み」と返事をし、彼女の名前をLINEから消した。

 

耳無し重助

 戦前、昭和一桁年。
 神奈川の相模で重助は生まれた。五人兄弟の末子であった。
 間もなく戦争が始まり、幼く貰い手がつくうちに重助は神奈川のさる海辺に在る料理屋を営む養父にもらわれた。
 とはいえ養父としても別段重助を可愛く思い引き取ったわけではなく、単に重助の実親にある何がしかの恩なるものを晴らそうとしたに過ぎない。
 戦時中でも魚は獲れる。漁港の町ゆえにその食生活は都会の人間に比べれば比較的真っ当なものだった。

 しかし、決して線が細かったり小柄であったわけではないけれど、色白で紅を差したような唇の重助の容姿は、浅黒く大柄の者の多い漁港では多少奇異であり都会者の様相であった。
 当時、「漁業関係者はみんなヤクザと思え」というほどに漁港の人間は反社会的勢力と密接に関係していた。漁業はシノギであり、荒っぽい連中にとって奇異なる捨て子の重助はイジメ相手として格好の標的となった。

 養親からはことあるごとに「鮪漁船に乗せちまうぞ」等と脅された。実際鮪漁船の多数停留する港町であったから、実親に捨てられた経験のある重助にとってその脅しは現実の刃を突き付けられるに等しい。
 
 養親のいる家にも外にも居場所のない重助が物思いに耽りがちな陰鬱な性格を獲得するようになったのも事の次第としては自然の成り行きである。
 とはいえ徴兵制が始まり徐々に目の上のたんこぶである大人の男たちが消えていくと、重助の気持ちは幾分晴れやかになり安穏な暮らしを得ることができた。

 しかしそれも長くは続かなかった。
 10代も後半となると徴兵年齢の引き下げに伴い、重助は東海から移転したばかりの横須賀鎮守府で訓練を受けることとなった。
 戦地で重助は勇敢な男だと言われていた。しかしその根底にあるのは、自分の帰る場所は何処にもない、いつ死んでも構わないという捨て鉢根性であった。

 しかし組織として動いていれば、捨て鉢となるのを許してくれないこともある。
 満州において作戦中、自らの無謀によってそれを庇った同期を死なせてしまうことになり、重助は上官から叱責を受けることとなる。
 懲罰用の鞭で百叩きを受け、その打撃の苛烈さによって右耳の上半分と聴力を失うことになった。

 聴力は兵士にとって重要な能力であり、それを失った重助は隊にとって足手まといでしかない。重助は他の傷病兵とともに日本に帰投させられた。
 現代と異なり、満州から帰郷するのも容易なことではない。道中亡くなる友人たちも多くいたが、衛生面の問題もあり重助は仲間とともにその亡骸を腐りきる前に海に放った。右耳の下半分は、そのとき代わりに腐り落ちて失うことになった。

 帰郷すると、まだ若い男の少ない時期であったこともあり養母から許嫁として近所の女を紹介された。だが、丁度そのとき養親の一人娘であるギンが奉公から帰ってきていた。
 奉公先の旅館で生意気な客を殴るという狼藉を働き暇を出されるほどお転婆であったギンは、再度奉公に出たくないばかりに重助との間に子をもうけた。
 そんなことで養親は致し方なく娘と重助との結婚を認めざるを得なかったのである。

 こうして重助は養親の料理屋で板前として働くこととなった。
 右耳を失っていたとはいえ肉体は健康な若者である重助は労働力として田舎で重宝がられ、商売はうまくゆき、料理屋は民宿に改築した。
 終戦して郷里に男たちが帰ってきてからも、意気消沈した他の男たちとは別に既に自分の城を持っていた重助は幅をきかせることができた。目の敵にされていた漁師たちからも「耳なし重助」と親しまれるようになった(普段は漁師用の耳あてのついた帽子で耳を隠していたのだが)。
 団鬼六等の文士や大物政治家との付き合いも生まれ、商売は順調、ギンとの間に三男一女の子供をもうけ、当時珍しく4人とも東京の一流4年制大学にやった。

 月日は流れ、末娘に男児の孫が生まれた。男児は色白で、重助にそっくりだった。
 三男児の孫は嫁に囲われ殆ど顔を見たことはなく、いっとう自分に懐いていた末娘がやっと近くに住み、孫を触らせてくれたのであるから、ほぼ初孫同然で可愛がった。
 娘に無断で孫を連れ出して漁船に乗せて勝手に遠征したり、旅行に連れて行ったりしては、娘に怒鳴られることが度々であった。

 重助が還暦を迎えた頃、いつものようにビールケースを抱えたときに、ぎっくり腰になってしまった。
 ぎっくり腰自体には過去に何度かなってはいたものの、今回は大層重く骨髄に注射を打ったり手術したりしても結局直らず、数ヶ月入院することになってしまった。老齢になるとはそういうことだ。
 やっと入院生活が終わり家に帰ったとき、民宿は既にギンと子供たち他従業員の手のみで回るようになっていた。俊敏に動くことのできない重助は足手まといでしかなく介入する余地はもはやなかった。

 「居場所」というものに固執していた重助にとって、自らの城である民宿にさえ自分が無用であるという確信をしたとき、自分の人生や自分の存在について大きな諦念が生まれたことは間違いない。重助の家は民宿の真横にあったから、猶更痛感していたことだろう。
 そこから痴呆が進み、人の言葉をきけなくなるのに半年もかからなかった。

 ただ週に何度か正気に戻る日があった。それがよかったのか悪かったのかは判らない。

 ある夏の日、孫が確か小学校2年生の頃だったと思う。夏休み、気まぐれに娘一家が泊まりに来た。タイミングよく重助は正気であり、久々に娘や孫との交流を楽しんだ翌日、家族が民宿の仕事に出かけ家からひと気が消えたのを見計らい、首を括った。

 実は家には、未だ孫が夏休みをいいことに寝ていたのだが、そんなことを気に掛ける余裕は重助にはなかった。いつ自分が正気を失うか定かではない、ことは一刻を争っていたのだろう。
 そして起きてきた孫によって、障子の梁に首を吊っている重助は発見されることになったのである。

 孫は、いや私は、最初梁にかかったモノを祖父だと認識できなかった。
 何か異様に人の形をした、人の気配のしない人ではない何か。モノとしてあまりに雑然としていて、危うく気づかず外に遊びに出てしまうところだった。しかし再度よく見てみると、それはやはり祖父の抜け殻がそこにあった。
 足を引っ張ると、弾力のない皮膚のぶよぶよとした感触がこの体に魂の宿らないことを教えてくれた。昨夜、「マグロの目玉、くうか?」と変わらず無邪気に笑っていた祖父はもういなかった。
 とにかく尋常でない事態であることはわかった。裸足のまま外へ駆け出し、母を呼んだ。

「お母さん、お母さん!!」

 民宿に行って探してみたけれど、そんなときに限って母の姿は見当たらないのである。

「おばあちゃん!おばあちゃん!!」

 二人して姿を消してしまっていた。不安でたまらなかった。足から血が出るほど走れども走れども、知ってる顔が見当たらない。まるで誰もいない世界に置き去りにされたような感覚だった。
 偶然、私の姿を見た近所のおばさんが、「ぼっちゃん、どうしたの」と話しかけてくれたおかげで、そこからは大人たちが全てを担ってくれた。

 それが私の人生で最初に見た遺体である。

 葬式は大名行列のような大がかりなものとなった。地元で実直に商売をしていれば、自然に愛されていくものだ。
 耳無し重助ただ一人だけが、自分自身の卑しい生まれと醜い容姿を理由にして、自らに居場所を与えなかったのだ。勿論、人間はそんなに単純に割り切れたりはしないのだけれど。

 数年後の夏、民宿の目の前にある海を泳いでいると小判鮫の姿を見つけた。近海では珍しい魚だ。
 泳いで追いかけていると、小判鮫はどんどん逃げて行った。海上のブイのもっと遠く、そして深海へ逃げていく小判鮫を追って私も潜った。

 「まずい、戻れなくなる」とそう気づいたときには時すでに遅く、海上に出ようとしてもまるで何かに掴まれたように身体が海中から上がらなかった。じきに意識はなくなり、気づいたときには病院だった。

 そのとき右耳の鼓膜を失い、聴力を失った。あれからずっとカナヅチである。

 そして運命的なものを感ぜずにはおれなかった。重く陰鬱の性格に、容姿や後天的な特徴まで似ているのだ。
 私はおじいちゃん子だったから、別にそれは嫌なことはでない。ただ身内の死は呪いのように私の心の一部を死で覆うようになった。

 月日が経つにつれ、人が死ぬという事実を遠い世界のフィクションではないと強く感じるようになった。今はただ、一刻も早くその日が来ることを願っている。

バレンタインデーを許すな。

 赤道から上下20度経度を広げた高温多湿の熱帯、特に東南アジアにおける一帯を「カカオベルト」と呼ぶ。
 似たようなものにコーヒーベルトというものがあり、これは経度上下25度までと範囲が広い為、カカオベルトの方が範囲が狭い。

 しかし実際には高地でも栽培可能なコーヒーと異なり、カカオは低地の熱帯でなくては育たないという点でさらに栽培可能な地域は絞られる。

 高地での農業は比較的牧歌的である。低地より気候が涼しく、虫が出ず、感染症のおそれも少ない。
 他方、低地のカカオ栽培は、コーヒーより高値で取引される利点はあるものの虫や感染症のおそれを常に抱えながら農作業に従事することになる。
 つまり、人が死に易い土地なのだ。

 人が死に易い土地は、当然命の価値も軽い。
 従事者が死に失われた労働力を補うのに、人身売買が行われる。その主体となるものは、当然暴力によって御しやすい子供たちだ。
 子供が子供の面倒を見、農業を教え、貧弱な装備ゆえに虫や感染症で死のうとも、戸籍のない子供の足跡を追うものはいない。死体は生ゴミとともにその辺の塚に放られ、風化を待つだけである。

 熱帯はまたコカインの原料となるコカノキの栽培にも適した土地でもある。木を隠すには森といったもので、低地に生い茂る森林は遠目がきかない。認められない何かを隠しておくのに丁度いい。

 無論コカノキの栽培も子供たちが担うことになる。
 育った子供たちは、少女のうち美しく育った者は、自らが育てたコカによって狂わされ再度売られることになり、その他は新たな労働力を生む人身御供となり、少年たちは人身売買、麻薬ビジネスに従事していくことになる。
 彼らに罪悪感はない。それが彼らの育ってきた道程であり、日常生活の一部なのだ。

 非合法なビジネスのキャッシュフローの基礎と体裁を健全に装うのが、チョコレートの需要だ。
 世界的な人口増の傾向もあり、チョコの需要がとどまることはない。
 そのたびに東南アジアのどこかで労働力が足りなくなり、子供が売られ、理不尽な病死を経、蜘蛛の巣様に犯罪の連鎖を紡いでゆく。誰もチョコを求めることがないのなら、子供が売られることはなく、コカノキを覆い隠すベールも存在しはしなかった。

 世界のどこかでバレンタインデーというものがあり、少女が少年に恥じらい混じりにチョコを手渡すとき、その手は同年代の少年少女の血で紅く染まっている。

タイ旅行記

 1月の最終週、タイに行くことにした。
 以前より周りからしつこく勧められていたことと、職場の閑散期だったこと、滞在8日間で航空券と宿を併せ3万9千円の格安旅券が手に入ったこと、もうとにかく日本にいてもたまらない心境であったこと等々、種々重なりタイの首都バンコクに到着したのは25日の夕方だった。
 巷で話題になっていたコロナウイルスの影響なのか機内はいつもより空いていたし、片道7時間のフライトももはや慣れたもので、映画を見て寝て、気付いたときには現地にいた。
 極寒の日本と対照的に現地は気温30度以上の陽気で、タイ独特の香辛料の臭いに乗せられ、冬季うつのように沈んだ気分も少しずつ晴れてきた。
 空港のすぐ隣にある古びた駅から、博物館に置いてある骨董のような電車に乗り込み市内へ向かった。
電車はギシギシ軋み、自重で壊れてしまうのを恐れるようにゆっくり、慎重に走った。この電車もそろそろ廃線となりモノレールに置き換わってしまうらしい。線路と並行して工事中とおぼしき近未来的な駅舎が現れては消え、途中の休止線には廃棄された電車が何台もうち捨てられていた。
 車窓から外を見ると、街には路傍で寝る浮浪者がたくさんいた。暖かいから、その辺で寝ていても死なないのだろう。
 そうして呆けていると、ふいに車掌が私の手に捕まえていたレシートのような乗車券をふんづかんで取り上げた。驚いて顔を上げると、彼は乗車券にハサミを入れ、「Have a nice day」と笑顔を見せた。
 女性の化粧や人々の顔つき、肌の色を見ていると、中国の南方人に近い人種なのだと思う。だけどタイの人たちはどうも愛想がいいらしい。中国人の不愛想に慣れているから、くすぐったいような気持ちになった。
古い列車を降り、近代的な地下鉄に乗り換え都心に出る。
 地下鉄の乗車システムや車両は中国の内陸で見たものと同じだった。ベンダーで行きたい駅を選び、現地通貨のTB(タイ・バーツ)を入れると、コイン型のタッチ式乗車券が出てくる。失くさないようコインケースに仕舞った。
 目的地のスクンビット駅で降り地上に出るとTerminal21という大型のデパートがあった。
 初日だし、まともなものを食べて贅沢しようと思い夕食を食べた。タイ料理にはあまり縁が無かったけれど、タイティーという甘いオレンジ色のミルクティも、そのまま食べられる殻の薄いカニのソテーもグリーンカレーも中々どうして悪くないと思った。
 道中、道に迷っているマスクをつけた中国人の集団がいて、少し迷ったものの「まあ春節だからね」と思い、中国語で道案内をした。
 しかし私のことだから、大抵こういう慣れない善行をするとそれが反動となり自分の不幸となるのがいつものことだ。だから冗談半分でツイッターに「また徳を積んでしまった。しかしこれが後に不幸となって返ってくるのだ」と予言めいたツイートをしたのだけれど、まさかこんなにすぐに自らの不幸となって返ってくるとはさすがに思ってもいなかったのである。

 スクンビット近くに取った安宿は一部屋に2段ベッド×4置いてあり8人で寝るような、いわゆるバックパッカー向けの宿だ。しかしシャワーからはちゃんとお湯も出るし、トイレも清潔でトイレットペーパーも完備していたし、どうせ盗られて困るような物などさほどありはしないので、欧米人の足が多少臭うこと以外、特に不満はなかった。
 2日目は朝から近所の寺院を回った。
 バンコクは非常にコンパクトな街で、都心に近代的な建物も密集していれば、~~ワットのような伝統的な観光地も近隣に点在している。
 適当に町を歩きながら、写真をとって旅愁に浸った。
 暑いから汗をよくかいた。ジメジメしているわけではないので不快ではなかったし、便利なことにセブンイレブンファミリーマートみたいな日本のコンビニがそこら中にあったので水分補給するのにもことかかなかった。喉が渇く度、現地のフルーツティを片っ端から試していくのが楽しかった。
 そうやって町を歩いて堪能していると、いかにも客引きみたいな胡散臭い男が話しかけてきた。
「君は中国人?俺も中国人なんだ、血だけはね。生まれがタイなんだよね」
「おれは日本人だよ。悪いけど多分、あんまり君の話に乗ってあげられないと思うよ」
「おっと、じゃあ30秒でいいから聞いてよ。この辺りは寺院が点在してるだろ?歩いて回るのは大変だよな?でもトゥクトゥクなら便利だし、楽しいだろ。でもいちいち捕まえるのは大変!そこで、俺の紹介でその辺のトゥクトゥクに交渉して200TBでここらを一周できるようにしたい。どう、200TBだぞ!」
 まくしたてるように地図を片手に説明する男を見て、最初は相手にしないほうがいいかなと思っていたものの、200TB=600日本円程度という価格を聞いて思い直した。丁度トゥクトゥクにも乗ってみたいと思っていたところだし、まあ話に乗っても良いかなという気持ちになってきた。
「よし、決まりだ!」
 彼が手を挙げると、仲間と思しきトゥクトゥクが一台道端に停まった。
「よろしく!」
 運転手は気さくなおっさんという感じだった。そのままトゥクトゥクに乗り込み、近くの寺院まで向かった。グィン!!とものすごい勢いで飛ばしていく。原付を三輪にしたにすぎないような構造だからなのか、加速は急だし揺れもひどい。その様子を写真で撮ったり配信たりしていると、スマホを落としそうになり運転手に「モノ落としても取りに戻らないからな!」と釘を刺された。
 さて到着した寺院にはいわゆる涅槃仏みたいなものがあり、写真を撮ろうとすると「写真は禁止なんだ」と止められた。
 寺院の中は、やはり町中に比べて多少静かな雰囲気だったけれど、台湾や中国、日本の寺社仏閣で感じるようなあの張り詰めた静謐さはそこにはなくて、やはりそこもタイの陽気なお国柄なんだろうなと思わされた。
 タイの仏像は口紅を塗っていたり金色だったり真っ白だったりして、写真では当然何度もみたことがあるようなものだったけれど、実際に見るとではやはり奇異な感じがした。
 そうして幾つか観光地を回っていると、途中で「ここ見ていけ」といってトゥクトゥクが何かのショップみたいな店の前で停まった。
 店内に入るとテーラーが「どういうスーツが欲しい?」と藪から棒に聞いてくるので、「いや、おれはスーツは要らないんだよ」といって即退店した。
 すると店外で待っていたトゥクトゥクのおっさんが少し不機嫌になって「俺達はこういうお店に客を案内することでガソリンの無料クーポン券を奴らの組合から貰ってトゥクトゥクを走らせてるんだ、別に買わなくてもいいよ、もちろん買ってくれたほうがありがたいけど、でもせめてちょっとカタログを見て「どうしようかなぁ」みたいな態度はとってくれよ!」等と言うのだった。
 いや知らんがな、以上の何者でもないわけだけど、まあ、良いでしょう。そういうコントに付き合うような日があってもいい。何しろタイの陽気でおれは機嫌が良いのだった。
 そんなわけで次に訪問したテーラーでは散々カタログを開いた挙句、「〇〇mmのストライプの生地のラインナップはないのかい?ない?!オー、じゃあここでスーツは買えないよ、んじゃ!」といって颯爽と退店すると、外でトゥクトゥクのおっさんが「いい演技だったぜ!」と親指をたてて手をあげてきたので、ハイタッチを返した。今から思えばやかましいという感じだけど。

 こうして一通り観光を終え、再びその辺を散歩したり、ウィークエンドマーケットと呼ばれる週末しかやっていない夜市にいったり、マッサージ店で疲れを癒したり(マッサージといってもイヤらしいものではない。この国にきて思ったのだけど、どうやら東南アジア系の女に私は全く興味がないらしい)してから、ホテルの近くにある埃っぽいカフェバーに入った。
 暖かいテラスでモヒートを飲みながら陽が落ちていくのを眺めていると、この国に沈んでいく邦人が多いのは全く頷ける話だなと思った。
 町にはいわゆるオネエが溢れていて、目の前の道をカツカツ歩きながらあの独特のトーンの声で何をか喚いていた。こんな光景、日本では二丁目の朝くらいしかお目にかからない。本当にジェンダーフリーの国なのだなと思った。
 翌日の予定をゆったり決め、2日目は終わった。


 3日目、英語でmedical canavis clinicについて検索すると、すぐに医療用大麻を扱う現地の病院がいくつかヒットした。
 当然のことながら外国人に処方箋もなく大麻を配るような病院は殆どないけれど、予め英語の掲示板等を見て目星をつけていたし、前日にバーでいかにもやってそうな白人に聞いてみたところ「そこなら間違いない」という言質が取れていたのである。
 線路脇や高速の下にある貧民窟を抜け、用がなければ到底いかないようなマイナー駅の、古びた汚らしいビルの一角にそのクリニックはあった。
 他の店舗は全て潰れてシャッターが閉まっている中、そのクリニックだけが燦然とコンビニのような光を放ち、堂々と「THC(医療用大麻の成分)」なる看板を掲示していたので殆ど迷うこともなかった。
 クリニックに入り「医療用大麻が欲しいんだ」というと、赤い服を着た派手な化粧の小柄な老婆が棚から色々物色して目の前に並べた。
 大麻入りのお茶が300BT、大麻オイルが1000BT、大麻コーヒー500BT、、、私は迷うことなく一番効能の高そうなオイルを購入することにした。
「舌の裏に数滴たらして、2分置いときなさい、そしたらあなた、ハッピハッピーよ!」等と老婆がガハハと笑った。
 戦利品をカバンに仕舞い、さてこの後どうしようか、と思いながら道路を横断していると、右側からトヨタの中型のピックアップトラックの影が一気に大きくなってくるのが判った。
 「まずい」と直感し後ろに飛びのいたものの、踏み込んだ足の上にトラックが乗り上げ、ミシミシ、という音がした。
 身体は半身避けてはいたものの、トラックのバンパーが横腹に入り体が吹き飛ばされる力を感じた。
 しかし右足がタイヤに捕まっていたので私の体が吹き飛ぶことはなく、エネルギーは潰れた右足を支点にして遠心力をもって体をアスファルトにたたきつけた。そのとき後頭部を強打して、頭の中で卵の割れる音を聞いた。
 ゴーン・ゴーン・ゴーンという鐘のなる音が聞こえ、その辺を歩いていた男たちに担がれ道路の中央分離帯に寝かされた。
 意識が薄れていくのを感じていたが、両手だけ動かすことができた。「痛みを感じてない今のうちに靴を脱がなければ」と思い腿を引き寄せ、靴下と靴を脱いだ。足の感覚は完全になかった。
 手に入れ墨の入った現地の男の一人が、道路に落ちた私のスマホを拾い上げ、私の手に握らせてくれた。
 とっさにその辺の写真をとり、ツイッターに事故報告をした。
 現地の人が何かを言っていたが、耳が聞こえないので「警察と病院だ」とだけ何とか口にした。
 暫くすると警察がやってきたものの、意識だけ残っている私を見て埒が明かないという態度で加害者の男に「病院に連れてけ」と指示を出していた。
 男の車に運ばれ、病院に運ばれている道中、後部座席から日本人が日本語で「ああ、やっちまったよ」と話しているのが聞こえた。
 日本人が乗ってたのか、、、と思っているうちに、ただ感覚がないだけだった両手足や性器から血液が引いていくのを感じた。
 ああ、ここで意識が終わる、もう二度と起きることはないかもしれない、と意識が薄れていくので、友人にお別れのラインを送ったところでブラックアウトした。
 次に気付いたときには病院の担架に乗せられ、運ばれているところだった。
 幸いなことに両手は動いたので、写真を撮りつつ看護師に頭を打ち付けたと告げたけれど、「ええ」という迷惑そうな顔をするだけで、レントゲンを取ったのは右足だけだった。
 何度も気を失い目醒めるということを繰り返し、気付くと手に痛み止めを握らされ、車いすに乗せられたまま病院外の担架が並べられたスペースに放置されていた。金を払った記憶はないのでおそらく加害者が払ったのだろう。
 しかし両手がわずかに動くのみで、自分の体を動かすことはできない。このまま朽ちていくのではないかと思ったとき、膝の上に載っている自分のカバンの中に入っているものについて思い出した。
 大麻...。あれは見つかったらまずいものだ。ここは病院だけど、身元確認のためにおれの荷物は漁られたりしなかったのだろうか。
 口が閉じられず舌が出たままで、涎が流れ出ていた。
 全神経を集中させカバンを開くと、オイルはちゃんと中に入っていた。
 オイルをスポイトで吸い上げ、そのまま舌に垂らした。売人の老婆は数滴といったが、結構な量を顎に流し込んだ。
 オイルの蓋を閉じカバンに放り込むと、目を閉じた。
 そして、私の意識は宇宙と一体化した。

 暗闇の中にいた。
 しかしこの暗闇は閉じた瞼の裏ではない、という確信があった。
 ただ暗く、無限の奥行きがあり、しかしそこには私の肉体を含めて何一つ存在しない虚無の世界だ。止むに止まれず私は唱えた。
「光あれ!」
 一瞬宇宙が閃光に包まれ、無限の光が無限の闇に吸い込まれていくのを感じた。
 依然闇ではあったけれど、原子の暗闇ではない。私は周囲の虚無を粘土のように固めると、地球と星々を飾った。光が反射し輝くのを見て安心した私は、空気・緑・動物・そして人間と文明を生み出した。
 そのとき私は、時間を物理的に扱うことができるのを感じた。
 カーソルをスクロールするように時代を進めると、子たる人らが争う姿が見え、私は2020/1/27/15:00、バンコク警察病院に受肉した。
 受肉するとみるみる神なる力が消えていくのを感じたので、女を生んだ。質量も質感もある、女の実体だ。女は私を慰めると消えていった。
 再度時間を物理として進め、18時頃まで時刻を進めると、誰かが放置された私の肉体に気付いた。
スクンビットのホステルに連れてってくれ」と頼むと、救急車で連れて行ってくれた。
  相変わらず右足は動かなかったが、そんなことはどうでもよかった。
  同室のロシア人に抱えられ布団に沈むと、そのまま翌日の昼まで眠った。


 4日目、目覚め、ツイッターで生存報告をして痛み止めを飲んだ。
 全身が痛い。右足の感覚はまだ無い。とにかく水を飲み、ツイッターで教えてもらった外国人向けのサミティベート病院が近くにあることを調べた。
 幼虫のような歩みで外に出て、健康体なら20分ほどの道程をえずきながら90分ほどかけてたどり着いた。
 外国人向けの病院よろしく、頭を打ったというとすぐ頭部CTをとってくれた。入院を勧められたものの、入院をすると面倒な手続きがいる旨を海外旅行保険を担っているエポスカードの担当者から聞いていたので断った。
 翌日再度脳神経外科に来るように伝えられ、何とかホテルに帰るとそのまま眠りに落ちた。
 5日目も体調が戻らなかった。
 17時に受診予定だったけれど、13時には病院についていた。4時間もある。そこで大麻を使い、時間を操作することにした。17時丁度、目覚めた。
 正確には、病院の待ち合いのベンチで泡を吹いているところを揺り起こされたのだが。
 その間、イヤホンで聞いていた音楽は脳の中でマリアージュされ、音が光の渦となって世界を覆っていた。
 CTの結果は異状なかったものの、体温が38度もあるので検査をするとインフルエンザだった。
 薬を渡された帰り、デパートに寄って何か口にしようと思ったけれど、固形のものは一切受け付けず、ゼリーだけ買い込んで帰宅した。
 ホステルに帰ると同室のロシア人がエアコンの冷房を16度に設定していたので、「寒冷地の出身だから熱帯に耐えかねるのかもしれないが、やめてくれ」と頼むも「暑いからイヤだ」すげなく断られた。
「おれは熱があるんだよ、武漢ファイア!」と咳を吐きかけると、「WTF!OMG!!」等と叫びながら埃だらけの扇風機の強風をこちらに向けてきて凍えるように寒く身体が震えて本当につらかった。
 そこから数日、帰国の日までひたすら高熱にうなされ、重い体をひきずって帰国した。
 未だに鼻孔にタイの忌々しい臭いが染みついていて取れない。もう二度とタイには行きたくない。
おわり

 

疾走

 

 先日、30歳の誕生日を迎えた。
 かつて「30歳まで生きることはないだろう」と思ったことのある多感な人たちの多くがそうだったように、私もそのご多聞に漏れることなくあっさり誕生日はやってきて、20代に何の余韻も残らなかった。

 よほど覚えづらい誕生日なのか、単純にこれまでさほど想われてこなかったというだけのことなのか、これまで「彼女」に自分の誕生日を祝ってもらったことがない。
 あんなに自分の誕生日を私が覚えているか気にしていたあの人も、結局私のことを覚えてはいてくれなかった。とはいえ今回は、その「彼女」自体いないのだけど。

 ただ、過去友人たちのほかに一人だけ祝ってくれた人がいる。Y子だった。
https://datchang.hatenablog.com/entry/2019/12/01/181847

 肝心なことは何一つ覚えられないくせに、そういう人によっては些末な自分に対する愛情のようなものを敏感に検知しては、その意図を思い遣る。その粘着質な精神性こそ私の生き辛さ、そして愛され辛さの本質であることは間違いない。だからそこから脱却しようとしてきたけれど、書かずにおられない心のくびきがある。

 数年前、当時住んでいた亀有に彼女が来てくれ、ご飯を食べに夜の町を歩いた。彼女がマルチかもしれないことはとっくに判っていたけれど、それでも構わなかった。

 「だっちゃんっていつもなんか歌ってるよね」

 冷たい夜風が気持ちよくて、隣を一緒に歩いてくれる人がいて、ただそれだけのことで満たされて、思わずくちずさんだ。
_
コンビニエンスストアで350mlの缶ビール買って
きみと夜の散歩 時計の針は0時を差してる
Holiday’s middnight
少し汗ばんだ手のひらが 子供みたいな体温
誰も知らない場所に行きたい 誰も知らない秘密を知りたい
街灯の下で きみの髪が
ゆらゆら揺れて 夢のようで どうかしてる
今夜だけ忘れてよ 家まで帰る道
なんかさ ちょっとさ いい感じ
歩く速度が違うから BPM 83に合わせて
きみと夜の散歩 それ以上もう何も言わないで
クロノスタシス”って知ってる?知らないときみが言う 
時計の針が止まって見える現象のことだよ
クロノスタシス / きのこ帝国)_

 「きのこ帝国わたしも好き。」
 彼女が言って、私は笑った。
 時間が止まって欲しい。そしてどうか本当のことを言わないで欲しいと願った。独りにしないで欲しい。

 家に帰り、小さい布団で抱き合った。家賃6万の木造1Rは狭くて、外から風俗街のネオンが差し込んで、夜でも暗くなることはない。
 冷気が窓ガラスに曇りをつくっていて、そこに彼女が長い指でハートを描いて、こちらを見て笑った。

 「誕生日おめでと」
 エアコンの暖房の乾燥した空気の中で、赤や緑に照らされはにかんだ彼女の顔を見て、映画のようにきれいだと思った。けれど内心と裏腹に口をついてでたのは照れ隠しの言葉だった。

 「やめてよ、いい大人なのに恥ずかしいよ」

 いい大人がそういうことをして何が悪いんだ、言えよ、ありがとうって、覚えててくれたことが嬉しいって。

 言ったからって何かが変わったとは思わない。そもそも間違いなく、あれは愛情ではなかったのだ、と思う。ただそう答えなかったことを後悔している。与えられた誠意に、誠意で返さなかったことを後悔している。

 愛情の形に似た、愛情ではない偽物の、見ようによっては醜い何か。他人からすればただただ滑稽で、生ごみのように捨ててしまいたくなるような臭くて歪なもの。
 もうクロノスタシスなんて歌わない。止まっていて欲しいような時間や気持ちなんてありはしないし、今後自分にはそういうものが与えられないのだと判ってしまった。
 ネガフィルムのように思い出すたびに劣化をして、"今やよく見えないから美しく見えるんだ"なんて主張をするのは、端からしたら気が狂った人間のありさまだ。
 だけど、私の人生にはそういうものしかない。
 そういうものしかないんだから、これからも「あれは美しい思い出だったのだ」と思い込もうとして、抱きしめていくしかない。
 思い込まなければ。そうでなければ、私のこれまでの人生はただただ醜く他人に疎まれていただけの時間になってしまうではないか!

 だから、せめて彼女の「誠意のようなもの」に、感謝の言葉一つでも添えておけば良かった。

 と、そういうことを思って時間を過ごしてきた。
 できてなかったかもしれない、しかし意識して来たつもりだ。丁寧に、誠意を欠かないこと。自分が、相手が、私といた時間を後で少しでも愛でられるように。

 こうして自分と同じように人生の孤独に惑っている異性に手を差し伸べては、「それでもお前は要らない」と手を振り払われる日々を再び送り始めた。
 淡々と誰の特別にもならない人生を歩いて行く。私にとってそれは砂漠を歩くようなものだった。
 だけど、辛く苦しい考えもこのブログにこうして書き残して置けば共鳴した誰かが見つけてくれるかもしれない、そうすれば報われる、きっと誰かが見つけてくれるのでは…。救われたい一心で文章を書いてきた。

 かくしてこのブログを始めて1年が経った。紐づいているTwitterは10年にもなる。

 ある日、何があったからというわけじゃない。30歳になったからかもしれない。自分のブログを読み返し、この10年で自分が得たものが何一つないことに気が付いた。少なくとも、他人が評価するようなものは何一つない、客観的に見て語るに落ちる日々を歩いてきた。金も稼がず、愛されず、ただ悶えてうずくまり、回顧するだけの男がひとりそこにいるだけだった。

 昔、女友達と秋田に旅行に行ったとき、友人ばかり撮る私に彼女が「少しはだっちゃんも写りなよ、幽霊と旅してるんじゃないんだから」などと言って赤ら顔の私を撮ってくれた。
 そんな彼女から、昨年結婚するにあたって私のうつった写真を削除したと聞いた。
 もちろん不安要素は消しておくべきだ、やっと掴んだ幸せなんだから当然そうすべきだ、と思い、他の結婚した女友達にも私の写った写真を消しておいた方が良いよ、と伝えた。

 周囲の景色だけ遷り変り、私だけが「数年前」の世界に閉じ込められている。まさに幽霊だ、呪縛霊のたぐいだと思う。いてもいなくても変わらないし、自分さえ自分の存在を求めてない。何ならいない方が良い。

 幽霊なのに、ここで描いた苦痛は色あせることなく苦しい。
 苦痛を記して置く行為そのものが私に与えたものは、劣化しない鮮明な苦悩の記憶だけで、誰かが私を見つけることはなかった。

 砂漠を歩いていたから気付かなかった。自分はただ同じところを延々と回っていただけだった。そして自分が足掻いていたことの全てが無駄だったと気付いたから、もう私は疲れて、歩けないと思った。
 時計の針をわずかでも前に進めたい、その先が闇だったとしても、もうここにはいられないと思った。
 だから、ここで筆をおくことにする。

マルチの女

 Y子は千葉県出身で、国立大学に在学している時分、公認会計士試験に合格した。
 最大手の外資監査法人に就職したが、監査法人の仕事はブラックで終電帰りもザラだった。
 学生時代から付き合っていた男は浮気して離れて行った。意識が朦朧とし、その間どのように仕事をしていたのか、それは彼女自身も覚えていない。
 とにかく目の前にある仕事を片付けることに取り憑かれていた。生理も長い間来なくなったが、かえって面倒ごとがひとつ減ったくらいにしか考えていなかった。

 

 そんな日々を数年送っていたある日、目覚めると、雨が降っていた。
 身体がいやに重たかった。前日も晩い帰りで3時間睡眠だったこともあり、それは特別なことではないように思えた。
 とにかく布団から這い出し、栄養ドリンクを飲み、シャワーを浴び、昨日の化粧を落として今日の化粧をした。そして出勤するため、ドアに手をかけた。
 開かなかった。
 おかしい、何度強く引いても開かない。このままでは遅刻してしまう。
 年単位で染みついたルーチンを乱され、Y子は激しく狼狽した。それでもドアは開かなかった。会社に休む連絡をし、数年ぶりに有休を使った。
 翌日も雨が降っていた。ドアは開かなかった。その日も会社を休んだ。
 3日目も雨だった。雨は強さを増していたけれど、カーテンから朝陽が差し込んでいることに気付き、もう限界なのだと悟った。

 

 その日、会社に辞める旨の電話をした。
 自分がいなければ回らない仕事があり、困る人がいる。あれだけ強く信じていたはずなのに、会社はあっさり辞意を承諾した。雨が止み、ドアが開いた。
 気が付くと、Y子は30歳になっていた。

 

 その後、新橋にある無名企業の経理としてさして忙しくない職を得た。
 しかし数か月もすると、公認会計士なのに簿記くらいで務まるような仕事をしている現実と、前職と比べて半分以下の手取り、明らかに落ちてしまった生活水準の狭間で焦燥感に襲われるようになった。埋め合わせをするように婚活をしたが、うまくいかなかった。
 そんな折、何かのパーティで出会った女に誘われて、品川にあるタワーマンションのホームパーティに参加した。

 キャッシュフローゲームという人生ゲームのようなもので遊びながら、彼ら...おそらくY子以外全員...の「ラットレースから脱出する」だとか「経済的自由」だとかいう能天気な青写真を聞かされ、その具体性と蓋然性の虜となり、マルチの一員となった。
 彼女自身のビジネスはさておき、本業の経理職の傍ら修行と称して「メンター」と呼ばれる人たちのビジネスを手伝うことになった。「メンター」の中には、Y子を誘った女も含まれていた。
 他の「新規参加者」と比べて決して若くはなかったけれど、元々優秀で何事もそつなくこなすY子はたちまち頭角を顕した。
 理路整然として強いY子に憧れて入会する若い女も少なくなかったし、長身で美貌で話術に長けるY子が男たちを「パーティ」に誘い込むことは勿論造作もないことで、その度に「メンター」達から大いに褒められた。
 これまでさして称賛を受けたことのないY子にとって、それは禁断の果実だった。

 Y子と初めて会ったのは5年前、当時私は25歳で、街コンで知り合った男の友人が恵比寿で開いてくれた5:5の合コンだった。女側の幹事として女4人を連れてきたのが、当時31歳のY子だった。4人はそれぞれ別の街コンでY子が声をかけ連れてきたのだという。
 6歳も年上のY子に当然相手にされるなどと思っているわけもなかったが、ひとまず後日全員にお礼のLINEを送ったところ、Y子から会って話してみたい旨の返事が来た。

 年上で長身美人のY子からわざわざ連絡が来るきな臭い意味を察せないはずは当然なく、それでも万一にかけて新橋のカフェで会って話した。
 しかし出て来るのは当然「キャッシュフロー」だの「不動産」だの「金持ち父さん貧乏父さん」だのといったマルチに典型的な言葉で、ガッカリはしたものの、彼女の人生について俄然興味は湧いてきた。それに、それはそれとしてY子とは話が合った。


 当時、与信審査の仕事をしていた私と経理をしていた彼女とでは関心事がそう遠くなかったし、おっとりした雰囲気に居心地の良さを感じてしまっていた。他に予定もさしてなかったから、それからデートを重ね、彼女を抱く日もあった。
 初めて抱く年上の女は優しくて、相変わらず婚活がうまくゆかず氷のようにトゲトゲしくなる心を溶かしてくれるようだった。彼女のことを好きになり始めていた。
 一人暮らしをして借りた部屋に入る最初の女がマルチだなんて笑えない冗談だと思ったけれど、それでも彼女しか私にはいなかった。

 

 「まあ少しは手伝ってよ」と誘われ、五反田で開かれたY子主催の「異業種交流会」で集金係をしたこともある。
 明らかに連れてこられたと思しき無垢の大学生が不安そうにしていたので、こっそり「飯食ったら早く帰りな」等とアドバイスをした。
 そこで私は彼女の「メンター」達と実際に会うことになり、品川のタワマンで開かれる予定の「キャッシュフローゲーム」に参加して欲しい旨の説得をされ日時と場所も教えて貰った。けれど金にも困っていないし、今は出世したいから経済的自由にも興味はない旨つたえて断った。それは当時偽らざるところだった。
 のらりくらりと彼女や彼女の友人達からの「お誘い」を躱しているうちに、彼女とは段々疎遠になっていった。

 

 数か月ぶりに来た彼女からの連絡は、「グループの大物が帰国するので、会わせたい」「1対1で会えるのは今だけ」というものだった。
 しかし興味はあった。

 品川のタワマンなんていう逃げることのできない場所ではなく1対1(実際にはY子がいたけれど)で会えるというのであれば、ヤバくなったとしても幾らでも逃げようがあるように思えた。
 指定された大井町のロータリーでY子と待っていると、白いSクラスのベンツがやってきて、浅黒い長身のイケメンが降りてきた。

 ベンツに乗り込み、「公演」をする為に五反田に向かうまでの車内で数十分話をした。株式市場や先物市場のごく一般的な知識を披露されて、Y子はふんふんと目を輝かせて話を聞いていた。

 「興味あったら、次の公演に来て欲しい」

 とだけ言われ車を降り、メールアドレスを交換した。相手はそれ以上の誘い文句を口にしなかった。判り易いフックもなく、この会合自体の意味が不明のままで気持ちが悪かった。

 「だっちゃん、あの人の話がわかるの?凄いね!」

 Y子が興奮気味に話すのに鼻白んだ。
 それから何度かY子と食事をしたけれど、私はもう疲れてしまって、彼女からの誘いに乗ることはなくなった。

 

 その後、街コンや合コン、アプリでマルチの女には何人も出会うことになったけれど、深く関わることになったのはY子だけだった。

 

 それから数年経ち、昨年の冬、久々に連絡の来たY子とカフェで話をした。何百人も、いや何千もの人と連絡先を交換しているはずの彼女が数年前に知り合って響かない私に改めて連絡してくるのは何か奇異に思えた。
 日比谷のプロントで、35歳になったY子と再会した。その顔は単なる時の流れ以上に疲労し憔悴しているように見え、目の輝きを失っていた。
 だけど、それは私も同じことだった。

 「おれ結構ヤバいかも、破産するかもしれない」と伝えると、Y子は「そうなんだ」とだけ口にして、深く追求はしてこなかった。

 色々話をしたけれど、
 「だっちゃん、婚活している女友達に教えてあげて。女はね、30歳までなら何とかなる。どうにでもなるんだよって。」

 口にした言葉遣いや目の動き、その所作が妙に生々しく脳裏に焼き付いている。
 最後まで、彼女が私のことをどう思っていたのか判らなかった。私は彼女に好きだと言わなかったし、彼女も私との関係について言及することは一度もなかった。十中八九どうにも思っていなかったのだろうけど、それでも聞いておけば良かった。

 彼女が一度話してくれたことがある。彼女は経済的自由を獲得して、絵本を作りたかったのだ。絵が苦手だから、絵を描いてくれる人を探さなきゃ。それまでに話をたくさん考えておかなきゃ。そんなことを話していた。
 だけどそんなことは、まともに働いていたら経済的自由なんて無くたってできるようなことなのだ。だから結局、本当のところは現実がただただ嫌になっていたんだろう。

 夜、私の部屋で、隣に寝ている彼女が照れながら、「あるところに、うさぎさんがいました」と話してくれた彼女の絵本の話を、私はもう覚えていない。

 別れ際になり、
 「もう、会えないかもね」
 Y子はそう言って改札に姿を消した。LINEも消え、連絡をとる術は失われた。彼女に教えて貰ったタワマンの部屋は、売りに出されていた。

The smell of raindrops, won't you say you'll be alright

 

 高校生のとき、当時遠距離で付き合っていた彼女に会うために、バイクの免許をとった。

 当初は交通機関を使って通っていたのだけれど、バイクがあれば色んなところに彼女を連れて行けるし、彼女をバイクの背に載せて海辺を走るような、そういう青春に憧れていた。

 それに当時彼女は千葉の館山に住んでいたのだけど、房総半島では1時間に一本も電車がない。そういうことにも辟易していた。

 

 16歳の誕生日と共に免許を取得し、ドラッグスター400という中古の大型のバイクを譲り受けた。

 

 月に1,2度、早起きし、まだ薄暗い時間からバイクを暖気した。

 コーヒーを飲んで、菓子パンを頬張り、精一杯髪型を整えた。結局、ヘルメットに潰されてしまうのだから意味なんてないのだけど。

 

 港からフェリーに乗って東京湾を渡り、鋸山のふもとから長い長い海岸線をひたすら南下する。

 夏は暑くて、潮風で肌がベタベタしたし、冬は寒くて手にヒビが入った。私の住んでいた神奈川の片田舎から、片道2時間半の道程だ。

 だけど全然苦にならなかった。

 

 色々な場所へ行った。

 初めてのカラオケ、ラブホテル、行き先も決めずにただ彷徨ったこともある。

 鴨川シーワールドで、シロイルカのぬいぐるみが付いたキーホルダーをお揃いで買った。それは高3の終わりまで付けていたから、真っ黒になってしまった。

 

 海辺の天気は変わり易くて、天気予報を確認してもよく雨に降られた。

 雨の日の道路は、マンホールが良く滑る。慎重に二人乗りのバイクを操作し、やっと彼女を送り届けてから、また二時間半かけて帰宅する。

 

 会った翌日は、二人でよく風邪をひいた。

 そんなときは二人で学校を休んで、ずっと電話で話していた。喉の枯れた声を二人で笑った。それで良かった。二人で過ごす時間より大事なものなんてこの世界には無いことを、私たちは知っていた。

 

 

 彼女の家は貧しかった。

 海辺のバラックを家族で借りていた。トイレは汲み取り式だったし、クーラーもついていなかった。両親は大抵仕事で家を留守にしていたから、雨の降っているときは彼女の家で過ごした。

 湿った毛布に二人でくるまって、ただただ時間が過ぎるのを待った。

 

 ビタビタと雨音が天井を打ち、見上げると蜘蛛が巣を作っていた。目を閉じて胸に顔をうずめる彼女を抱きながら、その蜘蛛から目が離せなかった。

 隙間風が音を立てて家に吹き込み、不安になる。孤独な世界に遭難して、ただ二人きりの生存者だ。

 彼女を離したくない、と確かにそう思っていた。

 

 しかし結局、彼女とは5年程度付き合って、別れることになった。

https://datchang.hatenablog.com/entry/2019/02/23/213353

 

 大学卒業後、彼女は非正規の仕事を転々とした。大抵は、接客業だった。

非正規の仕事で女性の一人暮らしは覚束ない。彼女は家族と一緒に松戸の狭いアパートに家族4人で引っ越した。

 彼女のお父さんはうつ病になり、お母さんは館山で美容室を開いていたけれど、経営がうまくいかなくなり宗教にはまった。

 彼女のお母さんはしっかり者だったけど、こうあるべきものはこうあるべき、とそういう思い込みの強い人だった。いつかは戸建ての家を持ちたい、人並み以上でいたい、そういう思いでずっと働いてきた。

 だけど夫の追加の借金が判明して、そのうえ働けなくなったり、自分の稼ぎもなくなったりして、何もかも思い通りにならないと判ったとき、依り代を現実の世界には見いだせなくなってしまった。楽ではない暮らしの中から、多額の金銭を宗教に奉納していた。

 彼女の決して多くはない収入の殆どが、その寄付金に吸い上げられていた。

 

 私が就職してから暫くして、再会した彼女はやつれていた。

 

「いま、通関士の勉強してるんだ。親がとれっていうの」

 

 まだ資格は取れていなかったけれど、勉強中だと面接で言ったところ、神田駅の近くに在る貿易関係の会社の事務職員として正規採用された。給与も条件も、中々悪くなかった。

 

「おめでとう、あとは合格するだけだね。個人的には早く家を出た方が良いと思うよ、当面、おれの部屋にいてもいいから。」

 

 就職祝いに、彼女にロクシタンのハンドクリームを渡した。

「あなたは本当に優しいんだ、ちゃんと見て貰えたら、きっと好きになってくれる子が現れるよ」

 

 だけど、彼女は転職してから3か月持たなかった。

 事務職特有のぎすぎすした空気感や、重箱の隅をつつくような書類の不備を指摘されることに耐えられなかったのだという。

 退職日に神田駅のカフェで食事をし、一通り経緯を聞いた。うつを発症しふさぎ込む彼女に、おれは何も言えなかった。

 暫く長い沈黙のあと、彼女が口を開いた。

 

「私なんかにご飯も奢って、プレゼントまで渡して、本当に損したね。あなたの人生って、いつもそんな感じだよね、そういうとこが気に入らなかった」

 

 LINEをブロックされ、そこから暫く連絡をとることはなかった。

 

 

 思い立ち、有休をとって館山まで一人で出掛けた。そこには彼女の言うとおり「空き家」の貼紙がされていて、廃墟同然となったバラックがあった。

 これは墓標だ、と思った。

 彼女と私は、ここで永遠にまつわる約束を沢山した。若く幼い、友人の少ない孤独な二人だったから、本当に滑稽なくらい清い約束をしたのだ。

 大人になり、それらが決して果たされることのないモノなのだと頭ではわかっていたけれど、それでも私はそれを後生大事にしていた。空手形でもそういう約束をしてくれた人が確かに居た、というただそれだけのことが、この世界のどこかに再び自分のことを受け入れてくれる誰かがいるのではないか、という希望になっていた。

 けれども、館山の海辺で思い出の墓標を目の当たりにして、心の中から何かが失われてしまうのを感じた。

 

 

 翌年、再び連絡が来て彼女と食事をした。

 彼女はネットのアプリで知り合った4歳年下の美容師と結婚することを決めていた。婚約者は、まだ専門学校を出たてで、金がなかった。

 

「ねえ、50万貸して。良い仕事に就いてるじゃない。今なくても平気でしょ。私"たち"は、今必要なの」

「金、ないんだ。婚活全然うまくいかなくて、余裕ないんだよね」

「そうなんだ。なんか、情けないね、ほんと。なら働かない方がいいじゃん」

 

 図星を突かれたと思った。

 満員電車に揺られ、誰にでもできる仕事をして、家に帰る。ご飯を食べ、寝て、また会社にでかける。節制なんてしなくても、少しずつお金はたまる。上司に怒鳴られたって、別に死ぬわけじゃない。

 だけどふと考える。「何の為にこんなことをしているんだ?」ただただ時間が流れるのを待つだけの、寧ろどちらかといえば苦痛寄りの人生に、一体何の意味があるんだろう。

 わかっていた、自分には理由が必要なのだ。

 

「私は●●の為に生きているんだ、実存なんて問うな!」

 伴侶、子供、名誉、娯楽、なんでもいい、誰かに言い訳をしなければいけない。しなければ、もう人生の無意味さに耐えられない。

 彼女の一言は、言葉にしないことで、すんでのところで踏み止まっていた私の背中をトン、と押し出す無情に聞こえた。

 

 食事の帰り道、同じ路線だったけれど、「少し見て回りたいから」とウソをつき、改札で彼女を見送った。一刻も早く独りになりたい、と思っていた。

 

「死んだりしないで」

 

 顔をあげると、彼女が私を見据えていた。途端、踵を返し改札へと消えて行った。

 

 コンビニで買ったチューハイを飲みながら、一駅分歩いた。

 彼女の言う通りだ、なんて情けないんだろう。情けなくて、どうしようもなくて、何度も立ち尽くした。おかしな顔をしていたのだろう。すれ違うホストの私を見て笑う声が頭に響いていた。

 

 

 それから2年経ち、今年、千葉の館山を中心に台風15号の猛威を伝えるニュースが報じられる頃、LINEに電話がかかって来た。

 

「元気でやってる?わたし今、静岡にいるんだ。」

 

 彼女の話だと、どうやらあの海辺のバラックは、台風で完全に大破してしまったらしい。何もかも風雨に洗い流されてしまった。

 私たちの思い出には、墓標さえ与えられなかった。

 

「実はね、子供うんだの。見に来て欲しい。あなたには沢山ひどいことしてきたけど、良かったら」

 

 別にもういいよ。そんな昔のこと。

 

「お金も借りる用事ないから、安心して」

 

 本当に勝手だな……。

 

 ふふふ、と笑う彼女の声の中に、付き合ってた頃の優しい声を思い出した。高校生の頃、彼女はひたすら優しかった。彼女の作る料理は美味しかった。多くを望み過ぎず、物事がうまく転がり続ければ、良い母親になれるはずだ。それが難しいのかもしれないけれど。

 

「わかった、会いに行くよ。いつにしようか」

 

 Googlemapで調べると、私の家から彼女の住んでいる町まで、2時間半だと判った。

 

「2時間半か~、結構遠いな」

 

 自分で口にして思った。そうか、2時間半は結構遠いんだ。昔のおれ、偉かったなぁ。

 直接会いに行ったって、また傷つくだけかもしれない。それでも彼女の幸せそうな顔を確かめたい。

 そうしたら、私たちの人生はいつか花開く日が来るんだと、私たちの人生はそういう仕組みになっているんじゃないかって、少しは信じられそうな気がする。

 

In to the wild.(荒野へ)

 鏡の向こうには、グランドキャニオンが広がっていた。
 それを見て、おれはただ、立ち尽くすしかなかったのだ。

 先月某、髪の毛を切りに近所の1,000円カットへ出かけた。どうせポマードで整えるのだ、高いところへ行く必要はない。
 7・3のツーブロック、サイド1mmと堅い仕事に就く社会人としては攻めた髪型だ。成形も簡単らしく20分ほどでカットは終わる。
 いつものように美容師が「はい、後ろもこれで大丈夫ですか~?」と事務的に手鏡を後ろに回し、確認を求めた。

 そして、おれはそこに確かに見た。美容師の持つ手鏡の中にグランドキャニオンを、雄大な、荒野の姿を。

「はい、大丈夫ですよ」

 平静を装ったが、何一つ大丈夫ではなかった。心臓は早鐘を打った。息が苦しい、早く外へ出なければいけない。

 (禿げてるやんけ...!)

 元々、そのけはあった。
 そのけというのは、毛の話ではない。いや、もちろん毛はあったのだが、ここでは気の意味だ。まぎらわしくて申し訳ない。
 東洋医学では男性は8の倍数で体質が変化するという。

 8、16歳は、まだ幼いから良いとしよう。問題は、24歳だ。
 当時婚活に没頭していたおれは、明らかに抜け毛が多いのを感じていた。口の悪い女友達からは、

「だっちゃん~、腐った油の臭いがするよ~(顔をひんまげて)」

 等と言われていたが、どうしようもなかった。
 結局まえにも書いたのだが、「シャンプーをしない」というトリッキーな解決策で窮地を乗り越えることになる。
 そこから数年、安定期が続いていた。
 ところが一昨年、昨年は、容姿については正直どうでもいい、もう関係ない、そういう気持ちが先行して、頭皮について心を配ることはなかった。
 自分の後ろに、後頭部にヒタヒタと迫る脅威について、考えが及ばなかったのである。

「まさか、こんなことになってたなんて...」

 正直、泣きたい気持ちだった。
 ハゲは全てを滑稽にする。
 例えばおれが交通事故で死んでも、「足を滑らせたのかな?ツルツルなのは頭なのに。滑って移動してたのかよ」という誹りを免れない。
 仮に自殺しても、「ハゲてたから...」と勝手に合点されてしまうだろう。
 何か不愉快なことがあって、「ふざけるなよ、こんなこと許されるかよ!」とおれが怒鳴っても、絶対誰かが「プッ!」と吹きだす、そういうエネルギーが、ハゲにはある。

 ハゲは全てを滑稽にする、ハゲは全てを滑稽せしめるのだ。

 おれはブログもシリアスな感じで書いてるし、それだけは絶対に避けなければならない。何を書いても「でもハゲてるんでしょ?」と言われたら何もかも終わりなのだ。だがまだ助かる、マダガスカル!

 速攻で育毛サロンについて調べていた。神は一体、いくつのカルマ(業)を背負わせるというのだろう。
 だがハゲたくないという思いは、それはそのまま老いる自分を、未来を意識しているということでもある。そういう意識は大事にしたいと思ったのだ。

 されどおれには金もなかった。毛も無ければ、金も無いのである。いやまだ毛はある、マダガスカル!自分を鼓舞することも忘れなかった。
 何社か検討したけれど、無料体験を実施していたバイオテックに相談してみることにした。
 ネットで予約すると折り返しの電話があり、すぐ入れるとのことで近隣の駅にあるサロンに向かった。

 そこは普通のマンションの一室だった。
 エレベータで入ると、白いワンピースを着たむちむちの悩ましい長身の美女の施術師が出てきて、どういう生活をしていたのか、通り一遍の質問をされた。
 そして白く細い指で、おれのグランドキャニオンをなぞり、かきわけ、スコープみたいなもので写真を何枚も撮ったのである。
 おれは生唾を飲み込んだ。ゴクリ、女に音が聞こえてはならない。慎重に、だ。
 女の熱い吐息が頭皮に当り、熱を帯びる。
 なんてスケベなんだ、ハゲそう、いやハゲない、マダガスカル!

 

「ちなみに、ハゲレベルでいうとどのくらいですか?」

 

 客観的な点数が欲しいと思って訊いてみた、すると

 

「うーん、そうですね、ハゲレベルでいうと30ハゲレベルくらいですね!」

 

 等と元気なお返事。は?ハゲレベルっていうのはおれだけの指標なんだが?勝手に客をハゲレベルでスコアつけてるんじゃあないぞ!という複雑な乙女心が湧いてくるのを感じていた。


 とりあえずお姉さんの観測の結果、頭皮の状況がそんなに芳しく無いということを聞いて施術に向かった。シャンプーをしてくれるらしい。
 しかしサロンの様相は呈しているが、これは普通のマンションの一室、ふつうにひとんちである。
 むちむちお姉さんに代わり、若い女の子が出てきて髪を洗ってくれるという。
 おれの髪にお湯をかけながら、
「どこから来はったんですか~?」
「これからどこ行かはるんですか~?」
 などと間延びした関西弁で世間話を振ってくる。後ろでは、他の施術師たちがきゃいきゃい言ってるのが聞える。なんだここは、あの世か?どこいくっていうか、今イキそうだ、マダガスカル!

 特別な溶液か何かで髪の毛を洗うと、すぐ謎のマシンが出てきた。
「はい、ではオゾンをふきかけますよ~」

 オゾン?O3だって?!いや知らんけど、猛毒だって理科の時間に習ったぞ、お前、そんなものを頭に吹きかけたら、あ、もう終わった、と思った。

 だけどおれは、生きていた。また死ねなかったのか...。
 女たちに開放されたおれは、ドッと疲れていた。

 後日、経過観察の為にもう一度バイオテックに行ったのだが、またしても別のムチムチお姉さんが出てきた。店長だという。年齢はおれと同じか、少し上くらいだろう、何て色香なんだ。耐えられない、マダ略
 耳を済ますと、他の男性客が「はい、出張のお土産!」等と施術したちに物品をわたし、「キャー!ありがとうございます~」等と言うのが聞える。キャバクラじゃないか。

 おれも少しくらいなら出しても良いかなと思っていたけれど、店長の説明を聞くとおれの今の状態からふっさふさの頭皮に戻るには、年100万以上かける必要があるとのことだった。

「持ち帰ります」とおれが言うと、店長が焦った顔をした。
「え、逆にどうしてですか?何かご不安があるんですか?」
「いやほんと、持ち帰ります」
「あ、さようでございますか」

 店長の顔からスーッと色が引いていくのがわかった。女ってすぐそういう顔するよね、最後まで頑張れよ!
 店長に見送られ外に出たおれは、松屋の牛丼を食いながら「あとでミノキシジルとプロペシアの錠剤注文しよ~」と思ったのだった。

 おわり

自分には、ほとほと失望した。

 ある朝、まだほの暗い時間帯に、少し早めの電車に乗った。
 もう30分もすれば身動きがとれないほどの人であふれる乗車駅だけれど、この時間ではまだ「ふつうに立って乗ることができる」。
 発車し、寝起きのぼんやりした頭で景色を眺めていると、まもなく次の駅で止まった。

「あああああ!なんなんだよおおおおお!!」

 ホームで気が触れた男が叫んで地団太を踏んでいて、それを駅員が宥めようとしていた。たまにはそんな日もある。すぐ隣で誰かが暴れていたとて、多くの乗客にとってそんなものは大した感慨のある光景ではない。みんな、歯を食いしばって正気を保っているだけで、何かの拍子に正気でいるインセンティブを失ってしまったら、正気とは何なのかど忘れしてしまったら。いつ自分がそうなってしまうか判らないのだ。
 誰もが正気を失わず生きて行くことに必死で、正気を失ったあとに人生が続いていることなんて、想像したりはしない。


 去年、自分の人生にうんざりしていたおれは、正気でいることを辞めた。
 紆余曲折あり、死ぬ機会を得た。しかし最期まで踏み切ることはなかった。
 おれの自殺"的"行為は、死なない可能性を十分残した「願わくば死にたい」程度のものだった。そうして人生の決定的な部分を、天か何かに委ねたい様の甘えがあった。
 屋上のカギが空いている地上数十階のビルを知っているし、毎日自殺者の出る駅に行く方法だって知っている。だけどそこへは行かなかったし、決定的な行動に及ぶことは終ぞなかった。
 そうこうしているうちに、「良い精神薬が手に入ったから」等と嘯いて、死にゆく狂人の振りをすることを辞めた。つまり正気を失い切れていなかったのだ。だから今もこうして生きている。
 生きて、正気の街に帰って来てしまった。


 電車を降り、会社近くのコンビニのイートインで朝食をとり、スマホを眺め時間を潰した。
 朝9時半、出社時刻となりコンビニから出ると、丸ノ内のビルの鏡面ガラスに太陽が乱反射して、まだ5月だというのにコンクリートから湯気が立ち上っている。
 昨年もこの景色を見た気がする。まるで丸々1年時間が飛んでしまったようで、「去年起こったことは何もかも夢で、別に何も起こらなかったのだ」と言われれば、そうであるような気もしてくる。そのくらい変わり映え無い日々に戻ってしまった。
 ひとたび出社したが最後、窓の無いコンクリートの部屋で囚人のように数時間打っ棄るまで、その日はもう、太陽の光を見ることはない。

 社会に馴染めない人間にとって、自分が特別な人間だということが救いになる。
 
 自分のような社会不適合者が、結局再びまともな仕事...誰にでも替えの利く仕事を、生活の為に始めた。
 そういうことにおれは名状しがたい憤りを覚えた。

 昨年、ブログのいくつかのエントリに反響があって、そこで「物書きとして食っていける」と言われたことをまんまと真に受けて、小説でも書いてみようとしたけれど、何だかんだと言い訳をつけて、何も書こうとしなかった。書きたいものがなかった。
 それこそ才能の欠缺そのもので、結局何も形にすることができず、金にもならないブログのことなんて忘れようと思った。

 そうこうして、他にすることもなくなって、また惰性のように婚活を始めた。
 今のおれは起業家でもトレーダーでもない。収入が下がり、貯金を失い、将来に見通しが立たず、ただただ自信を失ったボンクラだ。当然、不発の日々が続いた。

 何人、何十人と会った。 与えられた作業をベルトコンベアでこなしていくように、日々スケジュールをこなしていく。
 昔誰かが「狂気とは即ち、同じことを繰り返し行い、違う結果を期待すること」だと言ったらしいけれど、狂気なんて大層なものを持ち出さなくても、一定の確率で世の中に変人はいるものだ。

 昨晩、女の子に告白を受けた。

「だっちゃんのこと、凄く素敵だと思います。お付き合いしたいです」と言われた。

 同い年の可愛らしい子だった。そんなことを言われたのも久しぶりで、舞い上がり、「おれも、君のこと好きだよ」というと、顔を覆い目を潤ませ照れていた。おれも中々どうして捨てたもんじゃない、とすぐ調子よく思ってしまった。

「きっと、すごく誠実な人だなって思ってたんです。ずっとそういう人が良いと思ってて、でもだっちゃんみたいな人、いなくて」
「だから、お互い隠し事の無いお付き合いがしたいんですよね。」

 屈託のない顔でそう彼女に告げられ、もう隠せないと思った。いつかは伝えなければいけないこと、伝えればどういう反応が返ってくるか、判り切っているようなこと。
 それを隠し通すような覚悟も無かった。

 でも、もし奇跡みたいなことがあるのだとしたら。もしかしたら...

「実はね、色々失敗して破産したんだ。本当にごめんね」

 彼女の顔から、みるみるうちに色が引いていくのが判った。

後ろ手に束ねた 恥じらいの花束が揺れる 


 都会のサラリーマンなんて、字面で見れば華やかに見えるけれど実際のところ物理的に拘束されてその我慢料を手にしているだけに過ぎない。
 そうして毎日時間と心を切り売りしている内に、トルストイが家庭の幸福の中で「人生における唯一の確かな幸福は、他人の為に生きることだ」と語っていたのはどうやら確からしいということを知った。
 おれは自分の為だけに生きることのできる人間ではない。

 だから家庭を作ろうとしたけど、叶わない願いだった。
 醜悪で金のないおれを愛し、特別な存在にしてくれる女なんてそう居はしないし、ましてや子どもを持つのはその先の話だ。

 だけど実際のところ、おれは自分が限界だと判っていた。一刻も早く許されたかった。自分がこの社会に存在していて良いこと、誰かの為に生きること、そういう証が欲しかったのだ。

 ある日、孤児院出身の人物が主人公の映画を劇場で見た。

 その映画自体はとんでもない駄作だったんだけど、独り合点することがあった。
 そうか、少額でも寄付すれば、自分はこの世界の誰かの為に生きていることになるのかもしれない。

 これまで「寄付」だなんて偽善じみたことを蹴飛ばして生きてきた自分にとって、そういうことに及ぶ人間の心が理解できなかったのだけど、それはつまり誰かに存在を許して貰いたかったからなのではないか、と納得した。
 自分自身の子供ではないけれど、「恵まれない子供たちの為に働いている」というのは、砂を噛むような日々を耐え忍び自分を納得せしめるのにこれ以上ないくらい良いアイデアに思えた。
 丁度、当時住んでいた部屋の近所に孤児院があったのでそのサイトから毎月、クレジットカードで自動で引き落としがかかるようにした。金額を月500円、年6,000円とほんの少額に設定したのは、そこは生来ケチなんだろうと思う。
 寄付することに慣れていなかったので、最初はわずかばかり自分は何かいいことをしているかのような気持ちにもなった。

 だけどそんな高揚も、長続きはしなかった。
 毎月500円多く引き落としがかかったところで生活には何ら変化は起こらないし、結局のところおれを誰かが面と向かって特別な存在なのだと告げてくれないことには満たされるものもなかった。

 そうこうして生活が荒れていくのに合わせて、自分がそういうことをしていたんだということ自体、日々の喧騒に流されて忘れていた。

 

 およそ2年の月日が流れ、先週の日曜日。

 暇を持て余していたおれは図書館で本を借りるついでに初めてその施設に行ってみることにした。考えてみれば、実際に施設や子どもたちのことを見たことさえなかったのだ。

 小田急線沿いの坂道だらけの住宅街をバスで30分、アクセスの悪いところにある団地の一角にその施設はあった。
 ここはおれの生まれた町でもある。懐かしい町に吹く春風はまだ少し冷たいけれど、気持ちいい。

 フェンスから中を覗くと、子供たちがはしゃいでいた。想像していたより色んな年代の子供がいるようだった。
 学童保育みたいな光景だな、と思った。彼らのこれからは、決して明るい事件ばかりではないだろう。親がいないことや昔あった嫌な過去に何度も直面することになるんだろう。
 だけど、やりかたはいくらでもある。中には社会を巧く泳いでゆける人間もいれば、おれと違って家庭を持つ者もいるんだろう。そういう未来への可能性に眩暈がした。

 そして内臓を鷲掴みにされるような苦痛を覚えた。
 もはやおれは経済的に破綻して、クレジットカードは止まり自動引き落としは決済不能になったはずだ。これから寄付する余裕はもう無い。
 昔、ある女の子に「だっちゃんは優しいから、きっと良い父親になれるよ」と言われたことを思い出した。とんでもない思い違いだった、おれは僅か500円さえ子供たちに差し出すことができない人間だ。
 自分の子供に責任をとることなんて遥かに難しい。ただただ社会からリソースを奪い去っていくだけ、何も与えず、何も生み出さない、存在そのものがまるで虚無のようだ。
 助けが必要な人に手を差し伸べ、許しを求めたはずが、それでもお前の手は要らないと払われたように感じた。

 自分の許されなさ、所在なさに途方に暮れて呆けていると、「あの」と話しかけてくる女がいた。30代半ばくらいの若い職員だった。目の奥に、微かに怯えと警戒の色があった。

 

「何か御用でしょうか?」

「いえ、何でも」

 

 逃げるようにしてその場から立ち去った。元から関わりのない子供たちについて考えるのはもうよそうと思った。
 感情が過多になって、その日は中々寝付けなかった。

世界最大級の廃墟 華南モールからの脱出

 数年前、中国の東莞という南方の都市を旅しているときに「華南モール」を訪れたことがある。
 華南モールは一時世界最大になったこともある中国最大のショッピングモールで、中国のいわゆる建築バブルのときに建造された。
 ところがその広さゆえに十分なテナントが集まらず、奥に出店すればするほど客のアクセスが悪くなる。結果、敷地の大半が廃墟と化し、麻薬の売買等の温床と化している。
 単一の建築物としては世界最大級の廃墟だ。

 

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 空港からバスを乗り継ぐこと約6時間、華南モールに到着した。

 海辺の都市と比較すると町は荒廃気味で、打ち捨てられた建物は山ほどあって決して景気はよくなさそうだった。

 

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 ただ、電車は走っていないけれど(中国人にとってごく一般的な交通手段の)バスはいくらでも走っているし、辺りは通常の居住区になっている。近くには東莞可園という観光名所もある。バカげた大きさにさえしなければ、尻尾から頭まで普通のショッピングモールとして成立していただろう。


 坪単価なんか気にしてる時点で発想が日本的なのかもしれないが。

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 外周は一応大通りに面しているだけあってマクドナルドやスーパー、高速バスのチケット販売所等のテナントが入っていて、にぎわっていた。だけど、それは表面の皮一枚だけの話だ。モールに併設された遊園地は、実質閉鎖状態になっている。

 

 

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 内部は広大で入り組んだ迷路のようになっていて、奥へ進むにつれ電灯が消え、どんどんひと気がなくなっていった。建築途中で放棄されていたり、一応設置されている造花やベンダーには分厚い埃が載っている。

 

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 外の人の声も届かないほど奥へ来ると、自分以外の人類が全員死んでしまった終末世界に放り込まれたような感覚になった。本来人がいるべき景色に誰も人がいないのは不思議な気持ちがする。
 ときおり、日本ではきかない種類の鳥の声がキィキィ響いていた。

 

 

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 時刻は既に夕方で、電気のついていないような場所に長居しては所在を見失ってしまう。最深奥では長居せず、外へ出ることにした。

 外周は大きな円になっているので、近所のおじさん達が太極拳をしたりランニングコースとして使用されていて、外から見る分には決して廃墟感はない。

 

 


 まあこんなもんだろうと思いつつモールの外周を歩いていると、巨大樹の根のオブジェの横に、「いかにも」という風情でドアが開いていた。

 

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 ああこれは誘われてるなと思い、入ってみることにした。完全に神経がマヒしている。

 中にはジャングルがあって、うち棄てられたジャングルクルーズがあった。ボートやゴンドラを模したレールの上を走るカートに乗って、施設内に設置されたオブジェクトを見て回るという、遊園地とかによくあるアレである。

 

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 勿論、柵を飛び越えジャングルの中を探検することにした。

 子どもの頃から、ディズニーランドの海賊船や、ジャングルクルーズのボートから降りてセットの世界を歩いてみたいと思っていたのだ。夢が叶ったというものだ。
 オブジェのマンモスに、オブジェの原住民、オブジェの太古植物にアノマロカリス。

 そういうものに直に触れて、何だかワクワクしてジャングルの奥にどんどん分け入っていった。

 暫く中を歩いていると、イヤホンをしていて気づかなかったのだけれど、遠くの方で何か音がしているのが判った。イヤホンを外した。

 

 ヴィー!ヴィー!ヴィー!ヴィー!

 

 考えるまでもない、警報だ。警報が鳴っている。一体いつから鳴っていたんだ?


 施設内遊園地の大半が死んでいたので油断していたけど、一部のアトラクションは稼働していたのだ。そして運悪く、それが、このジャングルクルーズだったのだ。

 ガサガサと人が近づいてくる気配がする。男の怒声で何かが聞こえる。何を言っているのか判らなかったが、完璧に聞き取れたフレーズがある。

 

「パオパオパオパオ!パオパオパオパオ!」

 

 パオ(跑)とは、「走る」という意味の中国語である。

 転じてパオパオパオと連続で遣うときは、軍隊でいう「現場急行」みたいな意味だ。

 ヤバイ、捕まったら間違いなく一旦はボコボコにされるだろう。その上で裁判にかけられて実刑がつかないとも限らない。そんな例はいくらでもあるのだ。
 もう汚れなんて気にしていられない。おれはとにかく暗闇のジャングルから脱出することにした。革靴のまま水の中に膝まで浸かって、必死に走った。おれは足が速いから、とにかく出口まで辿り着ければ逃げおおせるはずだ。
 時折ピカピカ光っている赤や紫の警戒色の電灯が危機的な状況を煽り立てる。

 

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 肺が破裂するほど走って逃げ、遂に外の光が見えるところまで辿り着いた。

 そこにあったのは、流れる河が滝となり奈落へ吸い込まれていく断崖絶壁だったのだ。迫る追っ手、正に状況は絶体絶命。だけどもう、選択肢はなかった。
 おれは意を決して飛び降り、"坂"を転がっていった。

 

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どうみても断崖


 そして、何とか逃げおおせ、現実の世界に還ってくることができた。

 捕まってたら、一体どんなことになってたんだろう。
 インディ・ジョーンズばりのジャングルからの大脱出劇を演じて心臓が早鐘を打っていた。妙なところをぶつけたらしく、腕が痛い。

 しばらく震えが止まらなくて、思わず笑えてきた。